「やあ」
伯爵は部屋へ入ってくると、瞳へ微《ほほ》笑《え》みかけた。
「また会ったな」
「全く、よく会うな」
ジェイムスは拳銃をしまいながら、
「なぜこいつを撃ったんだ?」
「悪かったかな?」
「私でも撃てた。——それともこっちが撃ちにくいだろうと同情してくれたのか?」
伯爵は笑って、
「君はそんな甘い奴じゃないだろう」
「それならなぜ——」
「仕事さ」
「仕事?」
ジェイムスは眉を寄せた。「それじゃ、君が日本へ来たのは——」
「むろん、君と結着をつけるためでもあったさ。しかし、それだけじゃない。その男を殺せと依頼を受けてたんでね」
「依頼……」
「君のボスからだ」
「まさか!」
「残念だが本当だ」
「それじゃ、上層部では会田のことを……」
「疑っていたようだな。金に困って逆スパイしていると判断したようだ」
ジェイムスは会田の死体を見降ろした。
「そこまで落ちていたのか」
「君も知らされていなかったのか、何も?」
「何も」
「そうか。皮肉なもんだ。俺のようなフリーの殺し屋の方が、内情を知ってるというのはな」
「全くだ」
「さて、仕事は片付いた」
伯爵が拳銃を収めて、「そういつまでも日本にはいられないよ」
ジェイムスは伯爵の目をじっと見た。
「いつ、カタをつける?」
「いつでも構わんぜ」
「今、やるか、いっそ」
「いや」
と伯爵は瞳を見て、「このお嬢さんのいる所ではやりたくない。敵が二人になるからな」
と苦笑する。
「それじゃ、場所と時間を決めよう」
「連絡する」
「よし、ホテルは知ってるな」
「もちろん」
伯爵は足早に姿を消した。ジェイムスは、右腕を押さえてうずくまっている宏一を見て、瞳に、
「彼を病院へ連れて行こう」
「ええ」
「どこの病院まで行くの?」
瞳が不思議そうに訊いた。「近くにいくらでもあるのに……」
「一刻を争うほどの傷じゃないだろう」
「それはそうだけど」
「もうすぐだ」
ポルシェが停まった時、瞳は驚いた。
「この病院……」
裕二が死んだK大学病院だ。
「さ、入ろう」
宏一が当直の医師に手当てを受けている間に、ジェイムスはどこかへ姿を消してしまった。瞳はジェイムスの気持ちが分からなかった。宏一をなぜわざわざ弟の死んだ病院へ連れて来たんだろう? 思いやりのつもりだろうか。
腕を吊った宏一が出て来た。
「どう?」
「大したことはないさ」
宏一は肩をすくめた。「でも、こんなけがに、何でこんな病院へ連れて来たんだ? あの外人、変わってるな」
「あのね——実は——」
「やあ、済んだかね」
ジェイムスが戻って来た。一緒にいる白衣の男は、工藤医師だ。
「ジェイムス……」
けげんな顔の瞳に、
「さ、一緒に来るんだ。その病人も」
「どこへ」
「入院が必要なのさ」
「まさか!」
「いいから、こっちだ」
工藤医師の後を、三人はついて行った。
「俺が入院? 刑務所の間違いじゃないのか?」
「分からないわ、私にも」
工藤医師が病室のドアを開けて、わきへどいた。
病室へ入って、瞳は思わず声を上げた。
「裕二さん!」
「やあ、君か」
裕二がベッドの上で微笑んだ。「兄さんも一緒か!」
「君にまで黙ってて、ひどい奴だと思ってるんだろう?」
「ええ、当たり前でしょ!」
ジェイムスのポルシェでホテルヘ向かいながら瞳はむくれっ放しだった。
「あの時ね、工藤医師が来て、どうも誰かが裕二の装置に細工したらしいという話だった。危ないところで助かったがね。その時に考えついたんだ。彼が死んだことにしておけば安全だとね。工藤医師の協力のおかげで、うまく行ったよ」
「よかったわね」
とそっぽを向く。
「おい、彼が生きてて嬉しくないのかい?」
「もちろん嬉しいけど……」
「君に知らせなかったのはね、秘密を知るのは、それだけ危険を増すからなんだ。君を危険な目に会わせたくなかったんだよ」
「でも——それじゃ裕二さんが意識を取り戻した時に、もう犯人は水島早苗だって分かってたんですか?」
「それが、彼の意識が戻ったのは、つい今朝のことでね。——いや、もう午前二時か。じゃ、昨日の朝ってことになる」
と苦笑して、「もう少し早く目が覚めてくれていたら、こんなに手間がかからなかったんだがね」
瞳は窓の外を流れ去る夜の町並みへ目をやりながら、
「よかったわ、助かって……」
と呟《つぶや》いた。「——ねえ、ジェイムス」
「何だね?」
「どうしても伯爵と闘うの?」
