「おはよう」
久野原は、英字新聞を手に取って、レストランのボーイに会釈した。
「オハヨウゴザイマス」
と、きれいな発音で返されて微《ほほ》笑《え》む。
田中和子が、五分前には来て、席を窓際に確保している。
「——おはよう。眠れたか?」
特に意味はない。毎朝の挨《あい》拶《さつ》である。
「少し寝不足です」
と、和子は答えてから、「おはようございます」
と言った。
「コーヒーを」
と、オーダーして、
「もっと取れば? 美《み》鈴《すず》」
という声で振り向いた。
あの三人組が、ビュッフェスタイルの朝食を皿にとりながら、ゆで卵の注文をしていた。
「ここに泊ってたのか」
と、久野原が言うと、
「隣の部屋でした」
と、和子が面白くなさそうに、「夜中までしゃべってましたわ」
——女子大生の身で、このチューリヒ一番の〈ホテルB〉。
もちろん、スイスには、星の数ほどのホテルがあるといっても、ここはチューリヒで一番格の高いホテルなのである。
大学生だけの三人組には少しぜいたくかもしれない。
久野原が、まずモーニングコーヒーで目を覚ましておいて、ビュッフェの朝食を取りに立った。
「——あ、昨日はどうも」
向うが気付いてくれる。
気付いたのは、あの女の子だった。
「やあ、同じホテルとはね」
と、久野原は微笑んだ。「若い人はいい。食欲も旺《おう》盛《せい》だね」
「恥ずかしい」
と、肩をすくめて、「——私、島《しま》崎《ざき》美鈴といいます」
「久野原だ。せっかくの縁だ。同じテーブルにさせてもらってもいいかね」
「ええ、もちろん!」
——というわけで、久野原は、面白くなさそうな和子ともども、女子大生たちのテーブルに加わることになった。
「すると、まだこのチューリヒに?」
と、久野原は言った。
「本当は今日出るはずだったんです」
と、島崎美鈴が言った。「このチューリヒで待ち合せていた相手が、一日着くのが遅れて。一泊のばしました」
「でも、いい街だよね」
と、他の女子大生の一人が言った。
もちろん、他の二人のことも、久野原は紹介してもらっていた。
一人は木《き》村《むら》涼《りよう》子《こ》。三人の中では一番にぎやかそうで、高校生といっても通りそうな童顔をしている。丸いメガネをかけているのも、その印象を強めているかもしれない。
「スイスって、どうしてディズニーランドがないの?」
などと言っている。
「どこも閉るのが早いのね」
と、〈夜ふかし型〉らしいのが関《せき》口《ぐち》ゆかり。
「六本木とか麻布みたいに、午前三時、四時に食事できるような所ってないのかしら」
大分夜遊びに慣れているらしく、三人の中では一番大人びて、体つきも「女」を感じさせる。華やかな感じの美人だ。
「ゆかりったら、何しにスイスに来たか分らないでしょ」
と、美鈴が笑って言った。「コンビニがないって文句言っても無理よ」
「君たちは同じ大学?」
と、久野原は訊《き》いた。
「はい、F女子大です」
と、美鈴が言った。
女子校としては古く、名門の一つである。
「今……何年生?」
「三年です、私とゆかりは」
と、木村涼子が言った。「私、そう見えないでしょうけど」
「中三だね」
と、関口ゆかりが冷やかす。
「せめて高三って言ってよ!」
「私だけ二年生」
と、美鈴が半熟のゆで卵を割りながら言った。「落第生なんです」
「美鈴は一年間こっちに来てて、遅れたんです。だから英語ペラペラ」
と、ゆかりがトーストにジャムを豪快に塗りつけながら、「いいよね。私も留学したいって言ったんだけど、お母さんから、『あんたは、ちょっと目を離すと、すぐ遊んでばっかりいるんだから、そんな遠くへやったら何するか分んない』って言われちゃった」
「当ってるよ」
と、涼子が肯《うなず》く。
「まあね。さすが、だてに母親やってない」
自分で言ってれば世話はない。
三人の二十一歳は、久野原など、見ているだけで満腹になりそうな食欲を発揮した。
「グーテンダーク」
レストランの支配人が、ドイツ語で挨拶している相手を、久野原はチラッと見た。
恰《かつ》幅《ぷく》のいい、大柄なドイツ人だ。いや、スイス人かもしれないが、ゲルマン系であることは確かだ。
「旦《だん》那《な》様……」
和子が、小声で言った。
「うん、分ってる」
久野原も小声で答えて、すぐに三人の女の子たちの話に加わった。
「——すると、今日はどうするんだね?」
と、朝食も終えて、コーヒーを飲みながら久野原が訊く。
「買物!」
木村涼子と関口ゆかりの二人が異口同音に答えて、一緒に笑い出した。
「二人とも、まだ旅は始まったばっかりよ」
と、美鈴が苦笑いしている。
「いいの! 買物しすぎて病気になった人間はいない」
と、涼子が言って、ゆかりと顔を見合せ、
「ね!」
どうやら三人組の中では、島崎美鈴が一人、少しクールに振舞う役割らしい。
「——久野原さん、一緒に行きません?」
と、ゆかりが言い出した。
「若い女性の買物に付合うには、年《と》齢《し》をとり過ぎたよ」
「ご迷惑よ」
と、美鈴が口を挟む。
「いや、迷惑というわけじゃないが」
「それじゃ決り! 三十分したら、ロビーで集合ね!」
と、ゆかりが「判決」を下した。
三人組が先にレストランを出て行くと、
「あの子たちに本当について行かれるんですか?」
と、和子が言った。
「僕も行きたい所がある。あんまり引張り回されるようなら、途中で別れて帰ればいい。 ——どうする?」
和子は、気がすすまない様子だったが、
「旦那様を、飢えた狼たちの中へ放り出しておくわけに参りません」
「それは逆じゃないのか?」
と、久野原は笑って言った。
「旦那様、あの外国人……」
「ああ。宝石商だな。——あまり良くない噂《うわさ》も耳に入ってくる」
このチューリヒに何の用事で?
