「どこへ行くんですか?」
ジェイムスの運転するポルシェに乗って、瞳は訊《き》いた。
「病院だ」
「病院?」
「あの裕二という青年の入院している病院さ」
「意識を取り戻したんですか?」
瞳は思わず声を弾ませる。
「ニュースによると、間もなく意識を取り戻しそうだということでね」
「まあ、よかった!」
ジェイムスが続けて言った。
「実際は全く見込みが立たない」
瞳が当惑顔でジェイムスの顔を見た。
「時間の問題なんだ」
ジェイムスが説明した。「残された時間は明日、明後日の二日間しかない。もしヴァイオリンが戻らなかったら、演奏会は中止になるだろう」
瞳にもそれはよく分かっていた。素《しろ》人《うと》が考えれば、他のヴァイオリンで弾けばいいようなものだが、世界的な銘器が十台以上も抜けたら、オーケストラの音は大きく変わってしまうだろう。
たとえ聴衆のほとんどがその音色の違いに気付かなかったとしても、演奏者自身が納得しないに違いない。一流であることの誇りが、そんなごまかしを許さないのだ。
「犯人から連絡は?」
「まだない。しかし、もう一億円払っても、ヴァイオリンが無事に戻るという保証はない」
「それじゃ……」
「裕二という若者に犯人を教えてもらう他はないわけだ」
「でも、意識を取り戻す見込みが立たないって……」
「そうだ。我々としては、彼が目覚めるまでいつまでも待ってはいられない。ともかく時間を切られているわけだからね。そこでニュースだ。ホテルの駐車場ではねられた被害者が意識を取り戻すのは時間の問題とみられています、とね」
瞳はやっと理解した。
「おびき寄せるんですね。犯人を?」
「その通り」
「また裕二さんを殺しに来ると……?」
「わざわざ車で後をつけてひき殺そうとした奴《やつ》だ。諦めはすまいよ」
瞳はちょっと考え込んで、
「——でも、危険じゃありませんか。もし本当に裕二さんが殺されてしまったら?」
「万全の警戒はするよ」
ジェイムスは厳しい顔つきで言った。「しかし、あまり厳重にすれば、犯人が手を出すまい。——ある程度の危険はやむをえない」
「分かります。でも……」
「何だね?」
「もし殺されてしまったら……」
「大丈夫だよ」
ジェイムスは肯いてみせた。
「担当の工《く》藤《どう》です」
まだ三十代前半と思えるその医師は、清潔な白衣の似合う好青年で、滑らかな英語を話した。
「患者の容態はどうでしょう?」
ジェイムスが訊いた。
「何とも言えません」
工藤医師は首を振って、「酸素吸入をしていますが……」
「助かりますか?」
瞳が訊いた。
「五分五分というところです。若いので体力がありますから、希望は持てますが」
「昏《こん》睡《すい》からいつさめるかは……」
「それは予測がつきませんね」
「そうですか」
ジェイムスは一つ咳《せき》払いして、
「実はそのことで、お願いが……」
工藤医師のデスクの電話が鳴った。
「あ、ちょっと失礼」
医師は電話で何か話していたが、そのうち、
「何だって?」
と声を上げた。「そんなニュースは聞いてないぞ。もちろん発表もしていない。だから——」
工藤医師が言葉を切って、目の前に座っている二人を、まじまじと見つめた。そして、再び口を開くと、
「ちょっと待ってくれ。後でこちらから、かける」
受話器を置くと、工藤医師は、一つため息をついて、
「これはどうやら、あなた方の仕《し》業《わざ》のようですね」
「ですから、その件について説明しようとしていたんですよ」
「ご説明を伺いましょう」
工藤医師は苦り切った表情で、ひじかけ椅子にもたれた……。
「——とんでもない!」
工藤医師が目を丸くした。「患者をおとりに使うんですって? 全く論外です」
「そこを何とか——」
