白い布がめくられた瞬間、美鈴は短く声を上げて、傍の久野原の胸に顔を埋めた。
熊沢が申しわけなさそうに、
「間違いありませんか」
と訊《き》いた。
「間違いない」
と、久野原が答える。「木村涼子ですな、これは」
「そうですか。——やれやれ」
熊沢は、美鈴の肩を軽く叩《たた》いて、何か言いたそうだったが、言葉がうまく見付からないという様子だった。
「あちらへ」
と、熊沢が促す。
死体は再び布で覆われ、収納台の中へと戻された。
「——大丈夫?」
久野原が、紙コップにコーヒーを淹《い》れて、美鈴の前に置いた。
「ええ……。すみません」
美鈴は、青ざめてはいたが、口調はしっかりして来ていた。「彼女のお家へ連絡を……」
「大学へ問い合せた上で、我々から連絡しよう」
「そうですか。お願いします」
美鈴は、コーヒーをそっと飲んだ。
「どこで見付かったんです?」
と、久野原が訊いた。
「S市の山林の中です。実は、ドライブに来た家族連れが、子供がオシッコがしたいと言い出しましたので、車を停めて、林の中へ入って行って見付けたんです。かなり奥まった所で、あの偶然がなければ、なかなか発見されなかったでしょう」
「涼子——。可《か》哀《わい》そうに」
と、美鈴は呟《つぶや》くように言った。
「死因は?」
「射殺されたんです」
と、熊沢が言った。
「じゃあ……強盗にでもあったのかしら」
「見たところ、そうとも思えない」
と、久野原は言った。「あの服装や髪型は、いつもの涼子君とは違っていただろう」
「そう言われてみれば……。変だわ。あんな地味な服を着るなんてこと、決してありませんでした」
「そう……。何かいわくありげだったね」
「——久野原さん」
と、熊沢は言った。「あの遺体の写真を見せたところ、間違いなく、天野幸子だという証言を、掃除の仲間から得ているんです」
美鈴が当惑顔で、
「——何のことですか、それ?」
と言った。
熊沢が、山倉建吉の死を巡っての、不審な若い女のことを説明した。
「じゃ……涼子が天野幸子と名のって、ビルのお掃除をしていたってことですか」
「そういうことだね」
「でも……そんなことって……」
「山倉建吉に近付くためだったとしか思えないね」
と、久野原は言った。「そして山倉は死んだ。死因や死の状況については、はっきりしないことがいくつもある」
「分りませんわ」
「——美鈴君」
と、久野原は隣の椅《い》子《す》にかけて、「チューリヒでのパーティのとき、山倉建吉も出席していた。憶《おぼ》えているか?」
「ええ。特に太ってらした方でしょ?」
「山城徹治も出席していた。そして君たちも……」
「でも、あのパーティと、涼子の死に何か関係が?」
「君の場合は、山城の方から付合いを求めて来たんだね。しかし、この場合、涼子君の方が、パーティのときとは別人のように地味に見せて、山倉に近寄った。地味な服装、髪型も変え、化粧もほとんどせずにいれば、まず同じ女の子とは思われなかっただろう」
「何のために涼子が——」
「それは分らない。君にも思い当ることはないんだね」
「ええ、全然」
と、美鈴は首を振った。
「しかし、山倉の死、そして涼子君が殺されたこと。何か関係なかったわけはない。どうもいやな感じがするね」
そう言ってから、久野原は、「関口ゆかり君は? 大学へ来てる?」
「ええ。——もともときちんと毎日出てくる子じゃありませんけど」
と言ってから、「——ゆかりも殺されるってことですか?」
と、声が高くなった。
「用心に越したことはあるまい」
と、久野原は言った。「関口ゆかり君の住んでる所は?」
「もちろん分ります。女子大生専用のマンションにいます」
「あのときのパーティの客と、何かつながりがないか、確かめてみよう」
熊沢が、恐縮して、
「申しわけないですな、久野原さん。何かあれば、いつでも呼んで下さい」
久野原は、熊沢と軽く握手を交わし、美鈴を伴って、立ち上った……。
「——このマンションです」
と、美鈴は言った。「すみません、送っていただいて」
「当然のことだ。色々あって、疲れただろうが、眠るんだよ」
と、久野原は言った。
——もう夜になっている。
二人は、関口ゆかりのいる女子大生専用マンションを訪れたが、ゆかりは、「友だちと温泉に行く」と言って、出かけてしまっていた。
