「お休みですか」
と、田中和子が顔を出す。
「ああ……。夕食は遅めにしてくれ!」
と、久野原はベッドに引っくり返ったまま、返事をした。
「若い方と付合うと疲れるでしょ」
「こっちが年《と》齢《し》を取っただけだ」
と、久野原は大きく息をついて、「あの女は?」
「傷は手当てしてもらいました。医者には、工事現場で落ちて来た物が当ったとか説明していたようです」
と、和子は言った。「向うが信用したかどうか分りませんが、ゴタゴタに巻き込まれるのはいやでしょうし」
「大した傷じゃないんだな?」
「それにしても我慢強い人です」
和子は、あの女に好感を持ったらしい。
「名前は?」
「特に訊《き》きませんでしたが」
と、和子は言った。「富田美津子といって、何と——」
「八木春之介の秘書兼愛人」
「ご存知なんですか」
「撃った男に聞いた」
和子は大してびっくりした風でもなく、
「よくご無事で」
と、言った。「遺言に私の名を入れてから撃たれて下さいね」
どこまで本気なのか……。
部屋のドアをノックする音がして、
「久野原さん! 生きてる?」
と、若い娘たちのコーラス(?)が聞こえて来た。
「あの連中だ。やれやれ……」
と、久野原はベッドから下りると、ドアを開けに行った。
「——お迎えに来ました」
と、木村涼子が言った。
「お迎え?」
「散々、久野原さん、引張り回しちゃったから、お詫《わ》びに下のカフェでケーキ、ごちそうします」
と、関口ゆかりがウインクして、「美鈴はカフェの席を用意させてます」
「断るわけにもいかないな」
と、久野原は言った。「しかし、本当は君たちがケーキを食べたいんじゃないか?」
「鋭い!」
と、涼子が指先で久野原をつついた。「美鈴と二人にさせてあげますから、付合って!」
——実際、何を考えているのか分らん、と久野原は思った……。
午後になって、雲が切れ、カフェには明るく日がさし込んでいた。
「ごちそう」されるはずの久野原はコーヒーだけにして、三人組は、日本の倍ほどもある大きなケーキを食べていた。
「——叔《お》母《ば》から連絡があって、明日の朝、ここへ着くそうです」
と、美鈴が言った。
「そうか。じゃ、買物をすませておいて良かったね」
大分疲れも取れて、余裕の言葉である。
「あ、あの女の人……」
と、涼子は言った。
富田美津子がカフェへ入って来る。スーツの上を袖《そで》に手を通さず、はおっていた。
「——先ほどはご心配をかけました」
と、久野原の所へ来て礼を言うと、「私の雇い主が、ぜひお礼をと申しまして」
カフェに、八木春之介が入って来る。
三つ揃《ぞろ》いのスーツ姿で、白いマフラーを首にかけて垂らしていた。——白髪がつやのある光を帯びている。
「——こちらが久野原さんです」
と、美津子が傍へ退がると、
「うちの秘書がお世話になりました」
と、丁重に頭を下げた。
「久野原です」
「八木といいます。ここには慣れておいでらしい」
と、八木は三人の女子大生を見て、「生徒を引き連れた先生とも見えないが」
「袖触れ合うも多生の縁、というだけのことです」
久野原は、「もしよろしければ、ご一緒に?」
と訊いた。
「商用で外出するので」
と、八木は言った。「今夜のご予定はおありですか?」
「眠るだけです」
「では、その前に、ちょっとしたパーティに参加されませんか? 宝石を扱っている仲間の商人たちで、親《しん》睦《ぼく》の集りを開きます。ここから遠くない、ある屋敷で」
「どうも固苦しいものは嫌いで」
「いやいや、気軽な格好でおいで下さい。何しろ、商売人ばかりでは少しもパーティが面白くない。この美津子ぐらいしか、若い女はいないのでね」
「秘書がイヴニングドレスというわけには参りません」
と、美津子が言って、「——こちらのお嬢さん方に出ていただいてはいかがですか」
「それはいい。——夕食をタダで食べて、宝石のサンプルを見られる。よければぜひ」
