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怪盗の有給休暇14

时间: 2018-07-30    进入日语论坛
核心提示:13 孤 独「思い出に」 と、秋月沙織は言って、グラスを上げた。「健康を祈って」 久野原の言葉を聞いて、沙織は笑った。「昔
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 13 孤 独
 
「思い出に」
 
 と、秋月沙織は言って、グラスを上げた。
 
「健康を祈って」
 
 久野原の言葉を聞いて、沙織は笑った。
 
「昔のあなたは、もっとロマンチックだったわ」
 
「年《と》齢《し》を取ったのさ」
 
 と、久野原は言って、シャンペンの金色の泡を一気に飲み干した。
 
「そうね……。確かに、二人とも、同じだけの年月、老けてるわけね」
 
「現実を見つめることは、ロマンの精神と必ずしも矛盾しないよ」
 
「昔から、あなた、理屈ぽかったわ」
 
 ——秋月沙織の招待を受けて、このホテルの最上階のレストランへやって来た久野原だった。
 
「いつ、向うへ行くんだい?」
 
 と、久野原は食事をしながら訊《き》いた。「向うへ帰る、と言う方が正しいのかな」
 
「同じことよ」
 
 と、沙織は言った。「待つ人がいない。そんな所は〈家〉じゃないわ」
 
「ずっと一人なのか?」
 
「未亡人になってからはね」
 
「まだ若かったんだろう」
 
「身勝手な夫で、ちっとも悲しくなかったわ。もちろん、どうしたらいいか、息子と二人で途方にくれたけど……」
 
「息子と二人で?」
 
 久野原はびっくりした。「息子さんがいるのか。知らなかった」
 
「知らなくて幸い」
 
 と、沙織は笑って、「やっと大人になったと思ったら、どこかへフラッといなくなっちゃった。今ごろ、どこでどうしているのやらね」
 
 口調には苦いものが混じっていた。
 
「しかし……」
 
「やめましょう。——もう少し楽しい話をしましょ」
 
「そう突然、天から『楽しい話』が降ってくるかい?」
 
 と、久野原は笑った。
 
「そうね。でも……」
 
 と、沙織も笑って、「楽しいのが思い出ばかりじゃ、侘《わび》しいじゃないの」
 
「それもそうだ」
 
「あなたは——あの和子さんって方とはどうなってるの?」
 
「うん? ああ、あれか」
 
「『あれ』はないでしょ」
 
「しかし、何とも言いようがない。——ま、同志ってとこかな。もちろん夫婦でもないし、恋人でもない。——大分若いが、何しろ向うは僕のことを『手のかかる坊や』ぐらいに見てるのかもしれないよ」
 
「それは当ってるかも」
 
 と、沙織はおかしそうに言った。
 
「——おっと、失礼」
 
 久野原のポケットで、携帯電話が震えた。
 
 席を立つと、レストランの入口近くまで行って電話に出る。
 
「——もしもし」
 
 久野原は、いつもと全く違うトーンでしゃべる訓練をしていた。向うが親友でも気付くまい。しかも、ごく普通の感じで話すことができる。
 
「広告を見ました」
 
 富田美津子の声だった。「〈月の石、買い取りご希望の方〉という……。あの広告を出された方ですね」
 
 久野原は、この携帯を買ったばかりで、その番号を広告に載せた。それも、通りすがりの若者から、何万円かで買ったのである。——この用件がすめば、処分する。調べることはできないだろう。
 
