八時近くになると、博物館はすっかり静かになり、同時に暖房が切れて冷えて来た。
「そろそろ八時だな。——出て行こう」
と、久野原は言った。
二人が棺《ひつぎ》のかげから出て、広い階段のあるロビーへ出て行くと、
「止って」
と、アナウンスの声が響いた。「宝石は?」
「ここだ」
と、久野原が革袋をポケットから出して見せる。
「階段を上って」
女の声だ。——二人は、広い階段を上って行った。
正面の踊り場に、横たわる裸婦の大きな彫刻がある。その上に、ちょこんと腰かけているのは、和子だった。
「旦《だん》那《な》様、お手数かけて」
「けがはないか?」
「大丈夫です。ブラウスを切られて、だめになりましたけど」
「その手前で止れ」
と、アナウンスの声が響いた。「〈月のしずく〉を足下に置け」
久野原は革袋を足下に置いた。
「——これでいいか」
と、久野原は言った。「和子を連れて帰るぞ」
久野原が、和子の手を取って彫刻から下ろす。
「座り心地が悪くて。お尻《しり》が痛くなりましたわ」
と、和子が文句を言った。
「帰ろう」
——階段の下から、美鈴が拳《けん》銃《じゆう》を構えて、銃口が久野原を狙《ねら》っていた。
「ごめんなさい」
と、美鈴は言った。「帰すわけにはいかないの」
「謝るくらいなら、やめておくんだ」
久野原は言った。「君には引金が引けないよ」
「引けるわ」
「どうかな。——君には無理だ。もう一人の友だちならやれるかもしれないが」
階段を下りてくる足音がした。
「——やあ」
と、振り向いて、「ゆかり君。——元気で良かった」
関口ゆかりが階段を下りて来た。
「——私だと分った?」
「アナウンスの声はすぐに分ったよ」
「ここのガードマンが私のボーイフレンドなの。少しの間、留守にしてもらったのよ」
「いくらボーイフレンドでも、死体が転ってちゃ困るんじゃないか?」
と、久野原は言った。
「ここじゃやらないわ」
「君たち二人じゃ、心細いね。——沙織君、出て来たまえ」
——秋月沙織が、美鈴の後ろに姿を見せた。
「悲しい再会だね」
と、久野原は言った。
「あなたが〈黒猫〉でなけりゃ、こんなことにはならなかったのよ」
と、沙織は言った。
「三人の女子大生は、君が仕込んでいたんだな。宝石商に近付いて、宝石を偽物とすり換えるように」
「器用な子たちなの。——八木が、チューリヒでパーティを開くと聞いて、そんなチャンスを逃す手はないと思ったわ」
「八木のパーティそのものが、インチキだった。みんなが宝石を持ち寄って、停電の暗がりの間に盗まれたと届け出て、保険金をせしめる。そうだろう?」
「八木の手は知れ渡ってたわ」
と、沙織が肯《うなず》いた。「そのパーティにこの子たちをうまく参加させた。あのとき、停電になって、テーブルの上の宝石が一斉に落とし込まれた後、この子たちがドレスの下に隠し持っていたイミテーションをテーブルにバラまいたのよ」
「盗まれたことにするはずが、テーブルから宝石が消えていない。みんな、仕掛けがうまく働かなかったと思ったんだ」
「集まった人たち、みんなが宝石商じゃなかったから、やり直しができなかったのよ。盗まれたという目撃者が必要だったから」
「保険会社に怪しまれないためにね」
「そう。——でも、後になって、みんな精巧な偽物だと知って真青になった」
「八木は事実を察していた。それで、空港で〈月のしずく〉を僕に持たせて日本へ帰らせた」
「どうしてもそれがほしかったのよ」
と、沙織は言った。「あなたには申しわけないけど」
「どういたしまして。——懐しかったよ」
と、久野原は言った。「だが、どうして木村涼子を殺したんだ?」
「山倉から、本物をもらって、それも自分のものにしようとしたからよ。——欲を出したら、いつ私を八木へ売るかもしれない。仕方なかったの」
「山倉や山城を、あそこまで追い詰めなくても良かっただろう」
「勝手に身を滅したのよ。——男なんて、みんな同じだわ。あなたのような、わずかの例外は別にして」
「どうかな。——なあ、沙織君」
久野原は、階段に置いた革袋を取り上げた。
「元へ戻して」
「中身を改めるべきだ。僕も君にイミテーションをあげたくないからね」
「何ですって?」
久野原は、袋から〈月のしずく〉を出して、
「すぐに分ることさ」
と言うと、それを宙へ放り投げた。
放物線を描いて、その石は階段の上に落ちると——音をたてて砕け散った。
「ダイヤモンドは割れないよ、これぐらいではね」
「ガラス玉?」
「そう。さっき〈月のしずく〉を見せてやったとき、すり換えられたんだ。本物は、美鈴君のポケットに入っているよ」
美鈴が青ざめて、
「撃つわよ!」
と、銃口を沙織に向けた。
「美鈴……」
沙織が愕《がく》然《ぜん》としている。「私を騙《だま》すつもりだったの?」
「彼女は八木の下で働いてたんだ」
