車を降りると、富田美津子は、電話ボックスに入った。
雪になりそうな、底冷えのする夜。——車の行き来は絶えないが、人はほとんど通らない。
腕時計を見ると、ちょうど十二時。——真夜中である。
電話が鳴った。狭いボックスの中で、その音は美津子に向って飛びかかってくるように感じられた。
「——はい」
と、電話に出る。
「金は用意してあるね」
「車の中に」
「じゃ、車で、×丁目の信号を左折して、二番目の角を右へ曲れ。三つめのマンションの〈503〉へ行け」
「分りました」
美津子は頭の中で指示をくり返すと、「すぐに出ます」
電話ボックスを出ると、美津子は車に戻った。
助手席には、アルミのトランクが置かれている。
車でほんの数分だった。——途中、深夜工事で引っかかったが、十分たたずに、指定のマンションに着いた。
〈503〉。——〈503〉。
こういう単純な数字の方が、つい、忘れてしまいそうになる。エレベーターの中で、美津子は、
「〈503〉……」
と、呟《つぶや》いていた。
手にしたトランクが重い。
五階で降りると、空き部屋が多いのか、何となく寒々とした廊下である。
コンクリートの床にも、埃《ほこり》が目立つ。——私なら、いくら家賃が安くてもこんなところには住まないわ、と美津子は思った。
〈503〉。——チャイムでも鳴らしたものかどうか。
こんなときに、いやに礼儀正しい自分がおかしかった。
ドアのノブを回して見ると、鍵《かぎ》はかかっていなかった。美津子は中へ入った。
玄関を入ると、正面のドアが半ば開いていて、明りが漏れている。
美津子は、靴を脱いで上ると、ドアを大きく開いた。
美津子の目が大きく見開かれる。
「——入って」
と、久野原は言った。
美津子は、おずおずと前へ進んだ。
「トランクを開けなさい」
と、久野原は言った。
美津子は目の前のテーブルにトランクをのせ、小さな鍵を取り出して、ロックを外した。さらに、数字を合せる。
パチッと音がして、トランクが細く口を開く。
「こっちへ向けて」
と、久野原は指示した。「開けて中を見せなさい」
美津子は、言われる通りにして、トランクを大きく開けた。立っていたので、美津子の目にも、トランクの中が見えた。
札束は入っていなかった。赤いランプがチカチカと点滅した。
次の瞬間、トランクは轟《ごう》音《おん》と共に爆発した。
マンションの一部屋、ベランダに面したガラス扉が粉々に吹っ飛んで、続いて黒煙が吹き出して来た。
——マンションの住人があわてふためいて飛び出してくる。
「やったな」
リムジンの中から、その様子を見ていた八木春之介は、小さく肯《うなず》いて呟いた。「可《か》哀《わい》そうだが……」
しかし、美津子には充分いい思いをさせてやった。そうだとも。
八木流の論理で、自分が納得してしまうと、何の痛みも感じない。
「〈黒猫〉も、これで終りか。呆《あつ》気《け》ないもんだ……」
八木はフッと笑うと、「おい、行け」
と指示をした。
リムジンは静かに走り出した。
「——どちら様で」
と、玄関のドアを開けた和子は言った。
「八木春之介だ」
「はあ……。旦《だん》那《な》様はお留守でございますが」
「分ってる。——そう澄ましてたってだめだ。お前も〈黒猫〉とグルだったんだろう」
と、八木は笑って、「中へ入らせてもらう。預けたものを返してもらいに来た」
八木の後には、見るからに「用心棒」という感じの大男が二人、無表情に従っている。
「何のお話ですか……」
と、和子も表情一つ変えない。
「とぼけるな。〈月のしずく〉がここにあるはずだ」
八木の口もとの笑みが消えた。「この二人は、何でもぶち壊すのが趣味なんだ。家でも人間でもな」
和子は淡々と、
「お上り下さい」
と、三人を居間へ通した。
「余計な手間は省こう」
