「どうぞ」
和子は、久野原の前に熱いレモネードのカップを置いた。
もちろん、悲惨な有様になっている居間ではない。ダイニングのテーブルについて、久野原は考え込んでいた。
「——ありがとう」
「あまり悩まないで下さい。ご自分を責めても仕方ありません」
「分ってる。しかし……」
と、久野原は首を振って、「甘く見ていた。八木にとっても、富田美津子はまだ必要だと思っていたんだ」
——久野原は、あのマンションにいなかったのである。
あの部屋へ入って、美津子が面食らったのは、正面にいたのが、小型のTVカメラだったことだ。そして小さなスピーカーが置かれて、そこから久野原の声が指示を出していたのである。
久野原は、同じマンションの別の部屋にいて、TVカメラの画像を小型のモニターTVで見ながら、美津子へ話しかけていた。
美津子と直接顔を合せるのを避けたかったことと、八木がどこかについて来ているのではないかと疑っていたので選んだ方法だが、結局、それが久野原の命を救ったのである。
八木も、久野原があの場へ〈月のしずく〉を持ってくるはずがない、と分っていたのだ。
それにしても——爆発がマンションを揺がしたとき、久野原は青ざめた。
部屋へ駆けつけてみたが、無惨だった。
八木は、〈黒猫〉を退治するために、自分の秘書で愛人だった女を平気で道連れにした。——それは赦《ゆる》せないことだった。
「大分こりたでしょう」
と、和子は言った。
「ああ、よくやってくれた」
と、久野原は言った。
「——熊沢さんを呼ぶのが、少し早過ぎましたか?」
久野原は少し迷っていたが、
「いや、あれで良かったよ」
と、肯《うなず》いて見せた。「あれ以上、あの三人を寒気にさらしたら、凍死しただろう。それは事件の解決でなく、復《ふく》讐《しゆう》になってしまう」
「きっとそうおっしゃると思っていましたわ」
久野原は、和子の手を握った。
「あの方は?」
と、和子が言った。
「彼女か」
「私よりも、あの方の方が、慰めになるのでは?」
久野原は、少しの間、和子の手を握っていたが、
「——いや、こんなときに彼女に頼るのは卑《ひ》怯《きよう》だ。大丈夫だよ。僕は大丈夫」
と、肯いて言った。
「少しおやすみ下さい」
「うん。——ありがとう」
久野原は立ち上って、伸びをした。
「自然に目が覚めるまで、お起こししませんから」
「ああ、そうしてくれ。しかし、きっと早い内に目を覚ます。もう若くないからな」
と、久野原はダイニングを出ようとして、
「——ありがとう」
と、和子の方へ言った。
「おやすみなさい」
と、和子は頭を下げて、「——旦那様」
「うん?」
「居間がひどい状況ですが——」
「ああ、そうだね。早速、直してもらってくれ」
「新しくデザインして、私の好きにしてよろしいですか?」
「いいとも」
久野原は微《ほほ》笑《え》んだ。「任せるよ。すべて」
「かしこまりました!」
和子はとたんに目を輝かせ、張り切った声を出したのだった……。
久野原は、自分の予想とは違って、もう夕方近くになってから、やっと目を覚ました。
体は休まったが、胸の重苦しさは一向に消えていない。
電話が鳴って、出てみると、熊沢からだった。
「——お目覚めでしたか」
「今、起きたところで……。八木たちの具合は?」
「三人とも、ひどい風邪で肺炎になりかけているそうです」
「自業自得ですな。同情しません」
「全く同感です。ただ、訊《じん》問《もん》も医者のOKが必要でしてね」
「分りました。じゃ、居間はあのままの状態で残しておいた方がいいんですね?」
「そういうことです。色々お手数ですが」
と、熊沢は言った。
久野原は、電話があったせいで、すっかり目が覚め、顔を洗って階下へと下りて行った。
「——おい、起きたよ。——どこだ?」
どこにもいない。
買物にでも行ったのかと思い、自分でコーヒーを淹《い》れて飲んでいると、チャイムが鳴った。
宅配の荷物である。
久野原は、いやに軽い、その箱を、妙な気がして振ってみた。
何か入っているようだが、空に近いだろう。
箱を開けると、布のきれ端と、手紙が出て来た。
手紙を読んだ久野原は息をのんだ。
〈女の命が惜しかったら、今夜八時、N博物館へ、〈月のしずく〉を持って来い。女のブラウスのきれ端を入れておく。〉
手に取った布は、確かにブラウスの一部で、その模様にも見覚えがある。
「——和子」
卑怯な奴《やつ》だ!