「だめです! いいですか、万に一つでも患者に危険を及ぼすようなことを許すわけにはいきません」
「警戒は我々で万全の体制を——」
「何と言われてもだめです! 犯人を見つけたいのは、私も同様です。しかし、そんな危険な計画に加担するわけには行きません」
ジェイムスの言葉にも、工藤医師は極めて頑固だった。ジェイムスはお手上げ、といった顔で、席を立つと、
「ちょっと電話をお借りします」
「どうぞ」
ジェイムスはダイヤルを回した。しばらくのやりとりの後、やっと目指す相手につながったらしい。簡単に事情を説明すると、受話器を工藤医師に渡した。
「イエス?」
工藤医師はあまり気乗りのしない様子で受話器を取ったが、ふたことみこと、しゃべると、
「イ、イエス・サー!」
と、急にどやしつけられたように椅子に座り直した。
「イ、イエス・サー。……イエス・サー……」
こわれたレコードのように同じ文句をくり返しているばかりで、それでいて目はカッと大きく見開き、白昼夢を見ているのではないかと疑っている様子。
「イエス・サー」
最後の「イエス・サー」が終わって、受話器を戻すと、工藤医師は額を拭った。
「——分かりました」
と、やっとの思いで口を開く。「協力しますよ。しかし十分気を付けてやって下さいね。何かあれば、私が全部の責任を負うことになるんですから」
「ご心配なく、決して危険はありません」
ジェイムスは力強く肯いて、言った。
「では、まずどうすればいいんですか?」
「あのニュースは全部事実であると、ドクターに認めていただきたいんです。できるだけ、すぐにも意識を回復しそうな印象を与えるように」
「分かりました」
工藤医師は諦めたように肯いた。
K大学病院は鉄筋の真新しい八階建てで、色とりどりの花壇が美しい前庭、回復期の患者が思い思いに散歩や日光浴を楽しむ、広々とした芝生など、都内の病院とは思えない、ゆったりとした造りになっている。
瞳は八階の窓から、広い芝生を見降ろしていた。そろそろ黄《たそ》昏《がれ》時《どき》で、風の冷たさに、患者たちが慌《あわ》ててえりをかき合わせながら、病棟へ戻って来る。
瞳は振り向いて、ベッドに眠りつづける裕二を見やった。——青ざめた血の気のない横顔が、ビニールの膜の中に見えている。胸がかすかに上下して、弱々しくではあるが、呼吸しているのが分かる。そうでないと、まるで死んでしまったのではないかと思えるほど、裕二は身動き一つしないのだ。
「頑張ってね、裕二さん」
瞳はそっと声をかけた。——楽器泥棒の一味なのかもしれないが、瞳には彼が悪い人間だとは思えなかった。ストラディヴァリを瞳のケースヘ入れたり、瞳のヴァイオリンを、きちんと返して寄こしたりするのだから、泥棒にしても妙な泥棒である。
それに……何といっても、初めてキスをした相手なのだ。本当に、会ったばかりの裕二に、どうしてあんな気持ちになったのか、瞳自身、不思議でならなかったが、ともかくこの人なら構わない、と瞳に思わせる何かが、裕二にはあった。直感的な信頼感といったものだ。
今は、瞳の胸は、あの不思議なイギリス人のことで一杯だが、裕二を忘れてはいなかった。ジェイムスに対しては、情熱が燃え上がれば燃え上がるほど——反対に、決してこの恋は叶《かな》うはずがないという思いも深まった。イギリス人で、四十代の男盛り、危険に身をさらす職業の中で、人生を巧みに楽しんでいる男……。そんな男が、日本の、まだ高校生の小娘を本気で相手にするはずはない。可哀そうだと思うから、——いや、あえて言えば、任務に必要だから、その間だけ、慰めていてくれるのだろう。
別にそれでも構わないわ、と瞳は思った。この恋がほんのひとときの閃光で終わっても、悔いはない……。
