「そうにらまないでよ」
早苗はウイスキーのグラスを弄《もてあそ》びながら言った。「恥ずかしくなるじゃないの」
「あなたにも恥じる気持ちがあるの?」
「威勢のいいことね」
部屋から皮ジャンパーの若者たちを出してしまって、早苗は瞳と二人きりだった。縛られていなければ、めちゃくちゃにやっつけてやるのに! 瞳は歯ぎしりした。
「私を恨むのはお門違いよ。あなたが勝手に飛び込んで来たんですからね。こっちだって、余計な手間だわ」
瞳は自分を呪《のろ》った。何て馬鹿だったんだろう! ジェイムスの言う通り、おとなしくホテルにいればよかったのに……。
「一体どうしてそんな真似をしたの?」
瞳は訊いた。
「金のためよ。決まってるじゃないの。外来オーケストラの世話役なんて重労働でね、そのくせ安月給。どんどん年《と》齢《し》ばかりとって行くし……。で、ふっと思いついたのよ。楽器の誘《ゆう》拐《かい》をね。楽器なら人間と違って、食事をやったりする必要もないし、犯人の顔を憶えられることもない。それでいて、何億円もの値打ち……。これだ! と思ったわ。そしてずっとチャンスを待ってたの」
早苗はウイスキーをひと口飲んだ。
「そこヘエリザベス女王の訪日、BBC交響楽団の記念演奏会。これこそ待ちに待ったチャンスだと思ったわ。国立のオーケストラだから金は出るだろうし、記念演奏会を控えて何とか取り戻そうとするだろうしね。女王のスケジュールとの都合で、一週間空きができたのもよかったわ。恐《きよう》喝《かつ》に十分な時間が取れたものね」
「金を受け取ったのに、なぜ楽器を返さないの!」
「そんな危険をどうして冒すの? 馬鹿馬鹿しい! 誘拐犯は殺せば殺人だけど、楽器を壊したって殺人罪でもなんでもないわ」
「でも、あなたは裕二さんを殺したでしょう!」
「ああ、あれね。——あれは私の知らないことよ」
「今さら何よ!」
「本当だから仕方ないわ。確かにあの裕二って若者、盗み出した楽器を確認させるのに雇ったんだけど、怖《お》じ気《け》づいちゃってね、せっかく盗んだうちの一台を持って逃げちまったのよ。それを東京の私の相棒が見つけてね、やっちゃったわけよ」
「相棒?——誰なの?」
「あなたの知ったことじゃないわ」
「それで二度に分けてお金を払わせたのね」
「まあ、そんなところ」
「あの若者たちは?」
「ああ、あれは暴走族のグループでね、この計画を思いついた頃《ころ》から接触してたのよ。実際の盗みや金の受け取りは自分じゃできないものね。——あのリーダー、なかなかいい男でしょう? 信用できるわ。金も十分払うから、口外される心配もないし」
「そう巧く行くかしら」
「だめだめ」
早苗は冷笑して、「そんなこと吹き込んだって、だめよ。もう諦《あきら》めるのね」
「私をどうするの?」
「それを考えてるのよ」
早苗は頭をかしげて、まるで美術品でも眺めるような目つきで瞳を見た。
「——あなたが羨《うらやま》しいわ。若くて、ピチピチしてて。どう頑張ったって、若さにはかなわないわね」
「何が言いたいの?」
「きっと連中、喜ぶと思うわ。あなた、可愛いし、いい体してるもの」
瞳の顔から血の気がひいた。背筋を戦《せん》慄《りつ》が駆け抜ける。
「何を——させるつもり?」
声がこわばっている。
「連中、LSDとか、そういったもの持ってるの。私は経験がないけど、きっといい気分にしてくれるわよ」
瞳は歯を食いしばったが、身体が震えてくるのをどうしても押さえ切れなかった。
「連中だって、あなたを殺せと言ったら、きっとためらうでしょうね。でも、薬の射ちすぎで死んだら……そんなことは珍しくないわ」
「悪魔!」
「あら、ずいぶん古いセリフを持ち出したわね」
「逃げ切れると思ってるの!」
早苗は立ち上がった。
「もちろんよ!」
言い捨てて、皮ジャンパーの若者たちが消えたドアから出て行った。
瞳は必死で縄をゆるめられないかともがいたが、手足はもうしびれ切って力が入らない。
「ああ、ジェイムス……」
祈るように言った。
ドアの開く音がして、顔を上げた。
五人、六人——皮ジャンパーの制服が、瞳を眺めている。リーダーの若者がゆっくり足を踏み出すと、他の五人もそれに続いた。
瞳は身をよじって、顔をそむけた。
「いいなあ! 若くてよ!」
童顔の一人がため息をつく。
「何からやる?」
「待てよ。その前に脱がしちまわなきゃ」
ひきつったような笑いが湧《わ》いた。獲物を目の前にして、興奮しているのだろう。
「——ねえ、兄貴、早くやっちまおうぜ!」
「そうだよ。順番はクジで決めよう!」
「そいつはねえぞ! 古顔からだ!」
「汚ねえぞ! 俺とお前と三日しか違わねえのに!」
「黙れ!」
リーダーが一喝した。シンと静まりかえる。よほど恐れられているのだろう。——瞳はそろそろと顔を向けた。
リーダーの男は、不気味なほど表情を殺した目つきで瞳を見降ろしている。
どこかで……。瞳の頭に再び同じ思いがよぎった。どこかで見た顔だ。どこかで。——どこだったろう?
