テラスへ出るガラス戸を静かに開けると、爽《さわ》やかに乾いた風が「秋」を運んで来る。
木々は少しずつ衣を脱いで身軽になりつつあった。
「旦《だん》那《な》様」
長い付合いで、その口調から何を言われるか見当がつく。
「風邪を引きます、だろ。すぐ閉めるよ」
と、久野原は言った。
「それもありますが——」
「他にも?」
「お客様でございます」
田中和子は、口もとに笑みを浮かべたまま、言った。
「誰が来たんだ?」
「熊《くま》沢《ざわ》様です」
意外な来訪だった。
「お通ししても——」
「もちろんだ。コーヒーを淹《い》れてくれ」
「すぐに」
和子は、あくまで久野原に対しては「無口でよく働くベテランのお手伝いさん」である。
和子はすぐに、自分の倍近くも幅のありそうな男を案内してきた。
「突然お邪魔して申しわけないです」
と、その男は大きな体に似合わず、おずおずとした調子で言った。
「コーヒーを……」
「どうも。——いや、ありがとう。気持いいですな、こちらのお宅は、いつ伺っても」
熊沢は少し歪《ゆが》んだネクタイを気にして直していたが、結局もっとひどく歪んでしまっただけだった。
「ご在宅で良かった。また外国へ行ってらっしゃるかと思っていました」
「近々また出かけますがね」
と、久野原は言って、自分もソファに寛《くつろ》いだ。
「そうですか! いや、羨《うらやま》しいご身分だ。我々は一向に——」
と言いかけ、「やめておきましょう。口にするだけ空しい」
「で、今日は何のご用件で?」
「八《や》木《ぎ》家のダイヤモンドのことで、少しご相談したいことがありまして」
熊沢は、少しも変らない口調で言った。——もちろん、警視庁捜査一課の警部という身では、「犯罪」が日常茶飯事に思えても仕方ない。
「八木春《はる》之《の》介《すけ》さんの所は、泥棒に入られたそうですね。お気の毒に」
と、久野原は言った。「しかし、例のダイヤモンドは無事だったのでしょう?」
「そう報道されているし、実際、我々もそう思っていたのです。ところが——。何しろ、当の持主が『無事だった』と言ってるんだから信じますよ」
「それが、実は——」
「今になって、本当は盗まれていたと言い出したんです。文句は言ったが、何しろちっとも応えない」
と、熊沢警部は苦笑した。
「秘密にしておいて、買い戻すつもりだった。——そうですね?」
「おっしゃる通りです。全く、ああいう人たちの考えることは分りませんな! ちゃんと犯人を捕まえれば、タダで取り戻せるものを、何千万も何億も払おうとするんですから」
「それはあなたにもお分りでしょう。時間が肝心なのだということは。——日がたつと共に、ダイヤモンドが売られて、手の届かない所へ行ってしまうのを心配しているんですよ」
と、久野原は言った。
「分っちゃいるんですがね。しかし、こっちも役目というものが……。おっと、またついグチを言いそうになってしまう」
熊沢は、少しわざとらしい口調で言った。
「しかし、熊沢さん、なぜ私の所に?」
久野原がそう訊《き》いたとき、和子がコーヒーを淹れて来た。
「——やあ、いい匂《にお》いだ!」
熊沢は、心から感激しているという様子だった。
犯罪の加害者、被害者ばかりを見ていると、人間を信じなくなってしまっても当然だが、この五十歳になるベテラン刑事は、素直な子供のように、喜んだり嘆いたりする心を失わない。
そこが久野原は気に入っていた。
「——どうぞ」
と、和子がコーヒーカップをテーブルに置く。
久野原は自分のカップを受け取ると、
「和子さん、納戸の扉の具合を見といてくれるかね」
と言った。
「かしこまりました」
それを聞いて、熊沢が、
「開かないんですか? 何なら私が直しますよ」
と言った。
「いやいや、そんな気づかいはいりませんよ」
と、久野原は笑って言った。「まあどうぞ。——和子さんの淹れるコーヒーは絶品だ」
「全くです! 捜査一課でも、こんなコーヒーが飲めれば、ずいぶん疲れ方も違うでしょうが」
と、熊沢はゆっくりとコーヒーをすすった。
——久野原は自分もコーヒーを飲んで、少し間を置いた。
和子に、
