瞳は、ふっと目を覚ました。
いつの間にか、椅子に座ったままウトウトしていたらしい。病室の中は薄暗くて、静かだった。ベッドの傍の小さなスタンドと、奥に座っている瞳のそばにあるテーブルに、やはり折りたたみ式のスタンドが灯っている。
「何時かな」
腕時計を見ると、夜中の一時になるところだった。もう木曜日になってしまったのだ。今日と明日。二日の間に、巧く楽器を取り戻すことができるだろうか?
きっとジェイムスならやってくれる。瞳はそう信じていた。
眠気ざましに、病室を横切って、窓から外を眺める。——外の芝生には、ほの白い水銀灯の光が落ちて、草色のカーペットが広がっているように見える。病院なのだから、庭に照明など必要ないようなものだが、患者にとっては、窓の外が真っ暗というのは、あまり気持ちのいいものではないらしい。
「本当に静かだわ」
口に出して呟いてみる。——この静かな建物の中で、大勢の人々が病気と闘っているなんて信じられない……。ふっと微笑が洩《も》れる。私だって闘ってるんだわ。
ドアにノックの音がして、「私だよ」とジェイムスの声がした。ドアを開けると、
「コーヒーだ。そろそろ眠くなる頃だろうと思ってね」
と紙コップを手渡す。
「ありがとう! でも、ちょっと眠っちゃった」
「おやおや、大丈夫かね?」
「ええ、もう眠らないわ」
「あまり固くなっちゃいけない。かえって少しリラックスしている方がいいんだ。緊張しすぎると周囲に気を配れなくなる」
「あなたは看護婦さんばかり眺めてるんでしょう」
「いつからそんな皮肉屋さんになったんだい?」
ジェイムスはニヤリとした。
「会田さんは?」
「彼は一階の出入り口を張っているよ」
「面白い人ですね」
「そう、気のいい奴だ」
ジェイムスはひと息ついて、「さて、もう一時すぎか。そろそろ——」
その時だった。突然、明かりが消えた。二つのスタンドだけではない。外の芝生も、廊下も、当直室も、すべての明かりが一斉に消えてしまったのだ。塗りつぶしたような闇の中で、瞳は凍りついたように立ち尽くした。
「ジェイムス!」
「動くな。慌ててはいけない。目を慣らすんだ」
「どうしたんでしょう?」
「停電かな。しかし——」
廊下へ出ると、ところどころに取り付けられたカドニカ電池の非常灯が、何とか足もとを照らすぐらいの光を投げている。
「よかった。明かりがあるのね!」
当直室の方から、大きな懐中電灯を二つ手にして、白衣の男が走って来た。近くに来ると、工藤医師と分かった。
「大丈夫ですか?」
とジェイムスヘ懐中電灯を一つ手渡す。
「ありがとう、ドクター。何事です?」
「分かりません。電気系の故障だと思いますが……」
「しかし、こういう大病院では、停電の場合に備えて、自家発電の装置があるのではないのですか?」
「あります。電気が止まると、十秒以内に動き出すことになっているんですが」
「なぜ動かないんです?」
「分かりません。今、下へ人をやってあります。何しろエレベーターも動かないので」
「でも、これだけでも明かるければ、大丈夫でしょう」
と瞳が言うと、工藤医師は首を振って、
「いや、お嬢さん、この明かりはカドニカ電池で灯ってるんです。問題は機械類が停止してしまうことなんですよ」
「どういうことです?」
「例えばあなた方のこの患者にしても、この停電で酸素の供給装置は停止してしまっているんです」
「まあ! それじゃ早く何とかしないと——」
思いもかけない事実に瞳は慄《りつ》然《ぜん》とした。
「いや、四、五分はビニールの中の空気はまだ清浄ですから大丈夫」
「それ以上になると?」
ジェイムスが訊く。
「何とも言えませんね。直接ボンベから吸入させるのは、圧力が高すぎて、かえって危険です」
「ジェイムス、まさかこれが犯人の仕業じゃ……」
「だとすると、まんまと裏をかかれたわけだ。自家発電装置が無事だといいが」
「もしやられていたら大変です!」
