「とんとお見限りでしたね」
と、男は言った。
「よせ、バーじゃないぞ」
と、熊沢は軽くいなして、「何か思い出したか」
「さてね……。何しろもう大分たつからね。忘れちまったよ」
男は肩をすくめて、「ここへ来るまでは、ずっと憶《おぼ》えてたんだ。残念だなあ」
と言って、タバコをふかした。
男の名は高《たか》井《い》。——通称〈トンビ〉で知られるコソ泥である。
八木邸に忍び込んで、番犬に追いつめられて捕まったのだが、自殺した江田青年と共犯だったのかどうか、何も返事をせずに、ずっと留置場暮しをしていた。
五十代の半ば。——泥棒にしちゃ太っていて、「大した泥棒じゃない」(?)と一目で分りそうである。
「そいつは残念だ」
と、熊沢は素気なく言って、「じゃ、お前はもう出ていい」
「——へ?」
〈トンビ〉は、間の抜けた声を出した。
「釈放だ。海外へは行くな、なんて言っても、どうせ外国へ行く金なんか、お前にゃあるまい」
「旦《だん》那《な》……。びっくりさせないで下さいよ」
と、高井は笑って、「悪い趣味ですぜ、弱い者いじめなんて」
「誰も冗談なんか言わん。もう釈放だ。好きな所へ行け」
「でも……」
と、呆《あつ》気《け》に取られて、「俺《おれ》は——八木の屋敷へ忍び込んだんですぜ」
「酔っ払って歩いてる内に迷い込んだんだろ。それなら家宅侵入にもならん」
「そんな……。俺はちゃんと忍び込んだんです!」
「もういい。お前をここで養ってるのは、国民の税金なんだ。留置場はホテルじゃない。それとも一泊三万でも払うか」
「そんな金、あるわけないじゃないですか!」
と、高井は情ない声を上げた。
「分ったら、もう出てっていい。好きにしろ」
「はあ……」
高井は、何とも言えず困った顔をしていた。
「——寒いな」
一歩、外へ出ると、木枯しが高井のえり元へ忍び込む。
マフラーもなく、コートもない身では、昼間とはいえ、どんよりと曇って、もう日暮れが近いかと思えそうな空の下、凍える寒さである。
「畜生! どうして釈放なんてするんだ!」
と、妙なグチをこぼしつつ、通称〈トンビ〉は、とてもトンビとは似ても似つかぬ背中を丸めた格好で、北風に追われるように歩き出した。
電話ボックスへ入ると、両手をこすり合せて、それからポケットのわずかな小銭を取り出し、公衆電話の受話器を取った。
「——畜生」
双眼鏡で、電話ボックスを見ていた熊沢が舌打ちする。「体に隠れて、押してる番号が見えない」
「なに、これからどこかへ行くか、誰かと会うかだ。ぴったりくっついてやりましょう」
と、久野原は言った。
「出たとたんにSOSか。〈トンビ〉の名が泣くな」
「あだ名なんか持ってる泥棒は、格好をつけてるだけで、中身は大したことないですよ」
と、久野原が言った。
「そうですか? しかし、何年か前に姿を消した〈黒猫〉なんて、なかなか大した奴《やつ》でしたよ」
「聞いたことはありますね。どこへ行ったのかな」
「さあ……。急に消えたんで、誰かに殺されたんじゃないかって声もありましたがね、私は生きてると思ってます」
と、熊沢は言って、「——電話を切った。——ホッとした顔です。行く先が決ったのかな」
高井は、電話ボックスを出ると、足早に歩き出した。さっきとはまるで違う、元気の良さである。
「行きましょう」
と、久野原は言った。
——高井は、地下鉄の駅へと下りて、ともかく寒さから逃げられ、ホッとしたのか、スタンドでスポーツ新聞を買って、競馬欄を眺めている。
「早速ギャンブルか」
と、熊沢が呟《つぶや》く。
「金の入るあてができたってことでしょうね」
と、久野原は言った。「電車に乗りますよ」