「——おい」
リーダーが傍の一人に言った。「ナイフ、貸せ」
「へい」
瞳はびくっと身を縮めた。ビン、とバネのはねる音がして、十五センチ近い刃が銀色に光った。——瞳は目を閉じた。もう、どうにもならないのだ。
手と足が急に緩んだ。驚いて目を開くと、手足の縄が切られている。
「ヴァイオリンを弾くんだって?」
リーダーの男が言った。瞳は黙って肯《うなず》いた。
「おい! ヴァイオリンを一台持って来てやれ!」
「兄貴、何するんだい?」
呆気に取られた様子で、一人が言った。
「ヴァイオリンを弾かせるんだ」
「つまらねえよ、そんな——」
「持って来るんだ」
断固とした口調だった。——童顔の若者が、渋々歩いて行って手近なケースを取り上げると、リーダーの男が、
「馬鹿! それはヴィオラだ!」
と叱りつけた。「小さい方だ」
瞳は驚いた。この皮ジャンパー姿のリーダーが、そんなことを知っているなんて。
瞳のそばへ、ストラディヴァリが一台、無造作に投げ出された。
「弾いてみろ」
「待って……。手がしびれていて……動かない……」
「よし。待ってやる」
リーダーは長椅子に腰を降ろした。他の連中も諦めたように思い思いに座り込んだ。
「どうしてヴァイオリンを弾かせるの?」
瞳は訊いた。
「死ぬ前に一度弾きたいだろうと思ったのさ」
「ご親切に」
「——まだか」
「もうちょっと待って……」
瞳はゆっくりと指を曲げたりのばしたりした。
「長い指だな。骨ばってる」
「ヴァイオリンをやると、そうなるわ」
「左手の指先はもう切れないか」
「固くなっているから……」
答えて瞳ははっとした。このリーダーの男はヴァイオリンをやったことがあるのに違いない。でなければ、あんな質問は出ないはずだ……。
「もう大丈夫だろう」
「ええ」
瞳はケースからヴァイオリンを取り出し、弦を張った。——向こうが、ただ弾かせてからかうつもりだったら、弾くまいと思ったが、リーダーの若者は、それだけではなさそうだ。それに少しでも時間を稼がなくては。最後まで希望を捨てずに頑張るのだ。
音を合わせて、
「何を弾くの?」
と訊いた。
「好きなのを弾け」
「分かったわ」
「——この世の弾きおさめだ。巧く弾けよ」
瞳は息を吸い込み、静かに弓を引いた。ストラディヴァリは朗々と鳴る。曲はベートーヴェンのロマンスだ。
固くこわばった指が、不思議によく動いた。瞳は、演奏しながら、部屋の様子をうかがった。六人を相手にして勝てる見込みはない。しかも、ドアは彼女から一番遠く、間に長椅子があるのだ。走っても逃げ切れまい……。
「もういい!」
突然、リーダーの男が立ち上がった。瞳は弓を降ろした。
「俺も昔、ヴァイオリンを弾いていた」
呟くように、彼が言った。「だが、ある日、不良たちに殴られ、ナイフで腕を切られて……それきりだ。仕返しに、俺はそいつを刺した」
話しながら、瞳の手からヴァイオリンと弓を取り上げる。間近にその若者の目を見て、瞳ははっとした。この目は……。
「押さえつけろ!」
命令と同時に、四人の男が一斉に瞳に飛びかかる。
「やめて! 放して!」
もがいても、力では到底かなわない。
「注射の用意だ」
「もうやってるよ、兄貴」
舌なめずりせんばかりに、脂ぎった顔の太った男が笑った。小さな注射器が手の中にあった。
「腕をまくり上げろ!」
「いや! いや! やめて! いやよ!」
白い腕がむき出しにされる。注射器を持った太っちょがのしかかってきた。