「納戸の扉の具合を見てくれ」
と言ったのは、「納戸で、ここの話を聞いていてくれ」という意味である。
ここでの話は、花びんの底に仕掛けられた隠しマイクで、納戸の中の受信機へとつながっている。
「——そろそろ話して下さい」
と、頃合を見て、久野原は言った。「なぜ私の所に?」
「ええ、実は……。どうも後味の悪いことになってしまいましてね」
と、熊沢の顔が曇った。
「泥棒は確かその場で捕まったと聞いたんですがね」
と、久野原は言った。
「ええ、番犬のドーベルマンに追っかけられて、ズボンの尻《しり》の所を食いちぎられて、みっともないざまで」
と、熊沢は苦笑した。
「で、宝石は?」
「持っていなかったんです。——共犯者へ渡した後だったんでしょう」
「なるほど」
「泥棒は、元々よく知っている男でした。〈トンビ〉というあだ名で、まあ大した奴《やつ》じゃありません。あんな八木邸へ忍び込むなんて、柄じゃないんですよ」
「すると、一人じゃない、と……」
「屋敷の中に共犯者がいたんじゃないかと思えるんです」
「すると宝石も?」
「ええ、周辺での聞き込みでも、怪しい人物や車は出ていないんです」
「しかし、夜中のことですからね」
「それはそうです。実は——八木家の雇い人で、江田という若者がいるんです。江田邦《くに》也《や》といって、まだ二十四だが……。その番犬の世話や、細かい雑用と、一応用心棒も兼ねるといった仕事で」
「その江田が怪しいと?」
「根拠があったわけじゃありません」
と、熊沢は言った。「ただ、犬が吠《ほ》え立てて、屋敷の中の使用人たちが集まって来たとき、江田だけが遅れて現われたんです」
「なるほど」
「誰が言い出したのか……。『江田一人が遅くやって来た』というのが、徐々に『奴が共犯者じゃないか』と変って行ったんです」
「それは厄介ですね。噂《うわさ》というのは罰することも止めることもできない」
「そうなんです。我々も、そんな話になっていることを知らずにいたんです。すると突然地元署が、江田を呼び出して取り調べたんですよ」
「それは少し軽率では?」
「ええ、そのせいで、江田は完全に犯人扱いされてしまいました。もちろん留置も何もされずに、その日の内に戻ったんですが、もう屋敷の人間はみんな江田を共犯者と決めつけていたんです」
「やれやれ……。それで、当人は?」
「もともと辛抱強い奴で、当然自分が疑われていると分っていたでしょう。しかし、表に出ないだけで、当人は相当に苦しんでいたようです」
と、熊沢は言った。「——江田は自殺してしまったんですよ」
久野原にも、それは想像できなかったことだった。
「何てことだ……。遺書はあったのですか」
「短いメモです。〈僕じゃありません〉と、ただひと言ね」
熊沢はそこまで言って、後はしばらくコーヒーを飲むことに専念した。
久野原も同様に黙ってコーヒーを飲んだ。そして、
「——江田という青年は、どうやって自殺したんです?」
「主人の八木春之介さんが狩猟を趣味にしていましてね。その猟銃で……。よくあるでしょう。銃口を口にくわえて、足の指で引金を引く……」
「想像したくもない光景だな。自殺であることは確かなんですね?」
熊沢は何も言わずに久野原をじっと見つめている。
「——そうか」
と、久野原は肯《うなず》いた。「ここへやって来られたのには、理由があるはずですね」
「靴下なんです」
「靴下?」
「ええ。引金を引くのに、右足の靴を脱いでいた。これは当然です。しかし、靴下ははいたままだったのです」
「なるほど」
「確かに、靴下をはいていても、引金を引くのに、さほど苦労はしません。しかし、靴を脱いでるんですから、そのときついでに靴下まで脱ぐのが普通じゃないでしょうか」
「すると——あなたが疑問を抱いたのは、その靴下の件だけですか」
「そうなんです。これだけじゃ、自殺という説を覆すことはできません。現に、今日の夕刊に、江田の自殺の記事が載りますが、おそらく、この事件についての記事は、それが最後です」
「つまり、捜査は打ち切りですか」
「宝石が盗まれた件に関しては、それが『裏ルート』に出てくるのを待つでしょう」