八木はソファに寛《くつろ》いで、「ここで、お前をこの二人に好きにさせてもいいが、俺《おれ》は女にやさしいんだ。おとなしく〈月のしずく〉をここへ出せば、何もせずに帰ってやる。しかし、隠し立てしたら、一生まともには歩けなくなるぞ」
「怖いお話で」
と、和子はちっとも怖がっていない様子。
「〈黒猫〉が帰ってくるのを待ってもむだだ。〈黒猫〉は粉々になって、見分けもつくまい」
和子は、何も言わずに八木を見ていたが、
「かしこまりました」
と、頭を下げ、「こちらも、もうお返しした方が、と思っておりました」
「分りゃいい。ここへ出せ」
「少しお待ち下さい」
和子は、そう言って居間を出て行った。
「——素直すぎませんか」
と、子分の一人が言った。
「まあ待て。何か小細工したら、存分にさせてやる。それとも——」
と、八木はニヤリと笑って、「〈月のしずく〉が戻ったら、後はここがどうなろうと構わん。あの女もな」
「ありがたい!」
と、指をポキポキ鳴らし、「ああいう、人を小馬鹿にしたような女を泣かせるのは面白いですよ」
と笑った。
すると——居間のどこからか、
「ご趣味の悪い方は、趣味の悪い使用人をお雇いですね」
と、和子の声がした。
八木がびっくりして、
「何だ?」
と立ち上った。「——どこかにスピーカーがあるんだな」
「マイクもございます」
と、和子が言った。「品のない会話も、しっかりうかがっておりました。雇人を見れば主人が分ると申しますが、その通りでございますね」
「おい! なめた真似をしやがると——」
「由緒ある家柄のお方が、そういう口をおききになって」
と、和子はため息をついて、「お引き取りいただく方がよろしいでしょう」
「ふざけるな!」
と、八木は怒鳴った。「——おい、あの女を捜して引張って来い!」
真赤になって怒っている。
子分が居間を出ようとしたが——ドアが開かない。
「鍵《かぎ》がかかってる! 畜生!」
「ぶち壊せ!」
と、八木は言った。
子分が、少し後ずさって、思い切りドアへ体当りした。だが、ドアはびくともせず、子分は肩を押えて、
「いてて……」
と、うずくまってしまった。
「だらしねえな! 何やってるんだ?」
と、もう一人が、ドアを思い切りけとばしたが、やはり鍵が壊れる気配もない。
「——畜生! 頑丈にできてる」
「ドアを叩《たた》き破れ!」
と、八木はすっかり頭に来ている。
子分二人が、手に手に部屋にあった小さなテーブルやブロンズの彫刻をつかんで、力一杯ドアへ叩きつけた。
ドアの板が裂け、木くずが飛び散る。
「——何だ、これ!」
と、一人が目を丸くして言った。
ドアの板の裂け目に覗《のぞ》いたのは、銀色の鉄板だった。
「鉄板が挟んである。——これじゃ壊れないぞ」
「鍵の所を狙《ねら》え!」
二人は上着を脱いで、ドアのノブをへし折り、鍵の辺りを何度も攻撃したが、一向に開く気配はない。
「——だめです!」
と、二人の子分は息を弾ませ、汗を拭《ぬぐ》いながら、「びくともしません」
「何やってるんだ!」
八木は頭から湯気でも立てそうだった。「窓だ。——窓を破って、外から回れ」
広い窓へと駆け寄って、カーテンをシュッと開けた子分は絶句した。
「これ……」
家の外には、すっかりシャッターが下りていた。
「こじ開けろ!」
と、八木が命じる。
窓ガラスを叩き割り、続いてシャッターへと椅《い》子《す》やスタンドや、手当り次第に投げつけたが、やはり、並のシャッターとは違い、へこみもできない。
「——とてもだめです!」
二人は、汗だくになって、床に座り込んでしまった。
「情ない連中だ!——畜生!」
八木は居間の中を歩き回って、置物や棚を片っ端から引っくり返し、壊して行った。
「——お気がすみましたか」
和子の声がした。
「いいか! こんな真似をして、後で後悔しても遅いぞ!」
と、八木は吠《ほ》えた。
「『後で後悔』は意味がダブっています」
「やかましい!」
「あまりカッカなさると危いです」
