瞳は裸になってシャワーの下に立った。熱い雨が勢いよく降り注いで、汗ばんだ肌を快く洗い流して行く。——稽《けい》古《こ》の後のシャワーの気持ち良さに、うっとりすることがある。まるで、シャワーを浴びるためにフェンシングをやっているみたいだわ、と時々思うほどだった。
髪にたっぷり湯を含ませ、指を通すと、溢れ出る流れが、背中を落ちて行く。
「ああ、いい気持ち……。あ、そうだ。あんまりゆっくりしていられないんだわ」
ジェイムスが待っているのだ。瞳はもう一度、ひとしきり湯を浴びると、シャワーを止め、バスタオルで体を拭った。
もう夜の十時になっていた。ここしばらく、忙しくて稽古場へ来ていなかったので、少し遅かったが、オーケストラの練習の後、ジェイムスに送ってもらって、やって来たのだ。
ジェイムス……。不思議な人だ。鏡の前で身づくろいしながら、瞳は思った。私みたいな子供を食事に誘って、面白いのだろうか。とても女性にもてそうだし、事実、洗練されたその物腰を見ていると、女性の扱いに慣れていることがよく分かる。
そう、きっと珍しいのかもしれない。——日本の女。それもまだ若い娘がどんなものか、興味があるんだろう。それだけのことだ、きっと。
「それだけよ」
口に出してみる。自分でも驚くほど弱々しい呟きだった。言いたくない、信じたくない、と思っているかのようだ……。
稽古場へ戻ると、ジェイムスが剣を手に、手《て》馴《な》れた様子で、型を鏡に映している。
「あら! 上手なんですね!」
ジェイムスは微笑して、
「いやいや、余り得意じゃないんだ」
「でも、とても型がきれいでしたわ」
「お賞《ほ》めにあずかって嬉しいよ」
「先生は帰られました?」
「ああ、さっきね」
「そうですか。悪かったわ、遅くまでお引き止めしちゃって」
「いや、君のことを、弟子一番の腕前だと言っていたよ」
「あら、また冗談ですか?」
「本当だよ」
瞳はちょっと考えてから、
「——ね、一勝負いかが?」
「私と?」
「ええ、稽古をつけて下さいな」
「とんでもない。私が教えてもらう方だよ。ではちょっとやってみるかね」
「このままでいいでしょ? 軽く——」
「分かった」
ジェイムスは、とても瞳のかなう相手ではなかった。瞳がどんなに鋭く踏み込んでも、軽く払われてしまう。
「ちょっと暑くなったね」
ジェイムスが軽く息を弾ませた。「もっとやるかね」
「もう少し!」
せっかくシャワーを浴びたのに、とも思ったが、瞳はもう夢中になっていた。せめて一本でも取りたい、と思った。
「よし、ちょっと待ってくれ。喉《のど》が乾いた」
ジェイムスは稽古場の隅の、自動販売機で缶入りコーラを出して、一口飲んでから傍の台へ置くと、
「よし、もう一勝負行こう」
「必ず一本取りますからね」
「取れるかな?」
額に汗が浮くのも構わず、瞳は懸命に攻めた。——二人が熱戦をくり広げている間に、稽古場の開いたままのドアから、一つの人影が音もなく滑り込んだ。二人とも全く気付かなかった。その人影は、二人の目に付かぬよう、物陰を伝って、そっとコーラの販売機の陰に身を潜めると、手をのばして、ジェイムスが飲みかけのままにしておいたコーラの缶の中へ、小さな錠剤を落とした……。
「一本!」
瞳の剣の先がジェイムスの腕をかすめた。
「お見事!」
「——わざと取らしたんじゃないんですか?」
肩で息をしながら訊いた。
「いや、今はこっちも本気だったよ」
ジェイムスは顔をハンカチで拭った。「大した気迫だった」
「ああ疲れた! すみません、勝手言って」
「いや、とても楽しかった。久しぶりだよ、こんなに手合わせしたのは」
「じゃ行きましょう」
「運動してお腹が空いたろう?」
ジェイムスは飲みかけのコーラをぐいと飲みほした。
「とっても!」
「それじゃ今夜は特大のステーキだな。ぐっと分厚く」