裕二のベッドの傍に、大きな酸素ボンベが置かれていて、吸入装置を通して、ビニールの膜の中へと酸素を送り込んでいる。
裕二さんが元気になったら、瞳は心の中で呟《つぶや》いた。きっといいお友達になれる。恋人にだって——いつかは——なれるかもしれない。
ドアが開いて、ジェイムスと会田が顔を出した。
「やあ、具合はどうだね?」
会田が訊いた。
「相変わらずのようですけど」
「いや、君の方さ。昨日は大奮闘だったというじゃないか」
「いいえ! 大したことじゃ……」
と頬を染める。
「どこか、けがしたって? 大丈夫なの?」
「大丈夫です!」
もっと真っ赤になりながら、瞳はジェイムスをにらみつけた。ジェイムスは涼しい顔で、
「警備の方の態勢は整えたよ」
「人数は少ないが、優秀な連中だ」
と会田が誇らしげに言った。
「ところで、君にはすまないんだが、今夜一晩、この部屋にいてもらえないだろうか?」
ジェイムスに言われて、瞳は快く肯《うなず》く。
「もちろん、そのつもりです」
「まず危険はないと思うが……」
「これがあります」
瞳は赤いこうもり傘をひょいと持ち上げて見せた。会田が、
「こわいなあ、あまり見せないでくれよ」
と腹をさする。その様子があまり実感が出ていて、瞳はふき出してしまった。
「この病室にいれば、まず危険はないと思うよ」
ジェイムスは窓を開けて、頭を突き出し、上下を見やった。
「のっぺりした壁だから、昇って来るのはまず不可能だしね。屋上からロープで降りて来るにしても、高い金網の柵《さく》を乗り越えなくてはならない。屋上には二人配置してあるから、心配ないよ」
「あなたはどこにいるんですか?」
会田がおどけて、
「こいつは常に女のそばさ」
「おい!」
ジェイムスが苦笑して、「私はこの階の当直室にいる。ガラス戸越しに廊下がずっと見渡せる所だ」
「分かりましたわ」
「それでは、戦いの前に、腹ごしらえ、といこうじゃないか」
「お二人でどうぞ」
と会田が言った。「ここは俺が見ているよ」
「その心掛けなら出世するぞ」
ジェイムスがからかった。
「あの若者の身元が分かったよ」
大学病院の地下食堂で夕食をとりながら、ジェイムスが言った。
「どんな人なんですか?」
「名は東《あずま》裕二。九州から上京して来て、一人で暮らしている音楽大学の学生だ。親からの仕送り一切なしで、アルバイトだけで学費と生活費をまかなっていたらしい」
「無理だわ! とても高いのに」
「そうだろうな。大学ではかなり成績も優秀だそうで、教師たちの評判も非常にいい。それが、あんな事件に関わったのは、たぶん金のためだろう」
「でも一体どうして……」
「彼の父親はヴァイオリン製作者なんだ。腕はいいらしいが、職人気質《 か た ぎ》というか、自分の気に入らない作品は、タダ同然でくれてやってしまうので、暮らしは苦しいようだ。しかしそんな環境で育って来たせいか、彼にはヴァイオリンを見分ける力があるらしい。そこが一味に目を付けられたところだろうね」
瞳は肯いた。自分のように、両親を亡くしても、こうして好きな音楽に打ち込んでいられるなんて、恵まれているのかもしれない……。
「ご両親には知らせたんでしょうか?」
「いや。申し訳けないが、まだだ」
ジェイムスは首を振って、「今、ここへ来られては、我々の仕事がやりにくくなる。もちろん、これがすめば、すぐ飛行機を予約して来ていただく。——ひどい奴だと思うだろうね」
瞳はちょっとためらってから、
「思います。でも——あなたはあなたの仕事をやっているだけですもの」
「人間味のない仕事だがね」
「きっと——裕二さん、助かりますわ」
「そう願うよ」
「ニュースは、もう……?」
「流してある。敵が動き出すとすれば、今夜だ」
二人はそれきり、黙って食事をつづけた。