ボートが大きく揺れる度に、歓声と笑い声が上った。
細かい霧がふきつけてくる。——久野原は、目を細くして、陽光に滝のしぶきがキラキラと輝いているのを、ビデオカメラにおさめていた。
液晶の画面には、岩をかんで崩れるように落ちてくる滝が映っている。
「コートを持ってくるんでした」
と、和子が仏頂面をしている。「おっしゃって下さらないんですもの」
「すぐ乾くよ」
と、久野原はビデオを止めた。「今年は水量が多いようだな」
ボートが滝に近付くにつれ、水音でかき消されて話し声は聞こえなくなった。
腹に響く水音は、大太鼓の連打のようだ。
——ライン川が、その長い流れの中で、ただ一ケ所、滝になって落ちている、ここはシャフハウゼンという所。
滝といっても、落差は二十メートルほどのもので、ナイアガラなどとは比べものにならないが、流れののろい、ゆったりとしたラインが、ここだけ白くしぶきを上げて落ちて行くのが、水量の多いこともあって、なかなか豪快な見ものになっている。
「冷たい!」
と、甲高い声を上げているのは、日本人の若い娘である。
このラインの滝は真中に大きな岩がそびえていて、その両側を滝が流れ落ちて行く。
底の平たいボートで、その岩へ乗りつけて、岩の天辺まで上れるようになっているのである。
「足下に気を付けて!」
ボートが岩につけると、乗っている二十人ほどの観光客は濡《ぬ》れた足下に用心しながら、こわごわボートを降りる。
岩肌を掘って階段が作られていて、岩の上まで上ることができる。
「写真、写真!」
と、はしゃいでいるのは、たぶん女子大生らしい、三人連れ。
「交替で撮ろう!」
久野原が、和子と一緒に階段を上って行くと、
「すみません! シャッター切っていただけます?」
と、女の子の一人が頼んで来た。
「いいとも」
久野原は、自分のビデオカメラを和子へ渡し、「——じゃ、その滝のしぶきをバックに?」
「お願いします!」
階段といっても狭いので、三人が並ぼうとすると、ギュウギュウ身を寄せ合わなければならない。
「——では撮るよ」
久野原は、水しぶきが霧のように白く光っている中、三人の娘が顔を寄せ合って笑っているのをファインダーに見て、シャッターを切った。
「もう一枚、念のために」
と、もう一度シャッターを切り、「OKだ」
「すみません!」
久野原は、カメラを返して、
「大学生かね?」
「はい!」
「足下に気を付けて。毎年数人は滝に落ちて亡くなるんだよ」
「ええ?」
三人が目を丸くする。
久野原たちは一足先に、岩の天辺まで上った。
「——あんな嘘《うそ》をおっしゃって」
と、和子が言った。
「なに、その方がスリルがあって面白い」
久野原は、滝の分厚い流れを見下ろして、
「今年はなかなか元気がいい」
と言った。「我々も記念撮影をして行くか」
「私がお撮りします」
そこへあの三人も上って来て、
「あ、シャッター切ります。お二人で」
一人の女の子が声をかけてきた。
「じゃ、お願いしよう」
と、久野原は微《ほほ》笑《え》んで言った。
「そうですか……」
和子は、大して面白くもなさそうだ。
「じゃ、奥様がもう少しご主人の方へ寄って……」
と言われて、和子はますます仏頂面になる。
「少しは笑え」
と、久野原が小声で言うと、和子は、虫歯でも痛いのかと思うような、引きつった笑顔を作った。
シャッターが落ち、久野原は、
「やあ、ありがとう」
と、その女の子からカメラを受け取った。
「いいえ、ちゃんと撮れてるといいんですけど」
「念のために申し上げます」
と、よせばいいのに、和子が言った。「私はこの方の妻ではありません」
「あ……。そうですか、ずいぶんお若い奥様だと思いました。すみません」
「謝ることはない」
と、久野原は笑って言った。
「てっきりご夫婦かと思いました」
と、他の子たちも聞いていて、「ねえ」
「私もそう思った! じゃ、不倫だったんだ!」
和子が目をむいて絶句している。
「失礼なこと言って!——すみません、どうも」
と、シャッターを押してくれた女の子が言った。
「いやいや、そんなに色気があると思われたのなら光栄だ」
「ボートが出ますよ、下りましょ」
と、和子が言って、さっさと下り始める。
「せっかちな奴だ」
と、久野原は、三人連れの女の子たちに、会釈して、「ではお先に」
「足下、お気を付けて」
久野原は岩の下のボートが着く場所へと下りて行ったが——。
ふと足を止め、岩の上を見上げた。
三人の女子大生たち。そのシルエットに近い姿が、青空を背景に見えている。
「どうなさったんですか?」
と、下から和子が呼ぶ。「首が回らなくなりますよ」
「行くよ行くよ」
どうせ同じボートで帰るのだ。
戻りのボートは、それほどひどく揺れず、ホッとさせられたが……。
むろん、あの三人組も同じボートの端の方に座って、『キャアキャア』やっているのである。
「——何をジロジロ見てらっしゃるんですか?」
と、和子の咎《とが》め立てするような目に、
「今思い出した! 間違いない」
と、久野原は言った。
「お金でも貸してあったんですか?」
「あの子——シャッターを押してくれた子は、あの晩、八木の屋敷で、江田邦也の部屋から出て行った女の子だ」