「この川……」
と、島崎美鈴が言いかける。
「リマト川だよ」
と、久野原が言った。
「ああ、そうでしたね」
と、美鈴は笑って、「私、いつも『リトマス試験紙』を連想してしまうの。それで、つい、〈リトマス川〉って言ってしまいそうになるの」
歩くにはいい気候だった。
少し雲が出ていたが、その方がヨーロッパらしいとも言える。
ホテルから、リマト川沿いの道を、久野原たちは歩いていた。
「せっかくだ。フラウ教会を覗《のぞ》いて、それから、バーンホフ通りへ出よう」
と、久野原が言った。
「買物は?」
と、木村涼子が訊《き》く。
「バーンホフ通りが一番の目抜き通りだ。フラウ教会はステンドグラスがシャガールのものなんだ」
「ガイドブックで読んだ!」
と、関口ゆかりが得意げに言った。「でも、シャガールって知らないんだよね」
「猫に小判だ」
と、美鈴が笑った。
先を涼子とゆかりが行き、久野原は美鈴と並んでそれに続いていた。一番後ろに、無言で田中和子がついている。
「——静かで、少し寂しくて、ヨーロッパの秋って好きだわ」
と、美鈴が言った。
そんな美鈴には、他の二人と違った落ちつきがある。
「チューリヒの後はどこへ?」
と、久野原は訊いてみた。
「分らないんです」
「分らないって?」
「明日、ここで会う人次第なんです。でも、こっちは任せっ放しなんですもの、文句も言えない」
美鈴は、爽《さわ》やかに笑った。
「——その、待ってる人って、誰なんだい?」
「私も個人的にはよく知らないんです」
美鈴の言葉は妙なものだった。
「ほう」
「妙だと思われるでしょうね」
と、美鈴は言われる前に、「叔《お》母《ば》なんです、来るのは。こっちにずっと住んでらして、私もあまり会ったことがないんです」
「なるほど。じゃ、仕事の関係でこちらに?」
「ええ。美術品の商いをしているようですわ」
「上品なお仕事だ」
「でも、久野原さんも——」
「多少、縁はあるがな」
と、久野原は言った。「——ああ、それがフラウ教会だ」
——そう大きな教会ではないが、中はすっきりして清潔な感じだった。
シャガールの描いたステンドグラスは、かなり濃い色づかいが、禁欲的な教会の中にあって、印象が強い。
「観光客が一杯来てる」
と、涼子が文句を言って、
「私たちだってそうでしょ」
と、ゆかりに笑われている。
シャガールのステンドグラスの前で、みんな記念撮影をしている。——ま、他にすることもない、と言えばその通り。
「——涼子、写真、撮る?」
「私、いいわ」
と、涼子は、首を振って、「一人で教会の中を歩いてみる」
「涼子にしちゃ珍しいこと言うじゃない」
ゆかりにからかわれて、
「私だって、たまにゃもの思いに耽《ふけ》るわよ」
と、涼子は言い返した。
「さあ、僕がシャッターを切ってあげよう」
と、久野原が言った。「こういう所へ来たら、観光客に徹することだ。気取っても仕方ないよ」
「そうですね」
美鈴が明るく言って、「ね、涼子も一緒に撮ろうよ!」
と、行きかけた涼子を手招きした。
「何よ……。ま、いいけど」
涼子がブツブツ言いながら戻ってくる。
「さあ、ステンドグラスを背にして」
久野原はファインダーを覗《のぞ》いてから、「——君も入れば?」
と、和子の方を見た。
「そういう、思い出したような言い方をしないで下さい」
と、和子は真顔で、「私が切りましょうか。女の子に囲まれてやにさがってるところを」
「僕はいいよ」
久野原はシャッターを切った。「——ストロボが発光しなかったな。暗く映るだろう。もう一枚、今度はストロボを使うから」
「ストロボなくても、充分明るい」
と、ゆかりが笑って言った。
「——はい、撮るよ」
間を置かず、久野原はシャッターを切った。
ストロボが光った、その瞬間、教会の中に何か破裂するような音が響いたのは全く同時だった。
銃声だ。
久野原はすぐに分った。こんな教会の中で?