「二、三日で戻ります」
としか、管理人に言っていかなかったというので、捜しようもなかった。
「また、何度かゆかりの携帯へかけてみますね」
と、美鈴は言った。「うまくつながれば……」
「そのときは教えてくれ」
と、久野原は言った。
「もちろん」
車はマンションの前に停っていて、二人はそれでも車から出ようとしなかった。
「——久野原さん」
「何だね?」
「私が——山城さんを死なせたと思います?」
「それは何とも言えないが、そうじゃないと言っても、君は納得できないだろ」
「責任は感じます。でも、死ななくても……。それも私の目の前で」
美鈴はちょっと苛《いら》立《だ》たしげに言った。「正直、失望しています。勝手かもしれないけれど」
「そんなことは……」
「それより私には涼子の死の方がずっとショックです。——あんなに明るくて、にぎやかで、やかましくて……。わがままでケンカもしたけど、でも、生きてたんだ、って……。あんなに生きることを楽しんでたのに……」
「分るよ」
「涼子が何をしたって構いません。山倉って人を騙《だま》したとしても。私にとっては、大切な友だちだったんです」
美鈴の声が少し震えた。
「大丈夫か?」
久野原が肩に手を置くと、磁石に吸い寄せられるように、美鈴は久野原の方へ身を倒しかけた。
そして——久野原自身、驚いた。
あまりにごく自然な勢いで、美鈴を抱き寄せて唇を重ねていたのだ。
「——こんなときに」
と、離れて、美鈴は言った。「いけませんよね」
「いや……これが自然なら、いいさ」
久野原はちょっと微《ほほ》笑《え》んで、「今になって、ドキドキしてるよ」
「私も」
と、美鈴は笑って言うと、ドアを開けて、車を降り、「——おやすみなさい!」
と、手を振った。
「おやすみ」
久野原は、美鈴がそれほど大きくないマンションの中へ入って行くのを見送った。
そして、ホッと息をつくと、
「——いい年《と》齢《し》して、何だ!」
と呟《つぶや》いた。
すると——窓の外に顔が覗《のぞ》いた。
驚いて窓ガラスを下げると、
「姪《めい》に手出しは許しませんよ」
と、秋月沙織が冗談めかして言った……。
遠くに、高層のホテルが見えて来た。
「——東京じゃ、いつもホテル暮し」
と、秋月沙織が言った。「でも、家を処分してしまって、後悔してるわ」
「家というのは——」
「結婚した夫の家。もう十年も前に死んでしまったけど」
「それで旧姓に戻ったのか」
「ええ。夫もいないのに、名前だけ名のってるのも変でしょ」
と、沙織は言った。「古い日本家屋で、住んでるときは大変だったわ。お掃除だけでも手がかかって。——仕事を継いで、一年の大半、ヨーロッパで過すようになると、面倒だから売ってしまったの。でも、今は悔んでるわ」
「どうして?」
「ホテルじゃ、どんなに快適でも、安らげないわ」
と、沙織は言った。「めったに使わなくても、あの家を持ってるんだった、と思った……。もう手遅れだけど」
久野原は車を運転して、沙織の泊っているホテルの正面玄関へとつけた。
「——ありがとう」
と、沙織が言って、「一杯、飲んでいかない?」
「改めて、またね」
と、久野原は言った。「今日は少し疲れたから、帰るよ」
「美鈴ちゃんとキスしただけで、そんなにくたびれたの?」
と、沙織は笑った。
「まだしばらく日本にいるのか?」
「たぶん、二、三週間ね」
「また連絡するよ」
「待ってるわ。——これ、私の携帯の番号なの。何かあればいつでも」
と、名刺の裏にメモして、久野原へ渡した。
「いただいとくよ」
と、その名刺をしまって、「美鈴君に用だったんじゃないのか?」
「急がないわ。それに、お話のようなことがあったんじゃ、それどころじゃないでしょう?」
「そうだな。しかし、一晩たてば大丈夫さ。若いっていうのはすばらしい」
「それって、私が若くないってこと?」
「いや、そうじゃないよ!」
沙織は笑って、
「本当に若くはないものね」
と言うと、「——あなたもよ」
と、素早く久野原の頬《ほお》にチュッとキスすると、車を降りる。
「今日は、とんでもない一日だ」
と、久野原は言った。
「じゃ、またね」
沙織が正面の大きな扉を入って行くと、フロントの係が飛んで来た。