「私たち、ヒマです!」
と、木村涼子がすかさず言った。
「では決った」
と、八木は口もとに笑みを浮かべて、「この美津子が、すべて手配します。——夜八時から。七時過ぎにロビーで美津子がお待ちしとりますよ」
では、と八木は会釈して、美津子を連れてカフェを出て行く。
「——やれやれ。君たち、いいのか、本当に?」
「だって、面白いじゃない!」
と、涼子は言ってから、「会費取る、なんて言わないよね?」
——美鈴が少しして、
「八木……春之介っていうんだわ、あの人、確か」
「知っているのかね」
と、久野原は訊いた。
「叔母から、名前を聞いたことが……。やはり宝石を扱うお仕事ですか?」
「さあ、どうかね」
と、久野原はコーヒーを飲み干すと、「では、どこかでタキシードを調達して来よう」
と、立上った。
「タキシード? 普通の格好って……」
「礼儀というものだよ」
とたんに、涼子とゆかりが目を輝かせた。
「じゃ、私たちも、大胆に胸の抉《えぐ》れたドレスだ!」
と、ゆかりが言うと、
「そんなもの、どこにあるのよ」
と、美鈴が苦笑いする。
「なに、こちらではそういうドレスを着る機会も少なくない。衣《い》裳《しよう》を貸している所があるだろう」
と、久野原は言った。「君たちのような若い人たちなら、充分着こなせると思うよ」
「でも、まさか——」
と、美鈴がためらっていると、
「着てみて、似合わなかったら、やめりゃいいじゃない!」
と、涼子が発言し、
「そうよ!」
と、ゆかりも同調して、「じゃ、美鈴だけセーラー服ででも出たら?」
「あのね……」
美鈴もムッとした様子で、「久野原さん、そういうお店に連れてって下さいね!」
と、ほとんど命令するように言ったのだった……。
確かに、三人が目立ったのは事実だった。
パーティはそう華やかではなかったが、集まった日本人のビジネスマンの多くは夫人同伴で、ただ、どうしても中年の和服の女性が多い中、赤、青、紫のドレスを着た三人の娘たちは、目立ったし、またパーティらしい雰囲気を作るのにも役に立っていた。
むしろ、タキシードの久野原と、地味なスーツの和子は、食べる方に専念していた。
「——写真、撮られまくり!」
木村涼子がすっかり顔を上気させてやって来た。
「とてもすてきだよ」
と、久野原は言った。
「ありがとう! こんな格好、初めてしたわ」
関口ゆかりも、パーティの出席者の「おじさんたち」と喜んでカメラにおさまっている。
涼子は小柄なので赤のドレスが可《か》愛《わい》い。ゆかりは、大人の雰囲気で紫のドレス。そして、美鈴は水色のドレスだったが、いかにも品のいい令嬢という印象だった。
「——暑いわ」
と、美鈴がやって来て、息をついた。「少し酔ったのかしら」
「それぐらいが色っぽくていいよ」
と、久野原は言った。
「よくこんなドレス、選んだわ」
と、美鈴が苦笑する。「つい、他の二人にのせられて」
一人なら、ついためらってしまう一歩も、三人で互いに煽《あお》り立てると、こうも大胆になれるというわけだ。
しかし、久野原は、この美鈴が、八木の屋敷で自殺した江田邦也の部屋から出て来たことを、忘れているわけではない。
この、おとなしく屈託のない表情の奥には、何か隠されているのだ。
「——久野原さん」
と、やって来たのは、富田美津子だった。
「やあ、傷はどうです?」
「ええ、もう大したことは。痛み止めを服んでいるので、眠くて」
と、美津子は微《ほほ》笑《え》んだ。
「あなたも、ドレスにすれば良かった」
「まさか。——社長が許しませんわ」
「八木さんのことですか」
「はい、もちろん」
「何となく、『社長』というイメージの人ではありませんね」
「何かにつけて、型破りな方なのですわ」
「確かにそのようだ」
と、久野原が肯《うなず》く。
「でも、あの若い方たちをお連れ下さって、社長がとても喜んでいます」