と工藤医師が青ざめた。「他にも大勢の患者が、二十四時間、色々な装置に守られて生きのびてるんですよ。——みんな死んでしまう」
「神様!」
「落ち着くんだ。ドクター、電話で、下の様子を訊いてみてもらえませんか?」
その時、廊下の奥の階段から、人影が飛び出して来た。ジェイムスが拳銃を抜いて、懐中電灯の光を向ける。
「止まれ! 誰だ!」
「おい! 俺だよ!」
会田が息を切らして走って来る。
「何があった?」
とジェイムスが鋭い口調で訊くと、会田は喘《あえ》ぎ喘ぎ、
「ちょっと待てよ、地下からここまで階段を上がってきたんだぜ……苦しくて……。誰だか知らんが、裏から地下へ潜り込んだ。そして配電盤をぶっこわしやがった」
「自家発電装置は?」
「それが大変なんだ。電気が消えた時、俺と部下はすぐ、それと察して地下へ飛んで行った。犯人は発電機にも細工をしようとしていたんだが、俺たちに見つかると、発砲して来た。そして発電機室へ立てこもっちまった」
「じゃ、発電機は?」
「OFFにしてあるだけで、まだ壊されてはいないと思うが、犯人が発電機の陰に陣取ってるんでどうしようもないんだ。下手に撃てば発電機が壊れてしまう。人質を取られてるようなもんだ」
「そいつは困ったな。犯人は一人か?」
「二人だ。ヤクザ風だったよ。たぶん、金で雇われた連中だろうが」
「今はどうしている?」
「俺の部下を見張りに残してあるよ」
「よし、すぐに行く。君はここに残って病室を警戒してくれ」
「俺がかい?」
「そうだ、この騒ぎは陽動作戦かもしれん」
「なるほど」
「ドクター、あなたは最悪の場合に備えて、準備をして下さい」
「わ、分かりました!」
工藤医師は慌てて走って行った。
「君は私と一緒に来るかね?」
「はい!」
「階段を降りよう。会田、後を頼む」
「任しておけよ!」
「急ごう!」
ジェイムスに促されて、瞳も、足早に階段を駆け降りる。知らぬ間にこめかみを汗が一粒伝った。——あと四、五分! その短い時間に、裕二の命がかかっているのだ!
「様子は?」
一階のロビーヘ出ると、待っていた会田の部下へ、ジェイムスは声をかけた。
「どちらも動きが取れません」
「そうか。——時間がないんだ。四、五分の内に何とかしないと患者の命にかかわる」
「しかし、どうします?」
「催涙弾はないのか?」
「ありません」
「——よし、ともかく行ってみる。案内してくれ」
「こっちです」
一階の廊下を奥へ走ると、地下へ降りる階段がある。カタカタと足音をたてて降りて行く。
「一体どうして入られてしまったんだ?」
「分かりません」
若い部下は首をひねった。「見逃すはずはないんですが……」
「よし、そのせんさくは後回しだ」
地階へ降りると、寒々としたコンクリートの廊下へ出る。「機械室」を示す矢印に従って行くと、つき当たりに鉄板の扉が半開きになっていて、手前に三人ほど、会田の部下たちが固まって身を隠している。
「気を付けて!」
部下の一人が叫ぶと同時に、中で銃声がして、廊下の壁を弾丸がはじけた。
「体を低くするんだ!」
ジェイムスは瞳に叫んだ。瞳は慌てて身をかがめて、鉄の扉の陰へ飛び込む。
「どんな具合だ?」
「あっちからは撃って来ますが、こっちは手も足も出せないんですよ、畜生!」
ジェイムスがそっと顔を出して中を覗《のぞ》き込んだ。瞳も怖いもの見たさで、片目を出してみる。
思ったより狭い部屋で、中央に大きな発電機が鈍く光っている以外は何もないが、部屋自体が、発電機より少し大きいくらいなので、機械の周囲に人一人通れる空間があるだけなのだ。
部屋の様子を見て取ると、急いで首を引っ込める。とたんに銃声が響いて、弾丸が扉に当たってかん高い音をたてた。
「近付くな!」
中から男の叫び声がした。
「いい加減で諦めろ!」
会田の部下が呼びかける。「逃げられはしないぞ! 銃を捨てて出て来るんだ! 今ならまだ間に合う! 殺人犯になりたいのか!」
「うるせえ! 黙ってやがれ!」