「暴れるな! 針が折れちまう! おい、もっとしっかり押さえつけろよ!」
「やめて!」
瞳は叫んだ。「裕二さん!」
「——待て!」
太っちょを押しのけて、リーダーの男が顔を出した。「今、何と言った?」
「裕二さん……。東裕二……。あなた、そっくりだわ」
「弟を知ってるのか?」
「裕二さんのお兄さん?」
「——そうだ」
「なのに、こんなことにあの人を引きずり込んだの? お兄さんなのに!」
「あの女にヴァイオリンを見分けられる奴と訊かれて、捜すのも面倒だから弟を呼んだ。ところがブルっちまって、逃げちまいやがった。意気地のない奴だよ」
「彼女、あなた方が兄弟だと知ってるの?」
「あの女かい? いいや、別に説明をしなかったからな」
「やっぱりね。知っていたら……」
「何だ? はっきり言えよ」
瞳はまっすぐに男を見《み》据《す》えた。
「裕二さんは死んだわ」
「何だと……」
「あの女の相棒が殺したのよ。裕二さんがしゃべってしまうのを恐れて、車ではねて、それで死ななかったんで、病院を襲って、とうとう殺してしまったのよ!」
「嘘《うそ》だ!」
「嘘じゃないわ! あの女に訊いてみなさい!」
リーダーの男は、こわばった顔で、じっと瞳を見つめていたが、やがて大きく息をつくと、
「よし、そうしよう。おい、この女、もう一度縛っておけ」
「おあずけかい、兄貴?」
「それはないよ」
「そうさ、せっかく——」
不満の声が上がる。
「待てと言ってるんだ!」
厳しい声が飛ぶ。
「——分かったよ」
肩をそびやかして、二人がかりで、瞳の手足を縛った。
「俺は出かけてくる。戻るまでその女に手を出すなよ」
裕二の兄は、部屋を飛び出して行った。少しして、オートバイの爆音が遠ざかって行くのが聞こえた。
「——畜生!」
「どうかしてるぜ、兄貴」
「弟のこととなるとムキになるんだ」
「殺《せつ》生《しよう》だよ、目の前にエサを置いて、手を出すな、なんて!」
しばらく、沈黙があった。
「おい!」
口を切ったのは、あの童顔の男だった。みんなの顔を見回しながら、
「やっちまおうぜ、俺たちだけで」
「でも、兄貴が怒るぞ」
「なに、怒ったって、やっちまった後ならどうしようもないさ」
「そうだ、ちっとは俺たちの好きにやってもいいじゃねえか!」
瞳は息を呑んだ。五人が一斉に立ち上がって近付いて来る。
「やめて……。何するのよ!」
「注射する前に楽しんでやるのさ」
「順序はどうする?」
「クジにしよう」
「よし、ともかくまず俺だ。文句ねえな!」
と童顔の男が他の顔を見回す。
「まあ、いいや」
「よし! おい、太っちょ、残りの奴のクジを作っとけよ」
「よし」
「それじゃ……悪いけどな……」
「いや! やめて!」
「おとなしくしろ!」
童顔の男が瞳の上へのしかかって来た。瞳は身動きもできず、じっと歯を食いしばった。
——終わりだわ! 何もかも!
その時、何かズンという鈍い音と共に、窓ガラスが割れる音がした。急に、上になっていた男がぐったりとして、床へずるずると滑り落ちる。背中に血が広がっていた。
「撃たれたんだ!」
「みんな隠れろ!」
「窓からだぞ!」
「拳銃を持つんだ!」
混乱した声が飛び交う。長椅子に放り出された瞳は隠れることもできない。誰だろう?
ジェイムスか?
太っちょが、一旦隠れた机の陰から走り出て、奥のサイドボードヘと急いだ。もう一度、鈍い音がして、太っちょが足を押さえて転がった。