「おい! 逃げよう!」
震え上がった声で一人が言った。
「ああ……」
残った三人は、とても、もう闘うどころではない。一斉に物陰から飛び出すと、我先にドアヘかけつける。先頭を切った一人が、ドアの所で、まるで壁にでもぶち当たったようにはじき飛ばされてしまった。
瞳は目を見張った。
「——ジェイムス!」
あっという間に残る二人も床にのびていた。
「大丈夫か? すまなかった、遅くなって」
瞳は急に気が抜けて、そのまま失神してしまった。
「——目を覚ましたね」
「ジェイムス」
気が付いて周囲を見回した瞳はびっくりした。ヘリコプターに乗っているのだ! 外は暗い夜が広がって、はるか眼下に、町の灯が星くずのように散らばっている。
美しい、と思った。そして、生きてるんだ、まだ、と今さらのように気付いた。
「そうだわ! ジェイムス! あの女——」
はっとして言いかけると、ジェイムスが肯いて、
「分かってる。捕らえた連中から聞いたよ」
「彼女、捕まったの?」
「BBCの一行と一緒に列車で東京へ向かった後だったんだ。東京駅では会田たちが出迎えているさ」
「よかった。——あの憎らしい女! 一度こうもり傘でやっつけてやりたかったわ」
そう言って、ふと、「あ、そうだ。こうもり傘——なくなっちゃった」
ゴンドラから飛び降りて、襲われた時、どうかなってしまったに違いない。父のプレゼントだったのに……。
「ジェイムス。ごめんなさいね。言うこと聞かないで、あんなことになって」
「あまり素直に謝られると、気味が悪いね」
「ひどいわ!」
瞳は笑った。「——どこへ向かってるのかしら?」
「東京さ。むろん」
ジェイムスは腕時計を見て、「今から行けば、少々遅いディナーに間に合うだろう」
「ヴァイオリンは?」
「後ろを見たまえ」
振り向くと、ヴァイオリンのケースが分厚く重ねた毛布の上に並んでいた。
「少々季節外れのサンタクロースってわけさ」
ジェイムスが微笑んだ。
「間に合ったのね! よかった!」
「君が命がけで頑張ったからさ」
「へへ……」
瞳は照れて、ちょっと舌を出した。
「そうだわ。どうしてあの場所が分かったんですか?」
「発信機を辿《たど》って行ったのさ」
「でも、ボストンバッグは——」
「札束の一つは、中がくり抜いてあったんだ。そこにもう一つ発信機がセットしてあった」
「え? じゃ、始めから彼女を疑っていたの?」
「特別疑っていたわけじゃない。しかし、楽団の関係者が犯人である以上、彼女も例外ではないからね。もし犯人ならば、当然、ボストンバッグは捨てていくに違いない」
「そうだったの……。でも、それにしては来るの、遅かったのね」
「発信機が谷間へ入って、一旦見失ってしまったのさ。焦ったよ」
「こちらだって焦ってたんですよ」
「どんな様子だったか聞かせてくれ」
瞳はいささかオーバーに危機を強調しながら、説明した。
「ふむ、あの裕二君の兄がリーダーだったのか」
「まだ捕まっていないの?」
「まだだ。きっと早苗を追って東京へ向かっているんだろう」
「あの人——根は悪い人には見えなかったけど……」
「少しは人間らしいところがあるようだね」
「ミスター・ジェイムス、無電が」
操縦士が、レシーバーをジェイムスヘ渡した。
「ジェイムスだ。——会田か。どうした?——そうか。——では途中で降りたな。——分かった。もう人質は取り戻した。警察の手を借りて、空港などを見張ってもらってくれ。——ああ、彼女は無事だ。ここにいる。——伝えるよ」
「どうしたの? 早苗が逃げたんですね?」
「ああ、どうも途中で降りてしまったようだ。なに、遠からず捕まるさ」
「伝言ってなにかしら?」
「会田がね、君を情報部にぜひほしい、とさ」
操縦士が言った。
「東京です」
行く手に光の海があった。夜空を白々と染めるばかりに、大都会が輝いていた。
瞳は深々と深呼吸した。——帰って来たんだわ!