「キャーッ!」
悲鳴が上った。日本人の観光客だ。
「人が死んでる!」
という声。
「カメラを」
久野原は、カメラを和子へ渡すと、声のした方へと駆けて行った。
「大丈夫です!」
倒れていた「死人」が、起き上った。若い女だ。
「——生きてます! 大丈夫です!」
と、その女は叫ぶように言って、歩き出そうとして呻《うめ》いた。
「待ちなさい」
久野原は、女の腕を取って、「けがしてるじゃないか。——出血を止めないと」
「大したことじゃありません! 放っといて!」
女の声には、怯《おび》えているような気配があった。
「撃たれたんだろう? 手当しないと、弾丸が中に残っていれば死ぬぞ」
久野原は、女の耳もとで、強い口調で言った。
女は久野原を見て、
「——分りました」
と、息をついた。「警察沙《ざ》汰《た》にしたくないんです」
「それなら、なおさらこんな様子でホテルへ戻るつもりか?」
久野原は、女の、左肩を押えている手をそっと離させた。
「——ひどくはないが、手当は必要だ。和子君」
和子が、「やれやれ」という様子でやって来る。
「この人を病院へ連れて行く。君、女の子たちを買物へ」
「私がこの人について行きます」
と、和子は言った。「服を脱がしたりするのに、私の方がいいですし、着替えも買わないとホテルへ戻れません」
「なるほど」
「旦《だん》那《な》様が、女性の服、一揃《そろ》い買ったらどう思われるか——」
「分った。任せるよ」
こういうときには、和子の方が度胸がよく、冷静である。久野原は女に、
「この人がついていれば大丈夫。君、言葉は?」
「はい、できます」
「良かったわ。じゃ——出血をこれで押えて」
と、和子がハンカチを取り出す。
「すみません……私、ホテルは同じ所です」
「知ってたのか」
「朝食のとき、お見かけしました」
傷が痛むだろうに、その気配を見せない女に、久野原は感心した。
和子が付き添って、教会の人に近くの病院を訊《き》いている。——和子も、そう難しい話でなければ使えるのだ。
しかし、あの気丈さは、普通ではない。
「——いいんですか?」
と、美鈴がやって来て言った。
「ああ。田中君がついて行った。——君らももし警察でも来たら、色々訊かれるよ」
「外へ出ています」
「うん。僕は、ちょっと手についた血を洗い落としてくる」
トイレは地下にあった。
久野原は、洗面所で手を洗った。——確かに、誰かに撃たれたに違いないが、女はあくまでそれに触れなかった。
よほど警察に知られたくないわけがあるのだろう。あのホテルにいるとすれば、また話す機会もあるかもしれない。
ハンカチで手を拭《ふ》いて、トイレを出ようとしたとき、
「ハクション!」
と、派手なクシャミが聞こえて、久野原はびっくりして振り向いた。
誰かトイレに隠れていた!
そのことに今まで気付かなかった自分を呪《のろ》った。若いころなら、まずトイレに入って、中に人の気配がないかどうか確かめただろうに。
しかし、クシャミをするまで、全く音をたてなかったのは、身を潜めていたからだろう。
クシャミで気付かれたと分ったのか、トイレの仕切りから、扉が開いて、男が出て来た。
若い男だった。
「——日本人か」
と、向うが言った。
「そうだ」
と、久野原は肯《うなず》いて、「どうして隠れてるんだ?」
「ふざけるな!」
若い男は上着の下から拳《けん》銃《じゆう》を抜いて、久野原へ突きつけた。
「穏やかでないね」
「今、上で騒いでたろう。俺《おれ》が殺したんだ!」
「殺した? ネズミでも?」
「貴様——」
「肩を撃たれた若い女性なら、自分の足で病院へと歩いて行ったがね」
男はポカンとして、
「肩を……。本当か?」
「でなきゃ、今ごろサイレンが聞こえてる。違うか?」
「そうか……」
と、男は拳銃をダラリと下げ、「良かった!」
と言ったのである。
久野原は、ふと思い付き、
「君、もしかしてあの女性と姉弟じゃないのか?」
と言って、
「どうして知ってる!」
と、また銃口を向けられたのだった。
「そうやたらと銃を振り回すものじゃない。君とあの女性と、一見してよく分るくらい似てる」
「姉貴と?——そうかな」
と、若い男は調子が狂ったのか銃をしまった。「小さいころは、みんなからよくそう言われたけど」
「そんな物、持って歩いて、こっちの警察に捕まったら、そう簡単に出て来られないぞ。悪いことは言わない、川の中へでも捨てることだ」
「お前……。いやに落ちついてるな」
と、若い男は感心したように、「ただもんじゃねえな」
「君に言われても嬉《うれ》しくないがね。——なぜ自分の姉さんを撃ったりするんだ」
「色々さ」
と、呟《つぶや》くように言って、「気に入らない金持野郎の女になってるんだ。だからもう姉弟じゃねえって言ってやった」
「それで撃ったのか?」
「お前にゃ関係ねえよ」
と言い捨てて、「あばよ」
と、小走りに出て行く。
「——『気に入らない金持』か」
と、久野原は呟いた。
あの姉のことを、充分に愛しているのだろう。それは苦々しい口調でも分る。
ふと、久野原は思い当った。
あの「姉」の方は久野原たちと同じホテルだと言った。
「気に入らない金持」というのは、八木春之介のことではないのか。
だとすると今の若者は——。
久野原は急いで教会の外へ出てみたが、さすがにもうあの若者の姿は見えない。
「久野原さん」
と、島崎美鈴がやって来た。「今、男の人が駆け出して行ったけど、あれ……」
「いや、何でもないんだ」
と、首を振って、「さあ、お待ちかねのショッピングだ。お付合いするよ」
「お疲れにならないようにして下さいね」
美鈴は気をつかってくれる。
確かに、「買物」に賭《か》ける女性たちのエネルギーは、格別のものがある。
久野原は一つ深呼吸をして、
「じゃ、行こうか」
と言った。