「こんな所まで来て、物騒なことに係り合わないで下さいね」
と、和子が早速気を回す。
「こっちからは何もしないさ。しかし、もし事件が向うからやって来たら……」
「それは、旦那様が招き寄せているんですよ、本当は」
久野原は聞こえなかったふりをして、コーヒーを飲み干すと、
「さて、女の子を待たせるようなことになってはまずい。行こうか」
と、立ち上りかけた。
そこへ、フロントの係がレストランへ入って来て、中を見渡し、久野原たちのテーブルへとやって来た。
「エクスキューズミー」
と、英語で話しかけた。「ミスター・ヤギ?」
久野原は微《ほほ》笑《え》んで、
「ノー」
とだけ言った。
相手は詫《わ》びて立ち去ったが——。
「聞こえたろ?」
と、久野原は、和子に言った。
「ええ、でも……」
「分っただろう? 八木と言った。このホテルに、八木春之介が泊っているとしたら……」
「偶然じゃないと?」
「さっきの宝石商と、ダイヤ〈月のしずく〉を盗まれた大金持が同じホテル。しかも、盗んだ疑いを持たれて自殺した若者の恋人らしい娘が、女子大生三人で同じホテル……。面白いじゃないか」
「関係ない『ヤギさん』かもしれませんよ」
と、和子も負けていない。
二人はレストランを出て、各自の部屋へ戻るまで、同じテーマで語り合っていた……。
「——ヤア。ダンケシェーン」
電話を切って、美《み》津《つ》子《こ》は、「ロビーに来客だそうです」
と言った。
「そうか」
八木春之介はガウンを着て、大きなベッドから出ると、「待ってるんだな?」
「だと思いますけど……。やっぱり、さっき電話が鳴ったとき、出ておけば……」
「構わん」
八木は遮って、「こっちから飛びつくように出ていけば、足下を見られる。帰れば帰ったで放っとけ。向うは金が欲しいんだ。必ずまた来る」
「でも、一応ロビーへ下りてみた方が……」
「お前が見て来い。もしまだ待っていたら、待たせておけ」
美津子が何も言わない内に、八木はバスルームへ入って行った。
美津子は、どうしたものか少し迷った。いずれにしても、ガウンの下は裸のままで、この格好でロビーへ下りて行くわけにいかないのだ。
急いで服を着る。バスルームからはシャワーの音が聞こえて来た。
美津子も、本当はシャワーを浴びてから服を着たかった。でも、そんなことに気をつかってくれる八木ではない。
仕方ない。後で浴びることにしよう。
ルームキーを手に、部屋を出ると、ロビーへと急いだ。
富《とみ》田《た》美津子。——八木の「秘書」である。
名目だけの秘書ではない。子供のころから、親の仕事の都合でヨーロッパ暮らしが長く、英語、ドイツ語は大体話せるし、フランス語も易しい話ならできる。
それでも、美津子が、今年七十になる八木春之介の「彼女」であることは隠しようもない。
二十二歳の秘書。七十歳の八木。——八木家の当主として、いくつもの企業のオーナーでもある八木春之介は、並の七十歳ではない。
こんな旅先で、朝、目を覚ましてすぐに美津子に挑みかかってくる。——それを拒むことは、美津子には許されていない。
——ホテルのロビー、といっても、日本の何十階もある大きなホテルではないので、ロビーも一目で見渡せる広さ。
美津子はロビーを見渡したが、それらしい「来客」の姿はなかった。帰ってしまったのだろうか。
美津子はフロントへ行って、来客のことを訊《き》いてみた。
その辺りにいるはず——とフロントの係もはっきりしない。
振り向くと、初老の婦人が何人か入って来て、ラウンジでおしゃべりを始めている。
美津子は諦《あきら》めて部屋へ戻ろうとエレベーターの方へ行きかけた。
廊下の奥から、背広姿の若者が出て来た。化粧室へ行っていたのか、ハンカチをポケットへ突っ込むところだった。
——気が付くと、美津子はその若者と、ほとんど鼻を突き合せるような近さで立っていたのである。
「——姉さん?」
と、その若者が言った。
「和《かず》彦《ひこ》……。あんた、どうして……」
美津子は呆《ぼう》然《ぜん》として、弟を眺めていた。
「一緒に来てるのか、あいつと」
「八木さんのこと?」
「旅行にまでついて来るのか」
「私は言葉ができるのよ」
「それだけじゃないだろ」
富田和彦は、なじるように言った。
美津子の顔から血の気がひく。
「どういうつもり? 私が八木の所にいなきゃならないのは、あんたが作った借金を、八木に肩がわりしてもらったからじゃないの」
「やめてくれ! 誰も頼んじゃいないだろ」
と言い返す。
つい声が大きくなって、静かなロビーに響いた。
「和彦、今どこにいるの?」
と、小声で訊く。「教えて」
和彦は、ちょっとためらっていたが、
「一時間したら、フラウ教会にいる」
と言って、半ば駆けるように行ってしまった。
美津子は、しばらくその場に立ちすくんでいたが、やがて肩を落すと、エレベーターのボタンを押した。