何度も指先がポケットの中の小さな箱を探っていた。
そこにあることは、百パーセント確かだと分っているのに、ものの十分とたたない内に、また右手はポケットの中へそっと忍び込むのだった。
「暑いんですか?」
と、彼女は言った。
「いや、少しも」
「でも、汗をかいてらっしゃるわ」
「ああ……。何しろ太っていると、何をしていても、汗が出るのさ。——懸命に食べてるんでね」
山《やま》倉《くら》建《けん》吉《きち》はそう言って笑った。
——二人での食事も、もう五回めになる。
初めは、自分より三十も年下の女の子をどこへ連れて行っていいか分らず、やけにうるさいイタリアンの店で食事して、互いに大声を出さないと話ができないので、食事がすんだときには、喉《のど》がかれてしまっていた。
それにこりて、次から山倉は幸《ゆき》子《こ》をあくまで自分がいいと思った店に連れていくことにした。——といっても、山倉は出張も多く、忙しく飛び回り、幸子もアルバイトしながら大学へ通う身で、初めの内、月に一回、都合が合えばいい方だった。
だが、今月はまだ半月もたたないのに二回会っている。——時間を無理にひねり出し、妻に怪しまれる危険を犯しても、山倉はもっともっとひんぱんに会わずにいられなくなっていた。
五十五になって恋をしている?——それは山倉自身、驚きだった……。
「——このお店、好きだわ」
と、ごく普通のセーター姿の天《あま》野《の》幸子は言った。「もちろん、連れてっていただく、どのお店もおいしいんですよ」
と、急いで付け加える。
「そう言ってくれると嬉《うれ》しいよ」
「だって……自分じゃ、絶対に行けないお店ばかりですもの。一生、足を踏み入れることもないと思ってた……」
幸子は、英国の王朝風の内装を見回しながら、「私のお付合いする人だって、こんな場所とは縁がないだろうし」
「人間、分らないさ。十年後には、君がここの常連になって、僕が無一文で道端で寝ているかもしれない。この時期じゃ、凍死しちまうかな」
と、山倉は笑って言った。
「山倉さん……。ご商売がうまくいかないんですか? それなのに、こんなぜいたくさせていただいて——」
「冗談だよ! そうなったら、いくら僕でも君を連れ出しやしない」
レストランの小さな個室。
運良く、ここが空いていた。——それも今の山倉にとっては、何か「運命的」なことに思えるのだ。
「——おいしかった」
メインの料理が下げられていくと、幸子はナプキンで口を拭《ぬぐ》った。「ちょっと失礼します」
バッグを手に、席を立った幸子が個室から出ていくと、山倉は大きく息をついて、
「しっかりしろ! 何てざまだ」
と、自分へ文句を言った。
ハンカチで汗を拭く。——今の内に、出しておこうか。
ポケットから、リボンをかけた小さな包みを取り出す。
あんまり指先で触っていたので、リボンが妙な形になっている。山倉はせっせとリボンの結び目を直した。
ドアを軽くノックして、
「失礼します」
と、ウエイターが入って来る。「デザートをお持ちしてよろしいでしょうか」
山倉はあわてて包みをまたポケットへ戻した。
「あ……今、ちょっと——」
「お戻りになられてから、ワゴンでお持ちいたします」
「ああ。——待ってくれ」
と、呼び止めて、「ちょっと大切な話があるんだ。すんだら声をかけるから、それまで待ってくれ」
「かしこまりました」
表情一つ変えずに出て行くウエイターを見送って、山倉は苦笑した。
こんな五十五の男が、二十歳そこそこの女の子に「大切な話」か。——あのウエイターはどう思っただろう。
あの年《と》齢《し》で、大学生の女の子を口説こうっていうんだぜ。いい気なもんだよ!
