「久野原のおじさま!」
と言うなり、木村涼子が、朝食をとっていた久野原の頬《ほお》へチュッと唇をつけた。
「年寄は心臓が弱いですから」
と、和子が真顔で言った。「あまり朝からショックを与えないで下さい」
「ゆうべのお礼を、と思って」
と、涼子が笑って、「凄《すご》く楽しかった!」
「それは良かったね」
と、久野原はパンをちぎって、「他の二人はどうしたね?」
「今、来ます。いつも私が一番寝坊なのに、今朝はトップ」
と、涼子が言って、「あ、来た!——遅いよ!」
「朝っぱらからお気の毒よ」
と、美鈴がやって来て、「ゆうべはありがとうございました」
「帰りは何時ごろになったんだね?」
「パーティの後、八木さんが、特に親しくしてらっしゃるお客様をバーへ誘われて、私たちにも声をかけて下さったんです。つい調子に乗ってついて行っちゃって——」
「でも楽しかった!」
と、涼子は言って、「ね、ゆかり?」
関口ゆかり一人が二日酔らしく、
「大きな声、出さないで……」
と、情ない顔で、「頭が痛い……」
「あのね、やめとけって言ったのに、ガンガン飲むからよ」
と、涼子は同情する気配もない。
「コーヒー飲んで、朝食をとるのよ」
と、美鈴がゆかりの肩を叩《たた》いて言った。
「美鈴君」
と、久野原は呼び止めて、「実はね、急な用で帰国することになった」
「え? そうなんですか」
「短い間だったが、楽しかったよ」
「はい、本当に私たちも……」
と、美鈴は言いかけて、「じゃ、飛行機で?」
「うん。直行便が正午前にあるから、それで帰る」
「私、叔《お》母《ば》を迎えに行きます。お見送りさせて下さい」
「それはありがとう」
「じゃ、後で」
美鈴が、二人の待つテーブルへと元気良く歩いて行く。
「旦《だん》那《な》様《さま》。——そんなにのんびりしていてよろしいんですか?」
「警察が来るなら、もうとっくに来ているさ」
と、久野原は言った。「卵をベーコンエッグにしてもらってくれ」
「かしこまりました」
と、和子が立って行く。
黙っていると、卵が二つのベーコンエッグができてくるので、和子が「卵は一つ」と念を押している。
「——おはようございます」
富田美津子が、八木と一緒に入って来た。
八木は上機嫌な様子で、久野原に会釈すると、あの三人のテーブルへと向った。
——久野原は、空になったコーヒーカップを手に、料理の並んだテーブルの端のコーヒーポットを手にした。
「久野原さん」
美津子がそばへ来て、「今日お発ちになるって、あの子たちが。本当ですか」
「ええ。実は入院している弟の具合が悪いとゆうべ連絡があって」
「まあ、そんなことが……」
「あの三人には、急な用で、とだけ話して下さい」
と、久野原は笑顔で言った。
席へ戻ると、
「いつの間に弟さんがおできで?」
「それが一番納得できるだろ。——さあ、食事がすんだら、早速支度だ」
「もうとっくにすんでいます」
と、和子が言った。「ご本人を詰めれば終りです」
久野原は苦笑して、コーヒーをゆっくりと飲んだ。
「——ではお先に」
と、八木たちのテーブルへ声をかけて、レストランを出る。
ロビーに出て、久野原は足を止めると、
「警察だ」
と、和子へ小声で言った。
しかし、相手をしているコンシェルジュは、久野原の方を見ようとしていない。
ということは、久野原のことを捜しに来たわけではないのだ。
「——どうなさいます?」
「予定通り発つさ」
と、久野原は言った。「後で誰が捕まっても、こっちには関係ない」
と行きかけたとき、
「トミタ」
という名が聞こえて、久野原は足を止めた。
「——美津子さんのことでしょうか?」
「さあ……」
さすがに、気にかかって、ロビーの隅に立っていると、美津子が呼ばれてやって来た。