ホームへ下りて行くと、高井は、やって来た電車に乗った。
久野原たちは隣の車両に乗って、高井の姿を見失わないようにした。
昼間、そう混んでいるわけではないので、高井が空席を見付けて座るのが見えた。
十分ほど乗って、都心の駅で降りた高井は、地下鉄の駅から、地下通路を抜けて、ホテルの地階へと直接入って行った。
「——どうやら、暖い所で待ち合せているようだ」
と、久野原は言った。
泥棒が寒がりでは、話にならない。——久野原はふと思い付いたように、
「あの自殺した青年、何と言いましたかね」
「江田邦也です」
「そうそう。邦也だった。——いくつでした?」
「二十……四だったと思いますが」
「すると、僕の息子といってもおかしくないな」
と、久野原は言った。
「何を考えてるんです?」
「いやいや、ちょっとね……」
ホテルの一階へエスカレーターで上ると、高井は、ロビーのきらびやかな雰囲気の中で自分の身なりが少々「浮いて」いると感じたらしく、居心地が悪そうにしていたが、奥のコーヒーラウンジの名前を確かめると、ホッとした様子で、中へ入った。
オープンスペースで、ラウンジの中はロビーからも見通せる。——久野原と熊沢は、ロビーの柱のかげに立って、高井が会おうとする相手を待ち受けた。
「高井に顔を見せた相手は、きっと小物でしょう。しかし、そこからさらに上もたぐっていける」
「高井は、人の注意をひきつけるために忍び込んだんですかね」
と、熊沢は言った。
「たぶんね」
「番犬や、屋敷の人間が高井の所へ駆けつけている間に、誰かが〈月のしずく〉を盗み出したというわけですか」
「あるいは、盗み出さなかったか」
と、久野原は言った。
「どういう意味です?」
「誰かが侵入したと見せかけるために——あるいは、盗難騒ぎを起すために、高井に忍び込ませたのかもしれません。実際には何も盗られなかったとも考えられる」
「なるほど。すると八木が——」
コート姿の男が一人、ラウンジへ入って行った。——高井が立ち上りかけたが、コートの男は、違う席についた。
「別口だったらしい」
熊沢は息をついて、「——江田は死に損ですかね。可《か》哀《わい》そうに」
「単に疑われたから、というだけではないような気がしますが」
「といいますと?」
「江田青年のことを詳しく調べてみて下さい。あの死が自殺でないとすれば、江田も何かで係っていた可能性がある」
——二十分ほどたった。
高井は、不安そうな様子だった。
「カレーまで食べて、払う金を持ってないんだな、きっと」
と、熊沢は笑って言った。
ラウンジのレジの電話が鳴って、ウエイトレスが、高井の所へ足早に近付いて行く。
高井が急いでレジへ駆けつけて、電話に出る。
「——待ってますよ! よろしく!」
という声が届いた。
相手から、「少し遅れる」という連絡でも入ったのだろう。
気が大きくなったのか、高井は、見ただけで胸やけしそうな、特大のチョコレートパフェを取って、せっせと食べ始めた。
「甘党とは知らなかったな」
と、熊沢が苦笑する。
ウエイトレスが、コーヒーのおかわりを注いで行く。
久野原は、さっき入って来たコートの男が、立って支払いをすませて行くのを見た。
「——気になりますね」
と、熊沢が言った。「ちょっとつけてみます。ここをお願いしても?」
「ええ、いいですよ」
「顔だけ見たら、戻ります」
熊沢が、コートの男を追ってロビーを突っ切って行った。
久野原は、高井の方へ目を戻した。
口の周りをチョコレートで汚しながら、食べ終えた高井は、紙ナプキンで口を拭《ぬぐ》うと、注がれたコーヒーをガブ飲みした。お行儀がいいとは、とても言えない。