仲間と、そんな話でもしているのか。
好きにしろ。俺《おれ》にはあの子だけが大切なのだ。
——山倉は、百キロの肥満体で、我ながら鏡に見とれた記憶はない。これで若い女の子にもてるとは思っていない。
それでも、妻の信《のぶ》代《よ》の目を盗んで、何度か浮気をしたことはあった。長く続きはしなかった。宝石商の名門に生れたとはいえ、店の宝石を持ち出してプレゼントする、などという真似はできないのだと知ると、相手は早々に去っていった。
正直、五十を過ぎて、山倉は「女」に関心が持てなくなっていた。
そんなとき……朝、始業前に店とオフィスの掃除に入っている天野幸子に会ったのである。
白い三角布を頭に、汗を額に光らせながら、一心に社長室の机を拭《ふ》いている姿は、山倉の胸に、久しく忘れていた、少年時代のようなときめきを覚えさせた。
山倉は、たいていの従業員より早く店に着いている。八時前には掃除が終り、幸子たちは引き上げていく。
幸子の他に、主婦のアルバイトらしい女が三人ほど。——店のショーケースのガラスをみがき、大理石の床を拭くだけでも相当な手間だ。
頬《ほお》を赤く染めて、汗だくになって掃除している幸子に、山倉は心をひかれた。
そして、店に出るのを十分早くした。山倉は、自分の机を拭いている彼女に、何気ない様子で声をかけた……。
それは、山倉にとって未知のときめき、初めて出会う「恋」なのだった。
山倉はさらに五分早く出勤し、幸子と世間話をするようになった。——そして、夕食に誘った。
「——失礼しました」
幸子が個室へ戻って来た。
「——幸子」
「はい」
「これを受け取ってくれ」
テーブルに置かれた小さな包みのリボンは、またつぶれてしまっていた。
「——何ですか?」
「開けてみてくれ」
幸子はていねいにリボンを外し、包みを開けた。
ビロードのケースを開けると、一目見て、
「わあ……」
と声を上げた。
「珍しいルビーなんだ。血のような色をしてるだろ」
幸子は、そのネックレスの銀の鎖を切らないように、そっと指に絡めて取り上げた。
「つけてみてくれ」
幸子は言われた通りに、ネックレスの金具を外し、首の後ろでとめると、その鮮紅色の石は、プラチナの台座の中で、妖《あや》しく光を吸い込んだ。
「——すてきだ」
と、山倉はため息をついた。
「でも……このセーターじゃ」
幸子は微《ほほ》笑《え》んだ。
「そんなことはない。宝石を活かすも殺すも、身につける人間次第だ。君にとっては、困るプレゼントかもしれないが、どうしても君に持っていてほしいんだ」
幸子は、しばらく黙っていた。——すぐに突っ返されるかと思っていた山倉は、ともかく胸をなで下ろした。
「——ありがとうございます」
と、幸子は頭を下げた。
「受け取ってくれるか」
「お預りします。今の私は、とてもこれを身につける資格も服も持っていませんけど、いつか、この石にふさわしい女になれたら……」
「君は充分にふさわしいよ」
と、山倉は言った。
「山倉さん……」
と言いかけて、幸子はドアの方を気にすると、「お店の人に見られたら……」
「呼ぶまで来ないように言ってある」
「じゃあ……」
幸子は席を立つと、山倉の方へとテーブルを回ってやって来た。
「——何だい?」
幸子が身をかがめて、山倉の唇に唇を重ねた。——山倉は、夢を見ているのかと思った。その少し湿った柔らかい唇は、この世のものとも思えなかった。
「——君、無理をして……」
「山倉さんのお気持は分ってました」
と、幸子は言った。「でも、私はそれにふさわしい女じゃない、と自分へ言い聞かせて来ました」
「幸子……」
「でも、このネックレスを見て——。大切なお店の宝石でしょう? これを下さるなんて、山倉さんが決して遊びのつもりで私と付合っておいでなんじゃないと分りました」
「むろんだ。しかし、君は若い。こんな太った中年男に……」
「愛してます」
と、幸子が言って、山倉は頬《ほお》をさらに紅潮させた。
「——今、何と言った?」
「もう一度聞きたいですか」
と、幸子は微笑んだ。
「ああ、聞きたい」
「じゃ、ホテルのベッドの中で」
山倉はポカンとして、幸子の恥ずかしそうな笑みを見ていた。
「僕は——」
「少しご帰宅が遅くなっても良ければ、私を山倉さんのものにして下さい。——決してお宅へご迷惑はかけません。愛して下さってると信じられれば、それでいいんです」
「——分った」
山倉は、幸子の手をしっかりと握った。「君を泣かせるようなことはしない」
「嬉《うれ》し泣きなら構いませんわ」
と、幸子はもう一度かがんでキスすると、
「でも、その前に……」
「何だ?」
「デザートを選んでもいい?」
と、幸子は笑顔で言った。
ウエイターがコーヒーを注いでいるところへ、電話を入れた山倉が戻って来た。
「——電話しといた」
と、席について、「遅くなっても大丈夫だ。それに……部屋も取った」
「ありがとう」
「おい、これで——」
と、山倉がカードを渡すと、ウエイターが、
「かしこまりました」
と、出て行く。
「——この近くがいいと思ったんで、Sホテルにした」
「まあ。高いんでしょ?」
「一泊分払うから、君は泊って行くといい」
「ありがとう。じゃ、そうしようかな。朝、お掃除に行くの、楽だし」
「幸子、それぐらいの費用は持ってやる。掃除はやめて、大学の勉強に打ち込んだらどうだ?」
「いいえ、私、生活を山倉さんに頼ってしまうのはいやなの。——こうして時々会っていただければ、それで満足」
幸子は、ルビーのネックレスを外して、ケースにしまっていた。そのケースを取り上げて、
「これは決して手放しません。もし、山倉さんと別れなきゃいけない時が来ても」
「僕と別れる?」
「もし、奥様に知れたら。——離婚するなんて、おっしゃらないでね」
「幸子……」
「私は、『恋人』のままでいいんです」
「しかし……」
「今はデザートを食べてしまいましょう。アイスクリームが溶けちゃうわ」
と、幸子はスプーンを手に取った。
「——もしもし」
レストランのマネージャーは、店の電話を使っていた。「——あ、奥様」
「主人から、今夜遅くなると言って来たわ」
「ご主人は今、Sホテルを予約なさっておいででした」
「Sホテル……。まだお店に?」
「じき出られると思います」
「ありがとう」
山倉建吉の妻、信代は、怒りを押し殺した声で言った……。