フロントの主任は、その人妻の燃えるような嫉《しつ》妬《と》の視線を受け止めきれなくなっていた。
「何とおっしゃられましても……」
と、同じ言葉をくり返す。「私どもとしては、お客様のどなたがどの部屋へお泊りかお教えすることはできないのです」
「私の夫ですよ」
と、山倉信代は言った。「妻が夫のいる部屋を訊《き》いて、何が悪いの?」
「奥様……。私も、奥様のお話を疑うわけではございません」
と、主任は額に汗を浮かべながら、「お立場にはご同情申し上げます。しかし——」
「同情なんか結構!」
と、はねつけるように、「私は妻として当然の要求をしているのよ。そうじゃない?」
「よく分ります。しかし、私どもにも、立場というものがございまして……」
「『私ども』は忘れて」
「——は?」
「『私ども』じゃなくて、『私』に訊きたいの。あなたが、個人として夫の泊っているルームナンバーを教えてくれればいいの」
「奥様、それは……」
「できない?」
「私はSホテルの人間です」
——山倉信代は、Sホテルのフロントの奥にある応接室にいた。
フロントで、「夫が若い女と泊っている部屋はどこ?」と訊いたが、教えられない、と拒まれたのだ。
信代にも、ホテル側の言い分はよく分っていた。
確かに、問われるままに、誰がどの部屋に泊っていると教えることはできないだろう。しかし、信代は何としても知らねばならなかった。
「いくら払えば、教えてくれる?」
ズバリと訊く。
「とんでもない! そんな——」
「あなたが教えてくれたことは、決して口外しないわ。約束します」
「そうおっしゃられても……」
「十万? 二十万?——現金、あるだけ差し上げてもいいわ」
バッグから、分厚い札入れを出して、テーブルに置く。「さあ、取って。——好きなだけ」
相手の動揺を、信代は見てとっていた。
「どうかご勘弁下さい。——お客様に『問い合せに答えるな』とおっしゃられれば、そうせざるを得ません」
「大丈夫。夫は、必ず後悔することになるわ。ホテルを訴えたりする心配はありません」
と、信代は言った。「それに、少なくとも、夫がこのホテルへチェックインしたことは認めてるじゃないの。それ自体も、やってはいけないことのはずでしょう?」
主任はハンカチを出して汗を拭《ぬぐ》った。
「そうおっしゃられると……」
「私はね、色んな業界のトップの方たちに顔が広いの」
「よく存じております」
「じゃ、その方たちに、『Sホテルはラブホテル並よ』と言って回ったら、どう? このホテルの評判は落ちるでしょうね」
主任の顔が青ざめた。
「——あなたがその責任を取ることになるかも」
「そんなことは……」
「どうしても教えてくれないのなら、それでもいいわ」
信代は最後の一撃を用意していた。「やり方はある。エレベーターで最上階まで上って、片っ端から、ドアを叩《たた》いて行くわ。何百室あっても、必ずその内に夫のいる部屋に当るでしょ。それまでに、他の部屋の客から、苦情が殺到するでしょうけどね」
「そんな無茶を——」
「私はやるわよ」
そう。——やるとも。しかし、これで相手は屈伏してくると思っていた。
「——私の負けです」
と、主任は言った。「お教えしますが、何とぞ——」
「外には洩《も》らしません」
と、信代は言った。「ありがとう。よくものの分った方ね」
札入れから一万円札を七、八枚取り出し、テーブルに置く。
「奥様、いただけません」
「チップよ。——そう思えば気にしなくてもいいでしょ」
主任が、その札をポケットへ押し込むのを見て、信代は微《ほほ》笑《え》んだ。
「山倉様のお部屋は、〈1205〉です」
と、主任は言った。
ドアを叩く前に、少し中の様子をうかがった。
もしかして、その若い女と「楽しんでいる」最中かと思ったのだ。——が、耳をドアに当ててみても何も聞こえなかった。
信代は、なぜかホッとした。
その最中に邪魔してやる方が、夫には応えたかもしれない。しかし、その一方で、夫に若い女を歓ばせるだけの余裕があると知るのは、辛いことだった。
それに、信代は五十三歳だ。人の情事を覗《のぞ》き見るようなことを「はしたない」と思うように育って来ている。
大きく息をついて、信代は〈1205〉のドアを叩いた。
二度、三度。——中であわてている気配もない。声もしなければ、バタバタと服を着ている音もしない。
もしかして、二人で出てしまったのか?