久野原はもう一度、ワープロで打った手紙を見直した。
N博物館。八時。
すぐに、N博物館へ電話して、閉館が七時だということを確かめた。
五時になるところだ。——久野原は、急いで支度を始めようとした。
玄関のチャイムが鳴って、インタホンに出ると、
「あの……私です」
美鈴の声だった。
すぐに玄関へ出て、ドアを開けると、
「——突然ごめんなさい」
と、美鈴がおずおずと、「どうしても顔を見たくて……」
「入って」
久野原の表情で、何か起ったと察したのだろう、
「どうしたの?」
と訊《き》いた。
久野原が手紙を見せると、
「——和子さんが」
と、呟《つぶや》くように言った。「でも……どうするんですか?」
「もちろん救い出すさ」
「この〈月のしずく〉って——ダイヤモンドでしょう? 久野原さんが持ってるの?」
「ある人から預かったんだ」
と、久野原は肯《うなず》いて、「もちろん、和子の命には換えられない。持って行く。——美鈴君、力を貸してくれるか」
「私にできることがあるのなら……」
「あるとも」
久野原は、美鈴の髪をなでて、「そばにいてくれるだけでも、充分だ」
と言った。
美鈴が久野原の胸に顔を埋《うず》める。
久野原は何秒間か美鈴の暖い体を抱きしめていた。
遠い日のこだまが聞こえた。——ずっとずっと若いころ、恋に胸ときめかせた過去のこだま。
だが、それはもう帰って来ないのだ。
しっかり抱きしめている美鈴の体は現実でも、抱いていること、そのことは幻なのだ……。
「——じゃ、待っててくれ。すぐに支度する」
と、久野原は言った。
「ええ」
久野原は行きかけて、
「居間は入っちゃいけないよ」
「どうして?」
「改装中なんだ。ちょっとゴジラが暴れてね」
美鈴が目を丸くして、居間のドアの方へ目をやった。
入場最終時間の六時ぎりぎりに入館することができた。
——N博物館は大きな建物なので、全部の展示を一時間で見て回るのは難しいのである。
中へ入ると、遥《はる》か頭上にドーム状の丸天井があり、ホールはもう帰って行く人たちが通り抜けて行くばかりだった。
「——N博物館っていっても、どこのことなのかしら」
と、美鈴は言った。
「場所を指定していないということは、向うから捜しに来るということさ」
久野原はそう言って、「ともかく奥へ入ろう」
と促した。
——古代エジプトの展示が何室か続く。
「——監視カメラの死角を見付けて、隠れよう。まだ人のいる内でないと、却《かえ》って目立つ」
見物しているように見せながら、久野原は、TVカメラの位置を目の端で確かめていた。
ミイラの展示と、棺《ひつぎ》が並んだ部屋は、いわばN博物館の「目玉」で、この時間でも客が結構入っていた。
「——ここだな」
「え? こんなに人がいるのに?」
「だから、カメラでも追い切れていない。大きな棺が三つ並んでるだろう。その後ろはカメラから完全に隠れている」
「——どうするの?」
「別々に、そこと向うのグループの近くに立つんだ。同じグループに見えるように。そしてここを出るとき、棺の間へ入りこむ」
「分ったわ」
美鈴は、むしろいきいきとして、冒険を楽しんでいるかのようだった。
二人はブラブラと歩きながら別れて、どこかのカルチャースクールのグループらしい、説明役の先生が熱弁をふるっている所で足を止め、話に聞き入っているふりをして、棺の方へ近付いた。
「——では、行きましょう。じき閉館になります」
と、案内役の先生が先に立って、展示室を出て行く。
久野原は、その人の塊のかげに隠れて、素早く棺の裏側へと隠れた。
薄暗くなっているので、身をかがめていると、まず見られる心配はない。
隣の棺の裏側に、美鈴が潜り込むのが見えた。
目が合って、肯いて見せると、美鈴は微笑んだ。
——その後は、パラパラと数人の客があわただしく通り過ぎて行き、やがて館内に、
「間もなく閉館時間です」
というアナウンスが流れた。
七時には全部の客を出して閉めるのだ。
十分前くらいには、人の気配がなくなった。
そして、七時になると、照明が次々に落ちて、辺りは静寂に包まれた。
十分ほどして、足音が響いた。
「——一応見て回るんだ」
と、小声で美鈴に言った。「じっとして、声を出さずに」
美鈴が肯いて見せる。
ミイラと棺の部屋を、ガードマンの足音が通り抜けて行く。
もう大丈夫。——久野原は、立ち上って、息をついた。
「——もう出てもいいの?」
「カメラに映らないように」
と手招きすると、美鈴が久野原のそばへやって来た。
「——さあ、後は八時まで待つだけだ」
と、久野原は言った。
「でも、こんな所で……」
「歴史に興味があるのかな」
と、久野原は言った。「それともミイラなのかも。——僕のようにね」
「そんな……」
と、美鈴は言って、「——ね、〈月のしずく〉って、見せてくれる?」
「ああ」
久野原は、ポケットから、革袋を取り出して、美鈴に渡した。
中から、てのひらへストンと落ちた、その重さと大きさに、美鈴は息をのんだ。
「凄《すご》い!」
「ああ。大したものさ」
久野原が肯く。そのとき、ガラガラという音が響いて、二人は動きを止めた。
「大丈夫。入口のシャッターの閉じる音だ」
「ああ、びっくりした!」
美鈴は〈月のしずく〉を返すと、久野原にもたれかかった。
「こんな所で、変ね」
「僕にとっては珍しくないがね」
「あなたが——〈黒猫〉?」
「昔の話だ。もう白髪になってるさ」
と、久野原は言った。
「じゃ、〈白猫〉ね」
と、美鈴は笑って言った。