——やれやれ、一日に二つもキスしてもらうとはね。
「長生きはするもんだ」
と、呟くと、久野原は車を走らせ、ひとまず自宅へと向った……。
「それはようございましたね」
和子の言い方は、いつも無表情で、皮肉られているようでもあった。
「ありがとう」
久野原は居間でソファに寝そべった。
「でも、物騒なことで」
と、和子は言った。「——そんなに大勢の人が亡くなるなんて」
「全くだ」
——二つのキスに心地良く酔っていて、忘れかけていた。
山倉、山城、そして木村涼子の死……。
「——ひと月の間に三人も亡くなった、という件ですけど」
「うん。何か分ったか?」
「宝石商の方ばかり、三人亡くなったのは事実です。ただ、お一人は大分前から入院されていた方で、お一人は車の事故。——その二人は、あのパーティにいませんでした」
「もう一人は?」
「パーティに出ていた人です。家族の方に会いましたが、突然、車ごと海へ飛び込んで亡くなったそうです」
「それはどうも、この一連の出来事とつながっていそうだな」
と、久野原は肯《うなず》いて、「関口ゆかりらしい女子大生が係っていなかったか?」
「未亡人にそこまでは訊《き》けません」
と、和子は言った。「ご自分でどうぞ。なかなか若くて美人でした」
「そうか」
久野原は、ちょっと苦笑した。「——しかし、どういうことだ? あのパーティで宝石がすり換えられたとして……」
「でも、あそこですり換えられたとしても、それだけで山城さんが自殺されるでしょうか?」
「そうだ。それにあの短い停電の中で、どれだけの石がすり換えられたか……」
「これは単純なことではありませんわ」
と、和子は真顔になって言った。「深みにはまらないで下さい。今さら、命の危険を冒して、何を手に入れようとなさるんですか?」
和子は本気で心配してくれている。それはありがたいことだった。
しかし、今、〈月のしずく〉は久野原の手にある。それだけでも、久野原は今の事態を目をつぶってやり過すというわけにはいかないのだ。
「もう深みに踏み込んでいるよ」
と、久野原は言った。
好きでトラブルに巻き込まれたい者はあるまい。——いや、そうか?
年《と》齢《し》はとっても、久野原はかつて泥棒で、そして今も泥棒なのだ。そのこと自体、トラブルを内に抱え込んでいるのである。
それでも——あのチューリヒでの出来事の後、久野原は自分からはあえて何もしなかった。
空港で、グラスにダイヤモンドを沈めたのが誰なのか、帰国してから、何か言ってくるのではないかと思っていたが、何もなかった。
それでも、そのまま何も起らずに終るとは思っていなかった。——今、島崎美鈴に再会して、やはりこのまま黙っているわけにはいかないのだと悟った。
美鈴の身にも危険が及ぶかもしれないということを考えたら、自分一人、のんびりと構えていることはできない。
「——ご決心なさったのなら、止めませんが」
と、和子は言った。
「〈黒猫〉としての仕事じゃない。これは、あくまで久野原僚としての役割を果すことだよ」
「言いわけなさらなくても」
と、和子はひやかすように、「あの娘さんは確かに、普通の大学生とどこか違いますしね」
「おい、別に僕は——」
「そんなことを言い合っていても仕方ありませんわ。——初めに何をなさるんですか?」
「事件の陰には八木春之介がいると思う。そもそも、あのパーティ自体、八木が開いたものだ。何かの企みがあった、とみてもいいだろう」
「では……」
「〈月のしずく〉だ。あれが〈月のしずく〉だとすると、なぜ八木が買い戻そうとしているという情報が入って来ないのかな」
「そうですね」
「答えは二通りある。一つはあれが〈月のしずく〉ではない、ということ。もう一つは、あれが僕の手もとにあるということを、八木が承知している、ということだ」
「旦《だん》那《な》様に持たせたのも八木だと……」
「あり得るね。——ともかくあの男には用心が必要だ」
「どうなさるんです?」
「広告を出そう。〈月のしずく〉を買い取ってくれる人を求む、といってやる。八木がどう出てくるか……」
久野原は、そう言って微《ほほ》笑《え》んだ。——やはり、こんな展開をどこかで楽しんでいるのである。
「——そうだ」
ふと思い付くと、久野原は、熊沢警部へと電話を入れたのだった……。