信代が、不安を感じたとき、ドアが中から開いた。
若い女が立っていた。——白い裸身をさらして。
一瞬、信代の方が、真赤になって、
「みっともない!」
と、怒っていた。「何か着なさい!」
「あの……」
「山倉がいますね」
と、中へ入って、「私は山倉の家内よ」
信代は、若々しく、つややかなその娘の裸体に、ちょっとの間、見とれていた。
呑《のん》気《き》な、と言われそうだが、息子しかいない信代にとって、若い娘の体をこんなに間近に見るのは、軽い衝撃だった。
この体が、夫に抱かれていたのだ。——いざ目の前にすると、却《かえ》って怒りはスッとひいて、むしろ、どうしてこんな可《か》愛《わい》い子があの人に抱かれる気になったのか、と思ったりした。
「はい。——すみません」
と、娘はソファにかけてあったバスローブをつかむと、急いではおった。
セミスイートの部屋で、ベッドルームは奥だった。
「主人は? あわてて服を着てるの?」
「あの……それが、おかしいんです……」
娘はなぜか呆《ぼう》然《ぜん》とした様子で、「ご様子が……変なんです」
「何ですって? どういうこと?」
「私……ウトウトしてしまって……。目がさめてみると、山倉さんが動かないんです。呼んでみたんですけど、ご返事もないんです……」
娘の口調は単調で、夢でも見ているのかと自分で疑っているかのようだ。
「主人が……目をさまさないの? そういうこと?」
「はい……。私、どうしようかと思って……」
信代は、大《おお》股《また》に奥のベッドルームへ入って行った。
ベッドの傍の明りだけが点《つ》いている。信代は部屋の明りを点けた。
広いベッドに、腰まで毛布をかけた夫が寝ていた。
「あなた。——あなた」
信代は、歩み寄って、「起きなさい」
体を揺すってみた。
夫は眠っている。きっとそうだ。
目を閉じて、いつもの通りの寝顔を見せている。
「あなた……」
信代は、ベッドに腰をかけると、夫の手首を取った。脈を探る。太った手首は、ひどく重かった。
どこにも命の脈動は感じられなかった。
「——起きられましたか?」
あの娘が、こわごわ覗《のぞ》いている。
「あなたが目をさまして、どれくらいたつの?」
「ついさっき……。五、六分だと思います」
信代は、ベッドに上って、夫の胸に耳を当てた。
汗がひんやりと冷たい。——そして、肌はまだぬくもりを保っていたが、心臓はすでに動きを止めていた。
「奥様……」
「死んでるわ」
と、信代は言った。
「そんな……」
娘は、床にペタッと座り込んでしまった。
信代は、取り乱すにもあまりに突然のことで、却って冷静だった。
「太り過ぎと言われてたのよ」
と、信代は言った。「お医者様から、何度も注意されてたわ。——少しやせろ、と」
もう手遅れだ。信代は、医者を呼ぼうという気にもなれなかった。
「フロントへ知らせましょう」
と、娘が言った。「救急車を呼んでもらって——」
「余計なことを言わないで!」
と、叱《しか》りつけるように言って、信代は、すぐに、「ごめんなさい。心配してくれるのはありがたいけど、もうむだだわ」
どうしてこの娘に謝ったりするんだろう。——我ながら妙な気がした。
確かに、本当ならこの娘の言うように、フロントへ連絡し、医者を呼んでもらうべきだろう。
しかし、それは夫がホテルの一室で死んだことを、公にすることである。
山倉宝石の社長が、ホテルのベッドで心臓発作を起し、死亡。——都内のホテルに、どうしてわざわざ泊っていたのか、あれこれと噂《うわさ》が立つのは避けられない。
それだけは何としても止めなければ。
「奥様……」
娘は床に座って、両手をついた。「申しわけありません。こんなことになってしまって……」
と、声を詰らせる。
