「やあ」
ベッドで裕二が微笑んだ。
「具合、どう?」
瞳はベッドのわきの椅子に腰を降ろした。
「大丈夫。まだ少し頭痛がするけどもね」
「そんなのふっ飛ばしちゃいなさいよ。電車で、ヤクザに体当たりした勢いで、さ」
裕二は笑って、
「君が助太刀してくれないとね」
「何をするの?」
「ちょっとキスしてくれれば」
「だめ! 興奮すると体によくないのよ」
瞳は笑いながら、軽く裕二の額にキスした。「これだけ」
「なんだ、がっかりだな。——学校の帰り?」
「そうよ」
「ああ、土曜日の演奏会の評が夕刊に出てたよ」
「ほんと? 何だって?」
「日本の音楽教育の水準の高さを示すものだってさ」
「ふーん」
「嬉《うれ》しくないの?」
「ありきたりな賞《ほ》め方じゃないの。何か他に言い方がありそうなもんだわ」
「欲張りだなあ」
と裕二が笑った。
「ええ! 私、とっても欲張りよ。何でも知りたいし、何でもやってみたいの」
「あれだけ冒険したのにかい? 兄貴から聞いたよ」
「ああいうのは、もう沢山」
瞳は首を振って、「二度とごめんだわ」
「でも君のことだ、何か事件に出くわしたら、また飛び込んじまうんじゃないの?」
「そうね……。分からないわ。その時はその時よ」
瞳は肩をすくめた。「何か私でできることある? また明日来るわ」
「もう行くの?」
「今夜BBCが帰国するの。空港へ見送りに行かなきゃ」
「そうか。気を付けてね」
「じゃ、また明日ね。果物でも買ってくるわ」
「ねえ」
「なに?」
「あの赤いこうもり傘は?」
「失くしちゃったのよ。冒険の最中にね」
「じゃ、付き合ってても安心だ」
「まあ、失礼ねえ!」
とふくれて見せて、「それじゃ」
「見舞い、ありがとう」
瞳は一回病室を出たが、また思い直したように入って行った。
「忘れ物かい?」
「ちょっとね」
つかつかとベッドヘ近付くと、瞳は身をかがめて、裕二の唇に唇を重ねた。
「——早く元気になってね」
「大分よくなったよ」
「調子がいいのね!」
ドアの所で、「エヘン」と咳《せき》払い。慌てて立ち上がると、工藤医師が真面目くさった顔で立っていた。
「今日は、医《せん》師《せい》」
瞳はにこやかに挨《あい》拶《さつ》した。
「脈をみようと思って来たんだがね」
と工藤医師が言った。「今測っても、正確な脈搏は分からないようだな」
「サー・ジョン!」
瞳が呼びかけると、サー・ジョン・カーファックスは相《そう》好《ごう》を崩してやって来た。
「来てくれたのか、ヒトミ! 嬉しいよ」
「色々お世話になりました」
「いや、楽しかったよ」
「こちらこそ、すばらしいヴァイオリンをいただいて」
「君に使われれば幸せだと、あのガイセンホーフも言っとったよ」
「まさか!」
二人は笑った。
「ところで、ヒトミ、君はイギリスヘ来る気はないか?」
「サー・ジョン!」
瞳は面食らって、「一体何の——」
「イギリスで勉強してみないか。きっと君のためにもいいことだと思うが」
「そんな——突然で——」
「今、返事をしてくれとは言わんよ。また手紙を書く。考えておいてくれ。いいね?」
「はい」
サー・ジョンが他の関係者へ挨拶に行ってしまうと、瞳は胸の動《どう》悸《き》を鎮めようと何度も息をついた。突然のイギリス行きの話のせいばかりではない。混雑するロビーで、目はついジェイムスを捜してしまうのだ。
コンサート・マスターのヒギンズや、副指揮者のローマーと話をしているうちに、搭乗の時間になった。
サー・ジョンが来て、瞳の頬にキスして別れる。——BBCのメンバーの姿が次々に通路へ消えて行った。
「いないわ……」
もうとっくに発ってしまったのだろうか。
「……便にご搭乗の方はお急ぎ下さい」
アナウンスが、出発の間近なことを告げている。
ぼんやりと立っていると、
「お嬢さん」
突然、背後から英語で呼びかけられた。振り向くと、ジェイムスが立っていた。
「お嬢さん、これをお忘れになりませんでしたか?」
彼が差し出したのは、赤いこうもり傘だった。父にもらったのとそっくりな、真新しい傘だ。瞳は黙ってそれを受け取った。
ジェイムスはそのまま急ぎ足で、搭乗用の通路へと消えて行った。
瞳はこうもり傘を手に、しばらくそこに立ち尽くしていた。