「二人前食べるかもしれませんよ」
「こいつは大変だ! 英国政府に給料を上げてもらわなくちゃ」
「あら、私、またあなたは生まれながらの財産家かと思ってました。——ジェイムス! どうしたんですの?」
ジェイムスが胸を押さえてうめいた。顔が苦痛にゆがんでいる。瞳は慌ててかけ寄ったがジェイムスはそのまま床へ崩れるように倒れてしまった。
「ジェイムス! ジェイムス! しっかりして!」
顔は蒼《そう》白《はく》で、玉のような冷や汗が顔から噴き出している。苦痛がひどいせいか、かみ合う歯がギリギリと音を立てた。
「お医者さんを——救急車を呼んで来ます! 待ってて!」
立ち上がって駆け出そうとした瞳は、凍りついたように立ちすくんだ。——目の前に、黒いスーツを着た男が静かに立っていた。金髪、澄んだ碧《あお》い眼、薄い唇……。忘れたくても忘れようもない。「伯爵」だった。
伯爵の右手に、黒く鈍い光を放つ拳銃があった。——瞳はその銃口がジェイムスヘ向けられるのを見て、思わず間へ立ちはだかった。
伯爵は焦《いら》立《だ》たしげに、拳銃を動かして、瞳にどけと合図したが、瞳は動かなかった。
「卑《ひ》怯《きよう》者《もの》!」
瞳は英語で言った。伯爵はちょっと眉を上げると、やはり英語で、
「英語が分かるのか。それなら話しやすい。さあどくんだ」
「いやです」
「死にたいのかね、一緒に?」
瞳は黙って伯爵をにらみ返した。顔から血の気がひいて行くのが分かる。
「君のように無関係な人間は、極力殺したくない。まだ若いんだ。命を大切にしたらどうだね」
「さっさと撃《う》ったらどうなの!」
瞳は叫んだ。「どうせ抵抗できない相手しか殺せないんでしょう。『伯爵』ですって? とんでもないわ。相手に薬を飲ませてから殺すなんて卑劣なことをするのが、伯爵なの? 最高の殺し屋だっていうから、もっともっと正面から闘うかと思ってたけど、こんな卑怯者だとは思わなかった。さあ撃って! 日本で無抵抗の娘を殺したって、ヨーロッパヘ帰って自慢したらいいんだわ!」
仮面のように無表情のまま、瞳の叫びを聞いていた伯爵は、しばらくじっと押し黙っていたが、やがて、
「いいだろう」
と呟くように言って、拳銃を背広の下のホルスターヘ収めた。「ここには真剣がおいてあるかね?」
「ええ。どうして?」
「私と勝負して、私を傷つけることができたら、ここは手を引こう。その代わり、君の命も保証しないぞ」
「いいわ」と肯く。
「真剣を取って来い」
稽古場に真剣など置かないのが普通だが、ここの正面の壁に、一種の装飾として、二本の真剣が交差して掲げてある。瞳は台に乗ってそれを外すと、一本を伯爵へ投げた。伯爵は冷ややかに笑って、
「けがをして泣き言を言うなよ」
瞳は剣を手に、構えた。伯爵の剣がヒュッヒュッと空を切って、伯爵も左手を腰へ当てて構える。——瞳は背筋を鋭く戦慄が走るのを覚えた。相当な腕前だ、と分かったのだ。しかし、今さら後には退けない。
闘うのよ! ジェイムスの命がかかってるんだわ。どうせさっき撃ち殺されるところだったのよ。命はないものと思って。——闘うのよ!
「えい!」
思い切って突いて出る。伯爵は軽くかわすと、逆に激しく攻め返して来て、瞳は慌てて後退した。伯爵は深追いせず、まるで楽しむように瞳が突っ込んで来るのを待った。瞳は猛然と打ち込んだ。
剣の触れ合う金属音が稽古場に響き渡る。瞳は思い切り息を吸い込むと、息を止め、刺し返されるのを覚悟で、相手の胸元へ飛び込んだ。伯爵の体が横へ飛んで、瞳が泳ぐように態勢を崩したまま踏みとどまる。向き直るより早く、伯爵の剣の先が、左腕をかすめた。セーターが切れたが、肌までは届かない。
瞳は必死に呼吸を整えつつ、身構えた。危ないところだった。——今度は落ち着いて!