信代は、ソファにゆっくりと腰をおろした。
「——あなた、名前は?」
「天野……幸子です」
「主人とはいつから?」
「あの……」
と、口ごもって、「お付合い……というか、食事をおごっていただいたりするようになって、三か月ほどです。でも——こうなったのは今夜が初めてです」
「今夜が?」
「はい。こんなこと、しなければ……」
と、声が消え入るように途切れる。
「主人には、あなたは若くて元気すぎたのね、きっと」
と、信代は言った。
「私が……私の方がお願いしたんです。無理を言ってしまって——」
「今さら、そんなことを言っても手遅れよ」
「はい」
「——天野幸子といった?」
「はい」
「服を着なさい。——何ならシャワーを浴びて。私は向うの部屋にいるわ」
と、立ち上る。
「でも……」
「今さら焦っても仕方ないわ。これからどうするか、少し考えたいの」
「はい……」
信代が、リビングの方へ戻って、大きなソファに腰をおろすと、ベッドルームの奥のバスルームから、シャワーの音が聞こえて来た。
思いの他地味な服装の幸子が現われると、
「私の言う通りにして」
と、信代は言った。
「はい」
「主人を家へ連れて帰るの。手伝ってちょうだい」
幸子は当惑したように、
「でも……」
「重いから、車まではここのフロントの人に手伝ってもらう。でもその為に、主人に服を着せるのよ。——二人でもきっと大変だわ」
「でも、奥様——」
「死んだ人は戻らないのよ。でもね、世間の目ってものがあるの。こんな所で、若い女と寝ていて死んだなんて、絶対に知られてはいけない。分る?」
「——はい」
「主人は自宅で死んだことにするわ。お医者さんは、昔からの知り合いの方がいらっしゃるから、死亡証明書を作っていただける。——あなたはこのことを誰にも話さないこと。分った?」
「はい」
「じゃあ、手伝って」
と、信代は立ち上った。
「永遠に終らないかと思った……」
汗が全身からふき出すような勢いである。
信代も、しばらくは口をきく元気がなかった。
幸子は、寝室の床のカーペットに座り込んで息を切らしている。
ホテルのベッドから、自宅のベッドへ。——それは無限とも思える遠さだった。
しかし、ともかく何とか運んで来たのだ。
Sホテルでは、あのフロントの主任がいたので、大分楽だった。服を着せるのは大変だったが、そこから駐車場の車までは、フロントの主任が、備え付けの車椅《い》子《す》を使ってやってくれた。
信代は念入りに口止めしておいた。
もちろん、こんなことが発覚したら、主任はクビだろう。——洩《も》れる心配はなかった。
車で、自宅まで来て、ガレージに車を入れ、そこから自宅の中へ運び入れ、寝室へ運んで——二階だった!——ベッドへ寝かし、服を脱がせて、パジャマを着せる。
それだけの作業に三時間もかかってしまった。
女二人、それも五十代の信代では、いくら力を出しても知れている。考えてみれば、階段を上って来られたのが奇跡のようなものである。
——信代も、しばらくベッドに腰をおろして、声も出ずにいたが、三十分近くたってから、やっと、
「下で休みましょう」
と、幸子に言った。
階段を下りようとしても膝《ひざ》がガクガク震え、転り落ちないように、手すりにしがみつかなければならなかった。
居間で幸子が休んでいると、信代が紅茶を淹《い》れて来た。
「奥様——」
「いいのよ」
信代は、暖い口調になっていた。「お疲れさま。——これを飲んで」
二人は、一緒に「大仕事」を終えた、という共通した感情が、妙な親近感へと変っていたようだった。
「後は、私がやるわ」
と、信代は言った。「もう朝になるわね」
冬なので、朝が遅く、まだ外は暗いが、確かに時間からいえば早朝、五時に近かった。