「あんたが買うのか」
 
 と、久野原は訊いた。
 
「希望されている方の代理の者です」
 
 と、美津子は言った。
 
「代理じゃだめだ。本人でなきゃな。切るぞ」
 
「待って下さい!——あの、ちょっと待って」
 
 美津子が向うで話し合っている気配が伝わってくる。
 
 二、三分たって、
 
「——もしもし」
 
 不機嫌そうな八木の声がした。
 
「あんたが買うのか」
 
「そうだ」
 
「いくら払う?」
 
 八木にしても、この世界に長い。相手がハッタリでないと感じている。
 
「値打は分ってるだろう。しかし、処分も難しいはずだ」
 
「確かに」
 
「手間や危険を省くんだ。一億で手を打て」
 
「いいだろう」
 
 妥当な言い値だった。下手なかけ引きをしないのはさすがである。
 
「いつ用意できる?」
 
 と、久野原は訊いた。
 
「明日なら」
 
「明日の夜、十二時に、麻布×丁目の交差点の電話ボックスへ来てくれ。指示する」
 
「麻布×丁目だな。分った」
 
「この電話はもう使えない。予定は守れ」
 
 と言って、久野原は切った。
 
 テーブルに戻って、
 
「失礼」
 
「お仕事?」
 
「というほどのことでもない」
 
 久野原はゆっくりとワインを飲んだ。「——日本では商談が進んだかい」
 
「さっぱりね。——むだなものにお金をつかわなくなったら、世の中、面白くないわね。オペラやバレエ、歌舞伎や能や……。お祭、お花。ねえ、余裕って、むだなことでしょ? いくら儲《もう》かるか、なんて考えてたら、やってられない」
 
「美術品も?」
 
「そう……。宝石もね。イミテーションで充分、と思ってたら、買う人なんかいなくなるわよ。でも、そういうものを持ってる、っていう満足感と心のゆとりが、生きていく力になるんだわ」
 
 沙織はそう言って、ちょっと笑った。「そう自分へ言い聞かせてるのって、何だか寂しいかな」
 
「そんなことはない。事実その通りだよ」
 
「あなたがそう言ってくれると、何だかホッとするわ」
 
 沙織は自分のワイングラスを傾けて、「——もっとむだで、すてきなものを思い出したわ」
 
「何だい?」
 
「恋よ」
 
 沙織はいたずらっぽく言って、「うんと甘いデザートのような恋ね」
 
「君は充分若いよ」
 
「酔ったの?」
 
「いや……。薄暗いせいかな」
 
「失礼ね!」
 
 と、沙織は言って笑った。
 
 ——実際、沙織は、久野原が、
 
「見ただけで胸やけがする」
 
 と言った、デザートの山盛りを取って、きれいに平らげた。
 
 コーヒーだけ飲みながら、久野原は、沙織の食欲に感心していた。久野原よりは大分若いとはいえ、五十にはなっている。
 
 仕事で責任を負っているということ、そして、人に見られる立場にいるということ。それが沙織を若々しく見せている。
 
 しかし、かつて久野原が恋した沙織とは違う「魅力的な女性」がそこにいた。——久野原を慕い、頼ってくる沙織ではない。
 
 コーヒーを飲みながら、
 
「山倉さんの告別式に来たね、遅れて」
 
「前の面談がのびて……。あなたもいたの?」
 
「うん。仕事のご縁でね」
 
 と、久野原は言った。「——やれやれ、こんなにのんびり食べていられるなんて、久しぶりだ」
 
「恋だけじゃなくて、『おいしいものを食べる』のも、すてきなむだよ」
 
 と、沙織は微《ほほ》笑《え》んだ。
 
 ワインで目のふちをほんのりと赤くしている沙織は、昔の面影を残していた。
 
「——出ましょう」
 
 と、沙織は言った。
 
 ——レジで久野原が支払いをすませていると、いつの間にか沙織がいなくなって、コートを腕に首をかしげていると、
 
「久野原様。秋月様です」
 
 と、レジの女性が電話を差し出した。
 
 わけが分らず出てみると、
 
「——ごちそうさま。この後、どうするか選ばせてあげようと思って」
 
「選ぶ、って……」
 
「私はこのホテルの八階、〈807〉にいるわ」
 
「何だって?」
 
「訪ねて来る気があれば来て。その気になれなかったら、帰っていいわ」
 
「沙織——」
 
「〈807〉よ」
 
 と、沙織はくり返して、電話を切った。
 
 久野原は、ため息をついて、手の中の受話器を見つめていた。
 
「——どうかなさいましたか」
 
 と、レジの女性が訊《き》く。
 
 我に返った久野原は、
 
「いや、何でもない」
 
 と、首を振った。
 
〈807〉。——しかし、もう何十年になる?
 