「相談に来られたお気持が分りましたよ」
と、久野原は言った。
「いや、相談というより、グチのようなものだと思って下さい。上の方の意向は固まっています。今さら私がどう言ったところで、覆りはしないでしょう」
——妙な話、といえば全く妙である。
警視庁捜査一課の警部が、何と泥棒の所へ相談に来るのだから。
もちろん、熊沢は久野原の本業は知らない。しかし、仕事らしい仕事もせずに、優雅な暮しをしている久野原について、どこか得体の知れない男だとは思っているだろう。
それでも、久野原はこれまで自分と直接関係のない事件のいくつかで、熊沢に協力し、多少役に立つことがあった。
熊沢は、すっかり久野原に心服してくれている。少々照れるが、久野原としても、悪い気はしなかった。
「——まあ、自殺としても、それで却って犯人には都合のいいことになりますな。その〈トンビ〉とかいう泥棒とのつながりも分らないままでしょう」
と、久野原は言った。
「そうなんです。もし、本当に江田が共犯だったとしても——」
「それはないでしょうね。江田が番犬の面倒を見ていたのなら、吠え立てないようにすることができたろうし、もしそれが不可能なら、そう泥棒に言ったでしょうからね」
「なるほど。確かにそうです」
「まあ、その若者のことは気の毒ですが、私の出る幕はなさそうだ。もし、例のダイヤが闇《やみ》の市場に出回ったという噂でもあれば、すぐお知らせしますよ」
久野原の言葉に、熊沢は何度も礼を言った。そして、後は雑談をして帰って行ったが……。
玄関まで見送って振り返ると、和子が立っていた。いつも静かに歩く女なのである。
「——聞いたか」
「はい」
と、和子が肯《うなず》く。
「妙な話だ」
と、居間へ戻りながら、「江田というのは、あのときの若者だろう。駆けつけるのが遅くなったのは、女の子と一緒だったから、と言えなかったのかな」
「女の子の方も、そこまで黙っていたのは変です」
「うん……。まさか自殺するとは思っていなかったとしても……」
「この自殺の後で、話が出るかもしれませんね。もし出なければ、よほど知られたくない事情があるんです」
「どうも、この一件は気に入らん」
「何も、これ以上係り合いになる必要もありません」
「分ってるよ。しかし——」
「ダイヤモンドのことですね」
「〈月のしずく〉だ」
——八木春之介の所有する宝石の中でも、〈月のしずく〉と呼ばれるダイヤモンドは、一番の値打があると言われている。
久野原が、今さら仕事をしなくてもいいほどの蓄えを持ちながら、五十代も末の身であの八木邸へ忍び込んだのも、ひとえに〈月のしずく〉のためだった。
それは今、誰の手にあるのか。
——久野原が盗んだ宝石の中には、〈月のしずく〉はなかったのだ。
八木がどこか別の場所へ隠していたのだと思っていた。ところが、今になって、〈月のしずく〉が盗まれたと言い出した。
そして、その共犯の疑いをかけられていた青年が自殺した……。
久野原としては、やはりいくらか面白くない。
自分が盗んでもいないもので、久野原だって捕まりたくはない。他のものはもう処分してしまったのだが……。
「妙な好奇心を起さないで下さい」
と、和子がいささか心配そうに言った。
本業を忘れて、事件にのめり込むことが多いので、和子はブレーキをかけようとしている。
「分ってるよ」
久野原は微《ほほ》笑《え》んで、「私ももう五十八。——自分のことは分っている」
「なら、よろしいですけど」
「まず、捜査の進み具合を見る。その後だ」
「その後でもだめです!」
と、和子は断固として言った。
「そう怖い声を出すな」
「忠告申し上げただけです」
「分ってる。どうだ、秋で、いい季節だし、ヨーロッパへでも行ってみるか」
「まあお珍しい。本気ですか?」
「もちろん!」
久野原は、このところ秋のヨーロッパを見ていない。久しぶりに訪ねてみたい、という気にもなった。
それに、日本にいれば、当然事件の話も耳に入る。入れば気になって当然。
いっそ、日本を離れてしまえば……。
そうなのだ。五十八歳の泥棒は、そこまで考えたのだったが……。