刑事らしい男が、美津子に話しかける。
久野原たちの所まで、話は聞こえて来なかったが、突然美津子が声を上げてよろけた。
久野原が急いで駆け寄ると、
「しっかりして!」
と支えた。
「すみません……。ちょっと——今——」
と、真青になった美津子が口ごもると、
「もしかして、弟さんのことかね?」
「弟を——ご存知でしたか?」
「君を撃った後で、隠れていたのに出会ったんだ」
「そうでしたか……」
「君のことを心配していた。大したけがじゃないと分って、ホッとしていたよ」
「あの子が……」
「死んだのかね?」
「撃たれていたのが見付かって、それがあの子じゃないかと……」
美津子は、何とか立ち直ると、「大丈夫です。申しわけありません」
「誰かついていた方が……」
「いえ。——とりあえず、弟かどうか、確かめに行きます。私、一人で大丈夫です」
美津子は刑事に、雇い主に断ってくるから、と言って、レストランへと戻って行った。
「——お気の毒に」
と、和子は言った。
「何かありそうだな。ゆうべ、あのパーティで、どうしてボーイに扮《ふん》して潜り込んでいたのか」
久野原は首を振って、「これ以上係り合うのは危険だ。行こう」
と、歩き出した……。
「——久野原さん!」
チューリヒの空港で、久野原と和子がチェックインしていると、美鈴がやって来た。
「やあ、叔《お》母《ば》さんはどうしたんだい?」
「そろそろ着くと思うんですけど。——他の二人も向うにいます」
「そうか。じゃ、いい旅を」
「はい」
そこへ、涼子とゆかりの二人も駆けて来た。
「日本へ帰ったら、ご飯おごって」
と、涼子は図々しく注文している。
「帰ったら、連絡しておくれ」
と、久野原は言った。「この後の旅の話も聞きたいしね」
「一対一はだめです」
と、和子が言った。
「お目付役がいる。三人一緒においで」
と、久野原は言った。「では、我々は中へ入るよ。気を付けて」
「はい!」
美鈴は微《ほほ》笑《え》んで肯《うなず》いた。
久野原たちが、手持ちのバッグをさげて、出国の入口へ行きかけると、
「美鈴ちゃん!」
と、女の声が飛んで来た。
「叔母さん!」
美鈴がびっくりして、「まだ時間じゃないと……」
「早く着いたのよ、二十分も」
と、その女性は言った。
五十歳前後の、上品な物腰。明るい笑顔は、美鈴と似ていた。
「叔母さん、この方、電話で話した、久野原さん」
と、美鈴が紹介した。「急用で帰られるんですって」
「まあ、残念ですわ」
と、その女性は言った。「秋《あき》月《づき》沙《さ》織《おり》と申します。美鈴がお世話になったそうで」
「いやいや、こちらも楽しませていただきました」
と、久野原は会釈した。「もっとのんびりしたかったのですが、よんどころない事情で」
「私も、一年の三分の一は日本へ帰っております」
と、秋月沙織は言った。「日本ででも、またお目にかかれれば」
「そうですな」
久野原はにこやかに言った。「では、我々はこれで」
「ごめん下さい」
秋月沙織は微笑んだ。
——パスポートコントロールの窓口に並んで、和子が言った。
「ご存知の方なんですか?」
「どうしてだ?」
「あの方を見る目が、普通じゃありませんでした」
「気のせいだろ。向うがこっちへ一《ひと》目《め》惚《ぼ》れしたのかもしれんな」
「冗談もほどほどに。——ほら、次ですよ」
「分ってる」
口うるさい和子だが、これですっかり慣れてしまっている。
——口に出したくないことというのがあるものだ。たとえ、家族同様な相手であろうと。
久野原にも、言いたくないことがあった。
たとえば、秋月沙織が、遠い昔に恋人だった、というようなことが……。
「——まだお時間がありますが」