「私が連れて来たというより、連れられて来た、と言った方が正しいでしょう」
久野原は、天井の高い、おそらく何百年かたっている屋敷の大広間を眺め回して、
「ここはどういう場所です?」
「元は貴族の館だったようです。今は、こういう会合やパーティに会場を貸して、料理を出す、レストランのようなものです」
「なるほど、これだけの館を維持していくのは大変だろう」
美津子がちょっと笑って、
「すみません。社長も、ここへ一歩入って、そう言っていました」
「年寄りの考えることは、夢がなくていけないな」
と、久野原は笑った。
そのとき、
「皆さん、お待たせしました」
と、マイクを通した声が会場の大広間に響いた。
「社長だわ。失礼します」
と、美津子が人々の間に消える。
「お持ち寄りいただいた宝石を、披露していただきましょう。中央のビロードを張ったテーブルの周囲へお集り下さい」
広間の中央に、三メートル四方ほどのテーブルが置かれて、その黒いビロードの上に、既にいくつかの宝石が、白く、赤く光を放っていた。
「そこにあるのは、私のコレクションの一部です」
と、八木が言った。「お持ちいただいた品物を、テーブルの上に出して下さい」
各々、ポケットから、革の袋を取り出し、逆さにすると、ビロードの上に、様々な色の石が転り出た。
「すてき!」
三人の女子大生たちは、テーブルに貼《は》りついて、その光景を眺めている。
さすがに、専門にしている人たちだけあって、互いに石を手に取って、光にかざして見たり、あれこれ話を交わしている。
——久野原は少しテーブルから退がって、その光景を眺めていた。
「引力に引かれませんか」
と、和子がいつの間にか傍にいる。
「場所を選ぶさ」
と、久野原は言った。「それに、よほど貴重な物なら、こんな所へ持って来ない」
「でも、ある程度は——」
「もちろん、イミテーションじゃないだろうが……」
背後で、グラスの割れる音がした。
振り向くと、ビュッフェのテーブルに置かれた空のグラスをさげようとして、ボーイが落として割ったのである。
急いで破片を片付けているそのボーイをチラッと見て、久野原はテーブルの方へ目を戻した。
出されたダイヤモンドのネックレスを、涼子が首にかけてみて、歓声を上げている。
「若いというのは、いいことです」
と、和子が言った。
「——今のボーイ」
と、久野原は振り向いたが、もうボーイの姿はなかった。
「どうなさったんです?」
「今のボーイ、どこかで見たと思った」
「お心当りが?」
「富田美津子を撃った、弟だ」
と、久野原が言ったとき、突然、広間の明りが消えた。
「——少々お待ちを」
と、八木の声が響いた。「何分、古い屋敷なので……。暗い内に、宝石をポケットへ、などとお考えにならないように」
暗い中に笑いが起った。
「——キャッ!」
と、ゆかりの声がして、「誰か、私の胸に触った!」
「宝石と間違えたかな」
と八木が言ったので、大笑いになる。
「いやいや、宝石にはない手触りだ」
と、誰かの声。
——停電は、長く感じたが、一分足らずだったろう。
シャンデリアが点《つ》いて、再び広間は明るい光に溢《あふ》れた。
「失礼しました」
と、八木は言った。
「改めて、宝石を眺めながら、ゆっくりとワインや料理を味わっていただきたい」
「和子、帰ろう」
と、久野原は言った。
「ご気分でも?」
「少し疲れた」
久野原は、美津子を捜した。
広間へ入って来た美津子へ、
「私は、いささかくたびれたので、お先に失礼します」
と、声をかけた。
「まあ、そうですか。じゃ、社長に……」
「いや、私は飛び入りの客だ。どうぞお構いなく」
と、久野原は丁重に言って、「ただ、あの三人の娘たちを、ホテルまで連れ帰ってやって下さい」
「かしこまりました。必ず」
「ではよろしく」