と、久野原は言った。「〈月のしずく〉が盗まれたと思わせるために、下手な泥棒を忍び込ませて、騒ぎを起こした。そして、八木の所で働いていた江田という若者を誘惑して、わざと駆けつけるのに手間どらせ、犯人らしいと噂《うわさ》を流して、自殺に見せかけて殺した」
「あれは自殺だったのよ! あんなことになるなんて、思ってもいなかったわ。私は、自殺じゃないように見せようとして、靴下をはかせたのよ。でも——」
「あなたが……江田を?」
沙織が真青になったと思うと、いきなり美鈴に飛びかかった。
「よせ!」
と、久野原が階段を駆け下りる。
女二人がもつれ合って転ると——銃声が響いた。
「——沙織君!」
久野原が息をのんだ。
フラッと立ち上がったのは、沙織だった。
美鈴が血に染った腹部を押えて呻《うめ》いている。
「和子! 救急車を呼べ!」
と、久野原は叫んだ。
和子が駆けて行く。
「——沙織、君は——」
「江田は、私の息子だったのよ」
と、沙織が言った。「真面目に宝石の勉強をしたいと言い出して、私は反対したのに、八木の所へ……。私は、八木があの子を死なせたと思ってたの。だから……」
「知らなかったわ!」
美鈴が苦しげに言った。「私——本当に江田さんが好きだった!」
「しゃべるな」
久野原は、美鈴のそばに膝《ひざ》をついて、拳銃を拾い上げた。
「私——逃げるわよ」
と、青くなったゆかりが駆け出して行ったが、
「やっ!」
と、一声、出会いばな、和子の拳《こぶし》の一撃でのびてしまった。
「——すぐ救急車とパトカーが来ます」
「そうか」
久野原は、沙織を見て、「君はどうする。——行くなら止めない」
「いいえ……」
沙織は、首を振った。「逃げるわけにはいかないわ」
「久野原さん……」
美鈴が苦しげに手をさしのべた。
「じっとして。出血がひどくなる」
「お願い。信じて下さい。私、江田さんを殺してはいないわ。あの泥棒に毒をのませたけど。八木に言われて……」
「分った。今ごろ八木が白状しているだろう」
「旦《だん》那《な》様」
と、和子が言った。「私がここにおります。旦那様は姿を消された方が」
「そうだわ」
と、沙織が言った。「あなたは行って。——〈黒猫〉のことは、決して口にしない」
久野原は、少しの間考えていたが、
「分った」
と肯いて、美鈴のポケットから、革袋を取り出した。「さあ、これが本物だ」
沙織は手の上に、〈月のしずく〉を出して、
「——ただの石じゃない」
と、言って笑った。
それから沙織は、
「じゃあ……」
と、久野原を抱き寄せて、キスすると、「和子さんも行って。——私が、うまく話をします」
「待って……」
美鈴が手を伸して、「私にもキスして行って!」
と言った……。
——パトカーと救急車がN博物館の前に停り、警官など大勢が中へ駆け込んで行く。
「悲しい結末だ」
と、久野原は車からその光景を見て言った。
「あの人たちはまだ、やり直せますわ」
と、和子は言った。
「そうだな……」
久野原は、ふとポケットに手を入れて、「——見ろよ」
〈月のしずく〉が、久野原の手にのっていた。
「別れぎわに、沙織がポケットへ入れたんだ」
「あの方からのプレゼントですわ。——受け取っておかれるとよろしいですわ」
と和子が言った。
「——そうしよう」
久野原は、車を夜の中へと走らせて行った。
エピローグ
八木が、手錠をかけられて、パトカーから降りてくる。
カメラのフラッシュが一斉に光り、八木は、ジロリとそっちをにらみつけた。
悪びれた様子もなく、刑事に挟まれて歩いて行く八木に向って、報道陣の間から、一人の若者が飛び出そうとした。
「よせ!」
その手を、がっしりと押え込んだのは、久野原だった。
「あんた……」
「チューリヒの教会で会ったろう」
富田和彦は、息をついて、
「邪魔しやがって!」
と、にらんだ。
「姉さんの敵討ちか」
「当り前だろ。——散々、オモチャにしやがって!」
「気持は分る。——一緒に来い」
久野原は、和彦を引張って、自分の車へ押し込んだ。
「——八木は、殺人罪だ。一生刑務所さ」
と、久野原は言った。「そんな奴を殺して、どうする」
「だけど……」
「黙ってついて来い」
と、久野原は言った。
「——入れ」
久野原が病室のドアを押すと、中で車《くるま》椅《い》子《す》の女性が振り返った。
「どなた?」
「久野原だ。——お客を連れて来たよ」
両目を包帯でふさがれた美津子は、
「あら……。どなたかしら」
と言った。
和彦が呆《ぼう》然《ぜん》としている。
「両目とも失明したが、命はとり止めたんだ」
久野原が、和彦の肩を叩《たた》いて、「これから、お前がずっと面倒をみるんだぞ」
そう言うと、久野原は病室を出てドアを閉めた。
和子が立っていた。
「帰りに食料を買い出しに」
「分った。付合うよ」
久野原たちが歩き出すと、病室の中から凄《すご》い泣き声が聞こえて来て、廊下中に響き渡ったのだった……。