「向こうがその気だ。仕方ないさ」
「お願いよ! 何とかやめられないの?」
「いずれはやらなきゃならん相手だ」
「くだらないわ!」
瞳は叫んだ。「西部劇のガンマンじゃあるまいし! どっちが死んだって、何にもならないじゃないの」
ジェイムスは黙って車を走らせていた。
「——家へ送って」
と瞳は言った。
「分かった」
ジェイムスは車をUターンさせた。
「それじゃ、明日——いや今日の夕方、大使館から迎えの車が来るからね」
ドレスや靴などの箱を全部運び終えると、ジェイムスが言った。
「あなたは来てくれないの?」
「もし私が迎えに来れたら来る。はっきり約束はできないがね」
「生きていたら、でしょ」
「そう悪く考えるな。伯爵の気が変わるかもしれない」
ジェイムスは瞳の額にキスして、「おやすみ」
と車へ戻りかける。
「ジェイムス、イギリスヘ帰る前に会える?」
「もちろん。また呼び出すよ」
車のドアを閉めようとして、「生きていたら、ね!」
笑顔を残して、ポルシェはたちまち夜道を消えて行った。
ぼんやりと道に立って、車の消えた方を見ていた瞳は、ため息をつきながら、家へ入って行った。
瞳は、日記に細《こま》々《ごま》と、演奏会の模様をつづった。
「……『弦楽のためのアダージョ』がお父さんに捧げられた時には、私、胸が一杯になって、泣けてしまいそうだったわ。でもコン・マスとしては、何より演奏をしっかりやらなくては、と、もっぱらそれだけを考えるようにしたの。演奏もすばらしかった——自分で言うのも変だけど、そう思います。どんなに練習を積んでも出ない〓“何か〓”が、あそこにはあったみたい。それを引き出したサー・ジョンには心から敬意を払わずにはいられません。ところで、私、明日の女王主催のパーティーに呼ばれてるのよ。お母さん、目を回さないでね。私としては、民主主義の立場から王室反対! でも、T学園の代表として出席させてもらうつもりです。え? 着ていく物があるのかって? 大丈夫。ちゃんと用意してくれました。
ところで、私の恋は——もう終わりみたい。今日つくづく二人の世界の違いを思い知らされたんですもの。彼は一瞬先のことも知らずに、現在を生きている人です。でも私は長い将来のことを考え、結婚や、赤ちゃんや、そんなことを考えて生きてる。最初からそれは分かってたことだけど、いえ、そんなに違うからこそ、心魅《ひ》かれたのかもしれないわ。ともかく、後はグッドバイを言うだけです。もし、言えたらだけど……」
「はい、佐野でございます」
「もしもし」
「もしもし」
「瞳さんかい?」
「あ——裕二さんのお兄さんね。どうですか、具合は?」
「弟は順調だよ。一か月もすれば退院できるらしい」
「よかったわ! あなたのけがは?」
「けが? ああ、こいつか。忘れてたよ」
「まあ。その分なら大丈夫そうね」
「あんたに、その、礼が言いたくてね。お詫びと」
「いいのよ。終わったことだわ」
「今から警察へ行こうと思ってるんだ。手下たちが捕まってるのに、こっちが知らん顔できないしね、待ってたけど捕まえに来そうもないから、こっちから出かけるよ」
「そう。——それがいいわ。きっと大した罪にはならないわよ。私も応援する」
「ありがとう。ついでに、図《ずう》々《ずう》しい頼みなんだが……」
「何かしら?」
「俺がいない間、時々弟を見舞ってやってくれないか」
「ええ、もちろんよ! 安心して」
「すまねえな。ほっとしたよ」
「いいえ、何でもないことよ」
「それから、あの妙な外人にも礼を言いたいんだけどね、どこに行けば会える?」
「あの人? あの人は……」
と言い淀《よど》んでから、ふと、「そうだわ。ね、警察へ行く前に一つお願いを聞いてくれない?」
「いいとも。何だってやるぜ」
「あの人のホテルを教えるわ。だから、こっそり見張っててほしいの」
「へえ。どうしてだい?」
「どこかへ車で出かけたら、オートバイで後をつけてほしいのよ」
「いいよ。お安いご用だ」
「そしてすぐ私に知らせてちょうだい」
「分かった。家にいるね?」
「夕方からは英国大使館にいるわ」
「へえ!」
「女王主催のパーティーに出てるの」
「驚いたな! 高貴な生まれなのかい?」
「まあね。——じゃお願いね」
「任せといてくれ」
瞳は電話を切った。
私なら止められるかもしれない。あの二人の争いを。——瞳はその希望を捨てきれなかった。