「そら行くぞ!」
突然、伯爵が一気に攻撃に出た。息つく間もなく、鋭い突きが襲いかかって来る。何本もの剣が一度に向かって来るようで、瞳は必死に払いのけながら、どんどん後ずさりしていき、背中が壁についてしまった。
横へ逃れようとしても、伯爵の方も素早く動きながら攻めて来るので、動きが取れない。もう剣の雨は防ぎきれないほどになっていた。追いつめられたままでは、殺される! 瞳は反動をつけて思い切り飛び出した。ほとんど伯爵へ体当たりするようにして、辛うじて稽古場の中央へ転がり出る。
やった! 切り抜けた、と思ったのが隙《すき》を作った。はね起きた瞳が身構えるより早く、伯爵の剣先が胸元へ白い光の筋を引いてのびて来る。アッと飛びすさった時は遅く、瞳は左の胸に鋭い痛みを感じた。白いセーターにゆるやかなふくらみを見せる左の胸から、赤く血がにじんで来る……。
「どうだね?」
と伯爵はほとんど息も弾ませずに言った。
「まだやるのかね?」
大した傷じゃないわ。瞳は自分にそう言い聞かせた。しかし、もう瞳は限界に来ていた。疲れ切って、肩で息をしている。剣がひどく重かった。足もしびれたように、言うことをきかない……。
床に倒れていたジェイムスが、かすかに目を開いた。かすんだ視界に、剣を交える姿が見えたのか、必死の形相で、身を起こそうともがいた。辛うじて仰向けになると、震える手で左のわき下のホルスターから、拳銃を抜く……。
伯爵はネズミを弄《もてあそ》ぶ猫のように、疲れ切った瞳を徐々に壁際、それも角へと追いつめて行った。
もうだめだ、と思った。手にした剣が震えている。
「覚悟はいいかね」
伯爵が、攻めの構えに入った。
銃声が響きわたった。伯爵が左の腕を押さえた。ジェイムスが横になったまま、震える手で引き金を引いたのだ。
伯爵がジェイムスと瞳ヘチラリと視線を投げた。
「今日は引き上げる。運がいいぞ!」
伯爵は剣を投げ捨てると、足早に稽古場から出て行った。
「——ジェイムス!」
「大丈夫か?」
「ええ……ええ……」
再び稽古場は静まりかえった。瞳の耳には、自分自身の激しい息づかいと、鼓動しか聞こえない。——手から剣が落ちた。
瞳は、壁へもたれたまま、ずるずると床へ座り込んでしまった。頭の芯《しん》までしびれたようで、何も考えられない。全身、汗だくで、まるで水をかぶったようだった。
やっと目が覚めたのは、もう昼も十二時近くだった。広いベッドで一人、起き上がって部屋を見渡す。——ああ、そうだ。ここはホテルなんだ。
瞳は、あの後、会田へ連絡して、ジェイムスともども病院へ運んでもらった。そして、もう遅いというので、近いホテルヘ泊まることにしたのだ。
けだるい気分だった。昨日、命がけで闘ったのが、まるで夢のようだ。——あれは現実だったのだろうか? 夢だったような気がする。ずっと昔にみた夢のような……。
のびをしようとして、左の胸が痛んだ。
「あ痛っ。——夢じゃなかったんだわ」
医者で手当てしてもらう時の恥ずかしかったこと、本当に、こんな所を刺されるなんて! 思いだしただけで、瞳は頬が赤らむのを感じた。
下着にガウンをはおって、瞳はベッドから出ると、カーテンを開けた。ずっと眼下かなたに、東京の町並みが広がっている。
「あ、学校——」
今日は休むことにしたんだっけ。佐野先生に電話した。あれは夢じゃなかったかな?
ドアの開く音がした。振り向くと、ジェイムスが、いつもの笑顔を浮かべて立っている。スマートなスーツ姿、血色の良い顔色、いつものままだ。
「もう大丈夫かい?」
瞳は急に何かが激しく胸をつき上げて来るのを感じた。安心感と、疲労感と、喜びと、腹立たしさと——すべてが入り混じって、津波のように彼女を呑み込んでしまう。
瞳はいきなり駆け出すと、ジェイムスの胸に身を投げ出した。そして、すすり泣いた。自分でも訳が分からなかったが、ただ堰《せき》を切ったように、涙が溢れ出て止まらないのだ。
ジェイムスはいつまでも、彼女が泣くに任せておいた。
「——ごめんなさい」
泣き濡《ぬ》れた笑顔で、瞳が見上げた。「背広汚したわ」
「君は命の恩人だ。スーツの一着が何だい」
「ほんとだわ。——少しは、いばっていいのかしら? ジェイムス」
「はい、お嬢さま」
「お願いを聞いて」
「何なりと」
「キスして下さい」
「抱きしめると、傷口が痛くない?」
「構いません」
「また血が出るよ」
「やめて!」
瞳は逞《たくま》しい腕に抱きしめられ、唇を重ねた。——初めてのキスとは違っていた。燃え立つような、情熱的なキスだ。胸の傷がチクリと痛んだが、少しも苦にならなかった。
「ああ……ジェイムス……あなたが好きです」
瞳は訴えるように囁いた。「昨日は、あなたのために死のうと思いました。でも……今は、 愛してほしいんです!」
ジェイムスは黙って瞳を見つめた。
「……あなたは……大勢女の人を知ってるんでしょう? 私なんかより、ずっときれいな人を……。でも、私だってもう子供じゃありません」
瞳は息をつくと、「——いけないかしら?」
と呟くように言った。
「いけない。——今は」
「なぜ?」
「君はまだ昨日のことで、気持ちが昂《たか》ぶってるんだ。当たり前だよ。命をかけて闘うなんて、君には初めての経験だろう。——そんなところへつけ込むのは、私の主義に反する。それになにしろ——」
と微笑んで、「まだ昼間だ」
瞳は目を伏せて、何度か息をつくと、笑顔になって、肯いた。
「分かりました」
「いい子だ」
「子供じゃありません!」
すかさず、瞳が応じた。