「後三分ぐらいのうちに何とかしなくては」
ジェイムスが唇をかんだ。
「——私に何かできること、ありますか?」
瞳が訊くと、ジェイムスは首を振って、
「いや。ここでは危ない。君は上へ行っていたまえ」
「でも……」
「大丈夫。必ず何とかするよ。上で、明かりがつくのを待っていたまえ」
「——はい」
かえって邪魔になっては、と瞳は諦めて廊下を戻り、一階へ上がった。何とかする、といって、一体どうするのだろう。もし強引に踏み込んで犯人たちを殺したとしても、その時、銃撃で発電機が壊れてしまったら、やはり患者たちの間に死者が出るだろう。
「あと、たった三分だわ……」
瞳は呟いた。裕二は死んでしまうだろうか。
——ああ! 何とか助けてあげたい。
「神様……」
傍のベンチヘ腰を降ろして、祈るように両手を握りしめる。
「神に祈るのは時間の無駄だな」
急に英語で話しかけられ、瞳はびっくりして立ち上がった。
「あなたは……」
伯爵が立っていた。
「昨日は——いや、一昨日というべきかな。いい勝負だった」
「何をしに……ここへ……」
「私の目的は常に一つ。殺すことだ」
「よりによって、こんな時に!」
「何の事情かは知らんが」
伯爵は、薄暗い廊下を見回して、「どうやらさっきは銃声もしたようだ。何があった?」
「どこかの気狂いが電気を切ってしまって、自家発電機の部屋に立てこもっているんです」
「彼が関《かか》わっているのなら、どこかの気狂いということはあるまい。ともかく、そんなことは私には関係ない。仕事を済ませるにはもってこいの状況だな」
「やめて! 今はやめて! たった三分足らずのうちに何とかしないと、大勢の患者さんが死ぬのよ」
「それは気の毒に。しかし、私には関係ない」
瞳は素早く飛びすさると、赤いこうもり傘を構えた。
「邪魔させないわ」
「勇ましいお嬢さんだ」
伯爵が苦笑いした。「勇気のあることは認めるが、命は大事にするものだ。それとも、どうしても勝負の続きをやりたいのかね」
三分間食いとめられれば、と瞳は思った。伯爵の右手に、きらりと銀色の刃が光った。刃渡り二十センチ近い、細身のナイフだ。瞳は身構えた。ナイフは剣よりも短いが、投げることができる。油断はできない。ナイフを低く持って、伯爵がじりじりと近付いて来る。
その時、奥の階段からジェイムスが駆け上がって来た。
「危ない、ジェイムス!」
瞳の叫びに、はっと足を止める。伯爵とジェイムスがじっと向き合った。
「久しぶりだ」
とジェイムスが言った。
「全くだ」
伯爵が肯く。まるで旧い友人のような挨拶だが、二人の視線は火花を散らすようだった。
「伯爵、すまんが今は相手をしていられないのだ。一秒を争う。この件が片付くまで待ってほしい。終わったら必ず相手をする」
「どれくらい待てばいい?」
「長くて三分」
「——よし。分かった」
「感謝するぞ!」
「立てこもっているのは何人だ?」
「——二人だ。なぜ訊く?」
「訊いてみただけだ。どうするつもりだ?」
「何とかやっつけるさ」
「自分の命を捨てても、か」
「そんなところだ」
「英雄か。私は英雄という奴が大嫌いでね」
「話をしている暇はない!」
と行きかけるジェイムスを、
「待て!」
と伯爵が呼び止めた。「相手は物陰にいるのか?」
「発電機の陰だ。へたに撃てば発電機が壊れる」
「なるほど。それで撃ち殺せないわけか。……となると、一気に飛び込んで片付ける他ないようだな」
「分かっている」
「しかし相手は二人だぞ」
と伯爵。「もう一人がすぐに見つかるのか?」
ジェイムスは答えなかった。
「私が一緒にやろうか」
「なぜ君が?」
「他の奴に君を殺されては困る。君を殺すのは私しかいないのだ」
ジェイムスはちょっと考えて、
「よし、頼む」
「案内しろ。もう二分もないはずだ」
瞳は事の成り行きを呆然として見守っていた。あの敵同士が一緒に犯人に対するというのだ。何て奇妙な話だろう!
二人の後を追って、瞳は地下へ急いだ。