と、和子が免税店の前で足を止めて、「少し、買物をしていて、よろしいですか?」
「構わんよ。みやげを買って行く相手がいたのか」
「デリカシーに欠けたお言葉ですこと」
と、和子は澄まして言った。
「荷物をかせ。——そこのカフェに入ってる」
「では、遠慮なく」
久野原は、和子のバッグを受け取ると、ちょうど免税店の向いにある、カウンター式のカフェのスツールに腰をおろした。
レモンスカッシュを頼んで、特に、
「ウィズ・アイス」
と、強調した。
ヨーロッパでは、「アイス」でも、めったに氷を入れることはない。冷たいジュースがほしくても、出てくるのは、ぬるいジュース、ということが多いのである。
氷がほしいときは、ちゃんとそう注文しなくてはならない。
グラスが来て、手に取ると、確かに氷は入っているが、三つ、四つ。置いておけば、じきに溶けてしまうだろう。
一口飲むと、まだ冷たくない。カウンターに少し置いておくことにした。
——妙な旅だった。
日本での厄介事から逃れるつもりが、却《かえ》って新しい厄介事を抱えてしまうことになりそうだ。うまく忘れてしまえればいいのだが。
泥棒として過した日々。盗みそのものが楽しくて、刺激を自ら求めたこともある。
しかし、今、五十八という年齢は、穏やかな安らぎを求めていた。——虫のいい話? そうかもしれない。
だが、少なくとも、事を荒だてないだけの知恵は身につけたつもりだ。人生、それだけですむわけでないこともよく承知しているが……。
美鈴から久野原のことを聞いた秋月沙織が「会いたい」とメッセージを送って来ても、チラッと挨拶だけして別れて来た。これも「安らぎ」を求めてのことだろうか。
——和子がビニール袋をさげて、免税店から出て来た。
「お待たせしました」
「もうすんだのか? 氷も溶けてないよ」
「何かお買いになりますか? 若い『彼女』へ、香水でも?」
「雇い主をからかってどうする」
と、苦笑して、久野原はグラスを再び手に取った。
「こんなに早く帰って、どう思われますかね」
「どうも思わんよ。世間の人はそれほど暇じゃない」
久野原はグラスを持った手を止めると、「——何も買わないのに、みやげができたようだ」
と言った。
「何のことです?」
「見ろよ」
氷の大部分溶けたレモンスカッシュのグラスを持ち上げて見せる。「——氷が一つ、溶けずに、しかも浮かびもしないで、底に沈んでいる」
「本当に」
「物理の法則には合わないね」
久野原は、一気にグラスを空けると、中から、その「氷」を取り出した。
「それは……」
久野原は黙ってハンカチを取り出すと、それをていねいに拭《ぬぐ》った。
そして、てのひらにのせて、
「——ダイヤモンドだ」
と言った。
「本物ですか?」
「うん、大きさと重さの感じからいって、間違いなく本物だろう」
「でも、なぜ——」
「誰かが、このグラスへそっと沈めたのさ」
カウンターに座る客を見ても、むろん、その「誰か」は姿を消しているだろう。
「プレゼントにしては妙だ」
「ボディチェックで見付かると——」
「心配するな。といって、ここへ捨てていくわけにもいかないだろう」
と、久野原は、忙しく旅行客の行き来する通路を見渡した。「罠《わな》じゃないだろう。もし、僕を引っかけるためなら、何もこれを使う必要はない」
「そんなに大きなダイヤモンドは——」
「うん。まず間違いなく、八木春之介の屋敷から盗まれたことになっている、〈月のしずく〉だよ、これは」
久野原はスルリとその石をポケットへ滑り込ませると、立ち上った。「——さて、そろそろ搭乗口へ行こうか」
「はい」
久野原は、帰りの便での食事に何が出るか考えながら、和子と並んで歩き出した。
——空港は、いつもと少しの変りもなく、にぎわっていた……。