「諸君!」
土屋先生は指揮台に上がると、こう呼びかけた。
「いやにもったいぶってるわね、今日は」
隣の学友の囁《ささや》きに瞳は肩をすくめた。
「音楽の歴史でも語ろうっていうんじゃないの」
「聞いてくれたまえ!」
聞いてるよ、とみんなが目で返事をした。
「すばらしいニュースがある! 来年の三月、卒業の前に、諸君はヨーロッパヘ演奏旅行を行う!」
一瞬の空白、しかし、若者の反応は素早い、たちまちステージは混乱と絶叫の場と化した。女の子たちはキャアキャア叫んで隣の学生の肩を叩き、男子学生は、標的のゴリラみたいにウォーと唸《うな》って両手を上げる。ごく一部の心配性の学生だけが、旅費の計算に余念がなかった。
「静かに!」
土屋先生が何回目かに叫んで、やっと少し騒がしい程度におさまった。
「日程、その他、詳細については、後日発表するが、期間は約一か月の予定。なお、イギリスではサー・ジョン・カーファックスがタクトを振って下さる!」
サー・ジョン……。瞳は懐かしさが胸にこみ上げて来るのを感じた。あれから二か月。くぐり抜けた火の輪の熱さは、まだ忘れられはしない。
ジェイムス……。瞳は手にしたガイセンホーフを眺めながら、あの日々のことを思い出した。
「——帰る時、学校側から、諸君のご父兄へあてた手紙を持たせる。手渡していただきたい」
「請求書ですか!」
の声に、ドッと笑いが起こった。
「——素敵じゃないか」
裕二が言った。
お互い、学校の帰りにこうして待ち合わせて散歩するのが日課のようになってしまった。
「いい思い出になるよ、きっと」
「そうね」
「イギリスにも行くんだろう?」
「その予定よ」
「彼に会えるかもしれないよ」
「そんなこと——もう終わったことよ」
「でも、いいじゃないか。懐《なつ》かしいだろう?」
「あなたって……」
と瞳は笑った。
「何だい?」
「底抜けのお人好しか、鈍感か、どっちなの?」
「おい! ひどいなあ」
「だって昔の恋人に会って来いなんて言う人、聞いたことないわ」
「なに、比べてみれば僕の方がずっといいことがよく分かるさ」
「呆れた! うぬぼれ屋ね、ずいぶん」
「色々仕度が大変だろうね」
「女の子はみんな何を着ていくか、大騒ぎしてるわ」
「君は?」
「私は、今持ってるのを着て行くからいいわ」
「どうして?」
「中身がいいもの」
「うぬぼれはいい勝負だな」
二人は声を上げて笑った。
「それにね、私、紳士の国へ行っても平気よ!」
瞳が言った。「何しろ、このこうもり傘がありますからね!」 赤《あか》いこうもり傘《がさ》