「何だと?」
「室内の温度が上ると、温度感知器が働いて、火事と判断するかもしれません」
「それがどうした!」
と、八木が言い返す。
「すると、こういうことになります」
と、和子の声がして、突然、天井のスプリンクラーが作動した。
細かく、霧のような水が、居間一杯に降り注いだのである。
「ワッ!」
「何だ!」
たちまち居間の中が真白になって、何も見えない。
「何とかしろ!」
と、八木が怒鳴ったが、いくら怒鳴られても、二人の子分もずぶ濡《ぬ》れになって頭を抱え、うずくまっている状況では、どうしようもない。
「水を止めてくれ!」
と、八木が悲鳴を上げた……。
パトカーが停ると、熊沢が降りて来た。
他に制服の警官が数人、同行している。
玄関のドアがすぐ開いて、
「熊沢さん。お待ち申していました」
と、和子が言った。
「何ごとです?」
「それが——ゆうべ遅くに、八木という方が二人ほど連れてみえまして……」
と、和子は先に立って、「旦《だん》那《な》様が粉々になったとか、わけの分らないことをおっしゃって」
「粉々に?」
と、熊沢は眉《まゆ》をひそめて、「ゆうべ、都心のマンションの一部屋が爆弾で吹っ飛んだんですが」
「まあ、そうでしたか……」
「久野原さんは?」
「ゆうべはお帰りではございません」
と、和子は言った。「その前の晩も。——でも、それは理由が分っているので」
「はあ……」
「それで——八木さんたちが、急に居間の中で暴れ始めまして」
「暴れ始めた?」
「一体どうなさったんでしょう? とても手がつけられないんです」
早朝、まだやっと空が白んでくる、最も寒い時刻である。
「——まだ中に?」
「そのはずです」
と、和子が肯《うなず》いて、「用心なさって。かみつかれるかもしれません」
犬扱いされている。
「おい、開けてみろ」
と、熊沢が促すと、警官が居間のドアを開けた。
凍えるような風が吹き抜けていく。
「——何だ、これは?」
熊沢が愕《がく》然《ぜん》として、その惨状を見渡した。
ドアの内側の板は裂け、中は机といわずソファといわず、壊され、引っくり返されて、しかも、部屋中が水びたしになっている。
正面の窓ガラスも一枚残らず割れて、寒気が吹き込んでいるのだった。
「——あのみのむしみたいなのが、その三人ですか」
「らしいですわ」
居間の隅に、三人はカーテンの布を体へ巻きつけて、真青になり、生きた心地がない様子。
「——何をやったんだ?」
と、熊沢が床の水たまりを渡って行くと、八木がそろそろと顔を上げ、何か言った——らしいのだが、寒さで言葉にならず、歯がガチガチと鳴っているばかり。
「ずぶ濡れになって、こんな寒い所にいりゃ、凍えるに決ってる」
と、熊沢は言った。「どうして出て行かなかったんだ?」
八木は、初めて、窓のシャッターが開いているのに気付いた様子だった。——明るくなれば分りそうなものだが、凍え切っていて、頭が働かなかったのだろう。
「このままじゃ凍死する」
熊沢は、救急車を呼べと指示して、「——和子さん」
「何でしょう」
「こいつが、久野原さんを粉々にしたと言ったんですね?」
八木が必死で首を横に振る。
「——言ってないって?」
「変ですねえ。確かにそう言ったんですよ」
と、和子が言った。
「た……た……」
やっと、八木の口から言葉らしいものが飛び出した。「頼む! 風呂……風呂に……入れてくれ!」
「寒いだろう。——どうします?」
「さあ。旦那様にうかがいませんと」
と、和子が言ったとき、
「入れてやることはない」
と、声がした。
居間の入口に、久野原が立っていたのである。
「お帰りなさいませ」
と、和子がいつもの通りに言った。
「どうやら、粉々にはならなかったらしいですな」
と、熊沢は言って、八木を見ると、「おや、気絶しちまったらしいな」
久野原の姿を見て、八木は卒倒してしまったのだった……。