「ご迷惑をおかけしました」
と、幸子は頭を下げた。
「すんだことよ」
と、信代は言った。
「でも……悲しいと思われないんですか」
「悲しい? そうね。——今はまだ。お葬式にでもなれば涙が出るかもしれないわ」
信代は、ちょっと二階へ上る階段の方へ目をやって、「いつも、あれを上るだけでハアハアいってたわ」
「私にはとても親切にして下さいました」
「まあね、若くて可《か》愛《わい》い女の子には、いくつになっても男はやさしいわよ」
幸子は、紅茶を飲み干して、
「ごちそうさまでした」
と、腰を上げた。「もう……失礼してもよろしいでしょうか」
「ちょっと待って」
信代は立ち上ると、居間を出て行き、五、六分して戻って来た。
「——これをあげるわ」
ブローチだった。バラを形どって、ダイヤモンドがちりばめられている。
「とんでもありません! こんな立派な物……」
「いいの。主人のことを、たまには思い出してやって」
と、幸子の手にのせる。「——幸子さん。あの人、どうだった?」
「どう、って……」
「あなたを抱いて、ちゃんとできたのかしら」
「——はい」
「そう。じゃ、本人は本望だったでしょうね」
と、信代は微《ほほ》笑《え》んだ。「じゃ、気を付けて帰って」
「はい……。ありがとうございます」
幸子を表の門まで送って、信代は、
「これを真直ぐ行くと大通りだから。地下鉄もそろそろ動くでしょ」
と、教えてくれた。
幸子は、改めて詫《わ》びてから、息が白く渦巻く、冬の道を歩き出した。
——背後で門が閉る。
幸子は足を止めて振り返った。——何だか複雑な表情で、信代がくれたブローチを取り出してみる。
肩をすくめて、
「重労働だったんだから、もらってもいいか……」
と、呟《つぶや》く。
そして幸子——木村涼子は、タクシーを拾おうと足どりを速めて、広い通りへと急いだ。
タクシー乗場はすぐにあったが、今は空車がいない。
仕方なく待つことにして、涼子はバッグから携帯電話を取り出した。
「——もしもし」
と、寒さに首をすぼめながら、「——涼子です。すべて予定通りに終りました。——凄《すご》く重くて、大変でしたよ!——はい。帰って、眠ってからでいいですか?——分りました。それじゃ夕方に」
電話を切って、涼子は息をついた。汗がひいて寒気がする。
——こんな時間に、どうして空車がないの? 涼子は寒さが段々身にしみて来て、腹が立って来た。
汗をかいて、そのまま、冬の朝まだきの寒さの中へ出て来たのだ。風邪ひいて熱出したら、どうしよう……。
すると、車が一台、タクシー乗場の立て札の前で待っている涼子のそばへと寄せて来て停った。
涼子は当惑していたが、運転席の窓が下りると、
「あれ……」
と、笑顔になった。「乗っていい?」
相手が黙って肯《うなず》く。
「助かった!」
涼子は助手席のドアを開けて、乗り込んだ。
「このままじゃ、風邪ひいちゃうと思って、どうしようかと……」
車は走り出した。——まだ暗い冬の朝の道を、車は百キロ近いスピードで走って行った。
涼子は、山倉を運んでくるという大仕事で疲れ切っていたのと、車の中が暖いので、たちまち心地良さに目がトロンとし始め、眠りそう、と思う間もなく眠っていた。
車が、ガクンと揺れて、涼子は目をさました。
「ああ……。寝ちゃった!」
日射しが、寝起きの目にまぶしい。
「——ここ、どこ?」
窓の外を見て、涼子は面食らって言った。
山道としか見えない、雑木林の中だ。
「マンションに戻るんじゃないの?」
と訊《き》いたが、運転している人間は無言で、車を道の傍へ寄せて停めた。
「こんな所で何を……」
と言いかけた涼子は、目にした物が信じられなかった。——これ、何?
「それ、モデルガン?」
と、涼子は訊いた。