ヘリコプターは英国大使館の庭へ着陸した。会田が手を振って出迎えた。
「やあ! 大変だったね」
「これぐらいのことじゃ死にません!」
「その元気だ!」
建物に入った三人はシャンパンで乾杯した。
「しかし、会田」
ジェイムスが言った。「事件はまだ片付いていないぞ」
「分かってる。あの女を捕まえなきゃな」
「それに東京の方で金を受け取った『相棒』は誰なのか。裕二の兄の行方も分からない。それから——伯爵ともケリをつけなくてはな」
「まだ忙しそうだな、当分は」
「全くだ」
「ああ、お嬢さん、君に会ってほしい人がいるんだ」
「誰でしょう?」
「報道関係者さ。この楽器誘拐事件が公表されたんでね、今や大騒ぎってわけだ」
「私が——出て行くんですか?」
「そう、我々は表へ出られない人間なんでね。だから、君も決して我々のことを言ってはいけないよ」
「分かりました」
新聞に出るのかな? 凄《すご》い! 少々俗っぽい期待に胸ふくらませ、会田に連れられて、報道陣の待つ部屋へ向かった。ドアから入ったとたん、唖然として立ちすくんだ。強烈なライトが浴びせられ、居並ぶカメラマンが一斉にシャッターを切り、TVカメラが向けられる。三十人はいるだろう。
気が付くと、サー・ジョン・カーファックスが、にこやかに寄って来て、彼女を抱いて頬にキスをした。
「サー・ジョン……」
「よくやってくれた! 君は英国の宝を取り戻してくれた。ジェイムスから何もかも聞いたよ」
「私、そんな……」
どぎまぎして逃げ出しそうになる。しかし、サー・ジョンは彼女を抱きかかえるようにして、マイクが数え切れないほど並んだテーブルの前に連れて行った。
晴れがましいやら照れくさいやら、瞳は報道陣の質問にもうわの空。一体何を答えているのか分からなかった。入って来たドアの方を見ると、細く開いた隙間から、ジェイムスの笑顔が覗いている。
「犯人たちと大乱闘になったって、本当ですか?」
「え? いえ、——そんな——」
「こうもり傘で叩きのめしたんですって?」
「私が?」
「フェンシングの達人だっていうじゃありませんか」
「そうでもありません」
「やって見せて下さい!」
「とんでもない! 私、とても——」
「いや、いいじゃないですか」
「お願いしますよ」
「おーい! 誰か相手になれ!」
瞳はポカンとしているうちに、カメラの放列に囲まれて、どこから捜して来たのやら、フェンシングの練習用の剣を持たされていた。TV局の人間らしい物好きが一人、相手になろうと飛び出して来た。
「さあ、行きますよ!」
「待って下さい、私——」
めちゃくちゃな構えで突っ込んで来る相手をかわして、「いやです! こんな、みっともない!」
「いや、いいじゃないですか。一躍スターになれるかもしれない!」
「冗談じゃないわ!」
瞳はムッとした。
「有名になって悪いことはないでしょ」
「だって、私、ヴァイオリニストですもの、こんな——」
「まあまあ、俳優だって、まずCMで顔を売る時代ですよ。ほら!」
「やめて!」
と相手の剣を払う。
「そのうち、インスタント・コーヒーの宣伝に使ってくれるかもしれませんよ」
瞳はカッとなった。言わせておけば……。
「エイッ!」
鋭い声と共に一気に突きまくり、相手が慌てて後ずさりするのを追いつめる。剣の先が円を描くと、相手の剣が宙へ飛び、胸元へとどめの一撃! 相手はテーブルの向こうへ、もんどり打って転げ落ちてしまった。
一斉に報道陣から歓声が湧く。
「やっちゃった……」
瞳は頭をかいた。
翌日、久しぶりに佐野の家で目を覚ました瞳はパジャマのまま、階下へ降りて行った。
「お嬢さん」
とおばさんが得意げに言った。「新聞に出てますよ! ほら!」
「そう?」
恐る恐る広げると、目に飛び込んで来たのは、あのTV局の男をやっつけた瞬間の大きな写真と、「少女剣士、銘器を取り戻す!」という大見出しだった。
「まあ、大したもんですけどねえ……」
とおばさんは、少々ためらいがちに、「でも、お嫁に行くときゃ、隠しといた方がいいですよ、この新聞」