そして、高井は、またスポーツ紙の競馬欄を広げて見ていたが——。
突然、高井は新聞を取り落とした。そして、苦しげに胸を押えて喘《あえ》いだ。
久野原は急いでラウンジへ駆け込むと、
「医者を呼んでくれ!」
と、ウエイトレスへ声をかけ、高井の方へ駆け寄った。
「助けてくれ——」
高井は床に体ごと滑るように落ちて行った。
「おい、しっかりしろ!」
久野原が高井の頭を抱き上げるようにして、「聞こえるか?」
「あんたは……」
高井は顔を真赤にして、荒く息をついた。
「お前のせいで自殺した、江田邦也の父親だ」
久野原が、耳もとで、ひと言ずつはっきり言ってやると、高井は理解したらしく、目を見開いた。
「許してくれ!——俺《おれ》のせいじゃないんだ!」
「誰に頼まれた? そいつがお前に毒を盛ったんだぞ」
高井は目がトロッとして、混乱して来たらしい。
「俺は……死ぬのかな?」
「今、すぐ医者が来る! 頑張れ!」
と、久野原は高井の体を揺さぶった。「息子を死なせたのは誰なんだ!」
「——すまねえ。勘弁してくれ……。俺はただ言われた通りに……」
「誰に言われたんだ! 言ってくれ!」
と、久野原はくり返した。
高井の口が動いた。——声がかすれて、聞き取れない。
「何?——もう一度言ってくれ!」
久野原は、高井の口もとに耳を寄せた。
高井の口が細かく震えて……。
「——久野原さん!」
熊沢が戻って来た。「何ごとです?」
久野原は、力の抜けた高井の体を床へそっと下ろして、
「コーヒーに毒が……」
「何ですって?」
久野原はハッとして、ラウンジの中へ、
「コーヒーを飲まないで下さい!」
と叫んだ。「毒の入っている恐れがある! コーヒーを取った人は、口をつけないで!」
手にしたカップを、あわてて戻す客がいた。
呆《ぼう》然《ぜん》と突っ立っているウエイトレスへ、
「君……。この客のカップにコーヒーを足したか?」
「いいえ……」
と、青ざめて、「頼まれるまでは注ぐなと言われてます」
「君じゃなかった。髪型が違ってたな」
久野原は、記憶を辿《たど》って言った。「他のウエイトレスは?」
「今の時間、女の子は私一人ですけど……」
誰かがウエイトレスの制服を着て、毒を入れたコーヒーを注いで行ったのだ。
「熊沢さん、コーヒーサーバーを調べた方がいいですよ」
と、久野原は言った。
「——どうやら、もう手遅れですな」
と、熊沢は高井の様子を調べて、ため息をついた。
「申しわけない。私がこんなことを勧めたばっかりに」
「いや、目を離したのが失敗です」
「さっきの男は?」
「売店でチラッと顔を見ましたが、すぐに出て行ってしまいましたよ」
と、熊沢は立ち上って、「後は任せて下さい」
久野原は、黙って肯《うなず》くとラウンジを出ようとして、「制服は、どこに置いてある?」
と、ウエイトレスへ訊《き》いた。
「ロッカールームです」
「案内してくれないか」
むろん、犯人がまだぐずぐずしているとは思えなかったが、久野原は確かめないでは気がすまなかった。
——ロッカールームのドアを開けて、
「ここが女子のロッカールームです。今は誰もいません」
「失礼するよ」
久野原は細長い灰色のロッカーが並んでいるのを見て、「制服はそれぞれ決っているの?」
「いいえ。L・M・Sのサイズ別に、クリーニングした物が、奥の棚に並べてあるので、みんな自分に合ったサイズを選んで着るんです」
棚に並んだ制服を眺めていた久野原は、その一枚を手に取って、
「これは誰かが手を通してるね」
と言った。
「変ですね……」
と、ウエイトレスがこわごわ覗《のぞ》いて、「それ、Sサイズだわ」
Sサイズか……。
久野原は、その制服をそっと広げて見たのだった。