犬が吠《ほ》えた。
一匹が吠えると、二匹、三匹と、たちまちこだまのように広がって、夜の空間を飛び交い始めた。
失敗だ、と彼は思った。
吠えるはずがなかったのに。——なぜ、犬は吠えたのだろう?
犬の声が素早く移動し始めた。——誰かを追っている!
偶然、同じ夜に、この屋敷へ他の泥棒が忍び込んだのか?
彼は舌打ちした。あんなぶざまな仕事をする奴《やつ》と一緒になるなんて!
正にその瞬間、金庫は開いた。
現金や株券など、目もくれず、ビロードを張ったケースに並んだ宝石だけを用意した布袋へザーッと落とし込む。中身は後で確かめるしかない。
激しく吠えたてる犬たちの声のトーンはますます甲高くなって来た。誰かを追い詰めて、たぶん相手は木の上にでも上っているのだろう。
人が起き出す気配があった。真先にこの金庫を見に来る。
彼はソファの後ろへ隠れた。数秒後、ドアが激しい勢いで開いて、
「やられた!」
という声。「逃がすな!」
足音がいくつも駆け出して行く。
どうやら、あの犬に追い詰められたドジな奴が、身替りをつとめてくれそうだ。
彼はソファの後ろから出ると、そっと部屋を出た。
廊下には人《ひと》気《け》がない。
一気に駆け抜けて行くと——突然、目の前でドアが開いて、
「何だろう?」
と、若い男が顔を出した。
危うく、廊下のカーテンのかげに身を寄せて、見付からずにすんだが——。
「何かあったんだ」
と、若い男は言った。「行ってみる! 君は部屋へ戻って」
部屋の中から、
「どうしたの?」
と、若い女の声が応じた。「犬が吠えてるわ」
「分らない。——ともかく君は自分の部屋に」
若い男は一《いつ》旦《たん》部屋の中へ引っ込んだ。
彼は、この間に廊下を駆け抜けてしまおうかと思ったが、ドアは細く開いたまま。いつまた人が出て来るかもしれない。
迷っている間に、すぐ十秒や二十秒がたってしまう。——ここは待つしかない、と心を決めた。
しかし、待つほどのこともなく、すぐにドアが大きく開いて、
「大丈夫。誰もいないよ」
と、廊下を見回した若者が部屋の中へ声をかける。
「本当に?」
と、訊《き》き返す声がして……。
若い女が顔を覗《のぞ》かせた。——彼は、そっとその女がどんな様子なのか盗み見ないではいられなかったのだが——。
「大丈夫だ。今の内に早く!」
「ええ。江《え》田《だ》さん、気を付けてね」
色白な、少し線の細い印象のその女は——女というより娘と呼んだ方が似合いそうな、たぶん、まだ二十歳を過ぎたばかりと思える横顔。可《か》愛《わい》くないことはない。しかし、その目にはどこか哀しげな風情というか、「悲しみの似合う娘」という気配があった。
遠目でもそれだけの印象を与えたから、「影が薄い」というのは妙かもしれなかったが、一見して、ふと目をひかれる人でいながら、目を離したとたん、その顔を思い描くことができなくなる。——その娘はそんな様子だった。
あわててスカートの中へブラウスの裾《すそ》を押し込みながら、
「じゃ、行くわ」
と、せかせかと男にキスして、「気を付けてね」
と、廊下を彼の隠れている方へとやって来る。
一瞬、緊張して息を殺し、カーテンを体にきりりと巻きつけて凍りつく。
だが、その娘は一陣の風のように駆け抜けて行って、誰かがそこに隠れていることなど、気付きもしない様子だった。
——助かった。
屋敷の中は、番犬の吠え立てる声の方角へすべての注目が集まってしまい、彼は楽々と出て行くことができた。
実際、もしその気になれば、正門を開けて堂々と(?)出て行っても見《み》咎《とが》められはしなかっただろう。
もちろん、そんな子供じみた真似はしなかったけれど。
むしろ、折から降り出した雨に濡《ぬ》れることの方が、彼には気になった。
それでも、本降りになる前に、車へ行き着くことができた。
「——良かった」
と、ドアを中から開けて、和《かず》子《こ》が言った。「犬の声がしていたんで、心配していたんですよ」
ちっとも心配していたという口調でないのが、和子らしいところだ。
「出してくれ」
後ろの席に落ちついて、彼は言った。
和子が車を出し、二、三分の内には、彼は後部席に三つ揃《ぞろ》いのスーツ姿で、穏やかな初老の紳士としておさまっていた。
——彼の名は久《く》野《の》原《はら》僚《りよう》。
もちろんその名では「財産持ちの美術収集家」としてだけ知られている。本業——すでに四十年近いキャリアを誇る「泥棒」としては、彼は〈黒猫〉のニックネームで知られていた。
車の座席でリラックスするのに、やはりしばらく時間がかかる。久野原は、こわばりをほぐそうとするように、両手をゆっくりと握ったり開いたりした。
「あの犬は?」
車を運転しながら、和子が言った。
田《た》中《なか》和子——これが本名かどうかは知らないが——は、久野原の信頼できる部下として、二十年近い日々を共にしている。
「分らん」
と、久野原は首を振った。「誰かドジな奴が忍び込んで、追い詰められたようだ」
「じゃあ今ごろは——」
「僕の代りに捕まっているかな」
「でも宝石は持っていない……」
「さぞ、警察で絞られるだろう。気の毒に」
初めて微《ほほ》笑《え》む余裕ができた。
終った。——ともかく終ったのだ。
久野原は——いや、〈黒猫〉はひと仕事終えたときの解放感に浸っていた。
だが、この「ひと仕事」は終っていなかったのだ。
それどころか始まったばかりだったのだが、車の座席を少しスライドさせて欠伸《あくび》した久野原に、そんな予感はまるでなかったのである……。