久野原と和子が広間を出て、クロークでコートを受け取っていると、
「お帰りですか?」
と、美鈴がやって来た。
「今日は、昼間もよく歩いたし、いささかくたびれてね」
と、久野原は言った。「君たちは、ゆっくりしていきなさい」
「私、あんまりこういう人の大勢いる所って、好きじゃないんです」
と、美鈴は言った。「でも、一人だけ先に帰るわけにもいかないし」
「また、ホテルで」
と、久野原は肯《うなず》いて、和子を促すと、広い玄関ホールへと歩いて行った。
——八木は客の帰りのために、マイクロバスと、タクシーを何台か、用意してくれていた。
美津子が二人を追いかけるように出て来て、
「今、お車を」
と言った。「タクシーを使って下さい。料金はお払いいただかなくて結構ですから」
「そりゃどうも。——ではお言葉に甘えることにしよう」
高台なので風が強く、冷たい。
久野原は首をすぼめて、和子と二人でタクシーに乗り込んだ。
「では、お気を付けて」
と、美津子がていねいに挨《あい》拶《さつ》して見送った。
「——どうなさったんですか?」
と、和子が訊《き》く。
久野原は難しい顔をしてじっと下りのカーブが続く道を見つめている。
「何か——」
「今の停電だ。あれが偶然だと思うか」
「まさか旦《だん》那《な》様が仕掛けたのでは?」
「いくら何でも、こんな所まで来て仕事はしない」
と、久野原は言った。「しかし、あれは偶然ではなかった」
「でも、何のために?」
「もちろん、あのビロードのテーブルの上の宝石のためさ」
「でも、旦那様もおっしゃったじゃありませんか。そんな大した物は持って来ていないだろうと」
「うん、そうだと思う。しかし、あの暗がりの中で気配があったんだ」
久野原は、彼ならではの敏感な耳で、あの闇《やみ》の中、人の動く気配、そしてテーブルの上で宝石がかき集められているような音を聞いていた。
「あんな暗い中で、人にぶつからずにそんなことができますか?」
「ぶつかったかもしれない。あの女の子が『胸に誰か触った!』と騒いでいただろう」
「じゃあ、あれが——」
「しかし、いずれにしても、あの短時間ですり換えてしまうためには、暗視装置が必要だろう。そうなると、よほど計画的に違いない」
和子が心配そうに、
「旦那様を招《よ》んだのは、たまたまでしょうか?」
「分らん」
と、久野原は首を振った。「しかし、こんな所で濡《ぬ》れ衣を着せられちゃかなわんよ」
「どうなさいます?」
「急用で、日本へ帰る」
と、久野原は言った。
「明朝一番でですか」
「今夜中だ」
久野原は窓の外に広がる、チューリヒの夜景を見ながら、そう言った……。
ホテルのロビーへ入って行くと、久野原はフロントの係を呼んだ。
すぐに、日本語を達者に話すコンシェルジュがやって来た。
「実はね、急な用事ができて、急いで発ちたい」
と、久野原は言った。「部屋代は取ってもらっていい」
「さようですか」
と、コンシェルジュは大して驚いた様子もない。
大体、金持というのは変っているものなのだ。
「久野原僚様でございましたね?」
「うん、そうだ」
「メッセージが届いております」
と、すぐに封筒を持ってくる。
久野原は中のメッセージを一目見て、一瞬、目を見開いた。そして、
「分った。明朝一番早い直行便で日本へ発つから、二人分、手配してくれ」
「かしこまりました」
「よろしく」
久野原と一緒にエレベーターへ向いながら、
「今夜、発たれるんじゃないんですか?」
と、和子は訊《き》いた。
「気が変った。いかにも逃げているみたいで却《かえ》って怪しまれるだろう」
久野原はメッセージの封筒を、タキシードのポケットへ押し込んだ。
「では明朝は……」
「直行便の時間を知らせてくる。それで逆算して起こしてくれ」
「分りました」
あの〈メッセージ〉には、何か久野原の気を変えてしまうものがあったのだ。
和子は、ちゃんと承知していた。