 恋の炎は、まだくすぶっているだろうか。
 
 いや——むしろ、今の久野原にとっては、沙織を抱く気になれるかどうかの方が問題だった。
 
 懐しくはある。かつて愛し合った女性を、再び抱いてみる……。しかし、それはただの「遊び」で割り切れるだろうか。
 
 エレベーターで、〈8〉のボタンを押す。——ともかく、素通りして帰るわけにはいかない。
 
 会ってみなければ、どうなるものか、久野原にも確信はなかった。一緒に食事をするというのとは全く違う。
 
 訪ねて行けば、彼女は当然久野原が「承知の上で」来たと思うだろう……。
 
 迷っている間に、エレベーターは八階で停り、廊下をゆっくり辿《たど》って、すぐに〈807〉のドアの前に立った。
 
 どうする? このドアをノックすれば、沙織を抱かずに帰るわけにいかないだろう。
 
 男の自分が迷っているのは妙だろうか?
 
 いや、無分別な若者ではない。かつて知っていたころから流れた日々が、思い出を壊してしまいそうな気もするが、その心配だけでもない。
 
 要は——「遊び」と割り切ってしまうには、沙織は久野原の中に深く係《かかわ》っているのだ。
 
 帰るか、それとも——。
 
 だが、ドアの向うに人の近付く気配があり、ドアが中から開いた……。
 
「——君か」
 
 久野原は、そこに湯上りの匂いを漂わせ、バスローブをまとった、島崎美鈴の姿を見て、当惑した。
 
「入って下さい」
 
 と、美鈴は言った。
 
 廊下を、人の声が近付いてくる。久野原は中へ入った。美鈴がドアを閉め、
 
「叔母に言われました。——『私はおいしい食事をするから、デザートは譲るわ』って」
 
「そうか」
 
 久野原は微《ほほ》笑《え》んだ。「僕はデザートか」
 
「デザートにはぜいたくしたいんです。食事は簡単にすませても」
 
 美鈴は、大きく息をついた。バスローブの下で、若々しい胸が盛り上った。
 
「急いで帰られるんですか」
 
 と、美鈴が言った。
 
「いや」
 
 久野原は首を振った。「それじゃ、ゆっくり寛《くつろ》がせてもらおう」
 
 少し固い表情だった美鈴が、ホッとした様子で、
 
「何か飲みますか」
 
「今、飲んだからね。——君は?」
 
 コートを脱ぐと、美鈴が、
 
「私、かけます」
 
「いいよ、君は別に僕の秘書じゃない」
 
 久野原は、しかし美鈴に任せて、「——家に連絡を入れておくよ」
 
「和子さんが心配なさる?」
 
「心配はしないだろうが、変に勘ぐられても困るからね」
 
 久野原は、和子へ電話を入れた。
 
「——ああ、例の件は連絡がついたよ。部屋の用意を頼む」
 
「かしこまりました。どちらからおかけですか?」
 
 と、和子が言った。「いやに周りがお静かで」
 
「うん。ホテルの部屋だ。ここへ泊る」
 
「それはそれは……。ご苦労様です」
 
「明日の昼には帰るよ」
 
「どうぞごゆっくり」
 
 と、和子は言った。
 
 別に怒るわけでもないのだ。淡々としているのである。
 
「昔話に花が咲いたんですか」
 
「いや……。姪《めい》ごさんの方だ」
 
「まあ、いつの間に」
 
「色々事情があってね」
 
「——ご用心下さいな。では、お待ちせずにやすませていただきます」
 
「おやすみ」
 
「おやすみなさいませ」
 
 ——美鈴が、少し心配そうに、
 
「和子さん、何て?」
 
「おやすみ、とさ」
 
 ホッとしたように笑って、美鈴は久野原に抱きついて来た。
 
 ——二人はデザートをじっくりと味わったのだった。
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