白い手が虚空をつかんでいた。
細い指、そしてほっそりとした手首は、その女性がデリケートな職業を持っていることを感じさせた。
そう。——ピアニストとか、ヴァイオリニストとか。
いや、むしろ、そういう仕事をしていると、手や指は、がっしりと逞《たくま》しくなるものなのだろうか? ——利《と》根《ね》にはよく分らなかった。利根貞男自身、ピアノといえば小さいころ、家に壊れかけたオモチャのピアノがあって、そのガタガタになった鍵《けん》盤《ばん》をポンポンとでたらめに叩いていた以外、何の縁もなかったのだ。
だが——問題はそんなことじゃなかった。
確かに、一人の女性が地面に這《は》って、救いを求めて手を差しのべていたのである。
「おい!」
と、利根は叫んだ。「大丈夫か!」
夜ふけのことで、周囲には人の姿がなかった。
暗い道は、もう終電も過ぎて、通る人とてなく、それでも、街灯だけはアスファルトの細い路面を照らしている。
この道は、駅から団地へと続いていて、毎朝急ぐと十分ほど、帰りには十五分かけて歩くほどの距離。利根は、終電過ぎに帰宅することも珍しくない。
遅い人はたいていタクシーで直接団地の中まで乗っていく。利根は、同じ方向の同僚の車に同乗させてもらって、駅前で降ろしてもらったので、こうして一人、この道を歩いているのだった。
秋も終りに近いころで、郊外のこの辺りは都心より一段と寒い。もう利根も冬のコートをはおっていた。
そして——早く団地の自分の部屋へ帰りついてホッとしたいと足どりを速めたとき、その声が聞こえて来たのである。
足を止めた。
何だ?——女の声だったようだが……。
周囲を見回しても、あまり意味はなかった。というのは、駅と団地の間は、まだほとんど開発されておらず、この道以外は空地になっているからだ。
駅から来ると、道の左手はずっと造成だけすんで、建物のたっていない土地が並んでいる。
もう一方の右手の方は、金網を張った柵がずっと続いていた。こっちは造成前で、林だった所を、木を全部抜いて平らにならしただけの土地なのである。
たぶん、ちょっとした野球場くらいの広さはあるだろう。——夜は、むろん照明などないので、ただの暗闇でしかない。
そこで声がしたのである。
それとも空耳か?
ためらっていると——。
「ひ……え……」
女の声だ。——何と言っているのか、よく分らなかったが、ともかくかすれた叫び声のようだった。ただごとではない。
「誰かいるのか?」
と言ってみた。
声は、確かに金網の向うから聞こえて来たようだ。
「おい!——いたら、返事しろ」
と、もう少し大きな声で呼ぶと……。
白い手が見えた。
目が暗さに慣れたのか? それにしても、今まで何も見えなかったのに。
女が、地面にうつ伏せに倒れていた。頭を利根のいる方へ向けて、白いコートが広がっている。
「おい! 大丈夫か!」
大丈夫なわけはないが、ともかく何か言わなくては、と思った。
利根の声が届いたらしい。
女は顔を上げた。金網から七、八メートルの距離である。
女が手をのばして、何か言った。
利根には聞き取れない。——「ひ……え」だろうか? よく分らない。
「どうした?」
と、利根は呼びかけた。「待ってろよ」
助けに行こう、と思った。——利根は格別勇敢なわけではないが、目の前で人が助けを求めているのを放って行くほど不人情でもない。
しかし、問題は金網がずっと続いていて、どこにも切れ目がない、ということだった。
柵の高さは二メートル以上ある。
何といっても、何かに使うということのない土地だから、中へ入れないように金網が張ってあるのだ。入口——というか、出入りする所はどこかにあるのだろうが、今、この土地の周りをグルッと一周しようと思ったら大変だ。
ということは、この金網を乗り越えるしか、方法はないわけである。
しかし——そんなことができるか?
利根は、もともとあまり木登りなどとは縁のない暮しをして来た。それに、金網の目は割合に細かくて、手でつかむことはできても、足をかけられるかどうか。
そんなことを考えてためらっている内にも、その女は必死で彼の方へ手をのばしている。
そして——利根は初めて気付いた。
女の体の下に、ゆっくりと広がっていくのは、血だまりに違いなかったのである。
けがをしている!
さすがに、迷っている余裕はない、と利根も思った。
「待ってろよ!」
と声をかけると、目の前の金網に指をかけた。
しかし、映画の中のヒーローのようにはいかない、ということが、利根にも分った。
革靴というのが、大体こういうことに向いていない。それに、靴先を引っかけただけで、手の力でよじ上ろうとしたら、とてもじゃないが、体が持ち上らないのだ。
力を入れると、金網が指に食い込んで、痛くてたまらない。——畜生! どうすりゃいいんだ?
女の声が聞こえる。といっても、それは言葉ではなく、苦しげな息と共に洩《も》れる呻《うめ》き声だった。
血が、白いコートにも広がっていく。
「見てろ!」
一旦、金網から離れて退《さ》がると、利根は、
「ヤッ!」
と、かけ声つきで飛び上りながら、金網につかまった。
あまり高くは飛べなかったが、それでも何とか落っこちずにしがみつき、指の痛さをこらえて必死で体を引張り上げた。
やったぞ! 手が、金網の天《てつ》辺《ぺん》をつかんでいる。——利根は何とか金網の上の枠につかまって、片足を向う側へ出すことができた。
これで思い切り力を入れて飛べば、向う側へ下りられる!
が、待てよ。——一瞬、利根は考えた。
向う側へ下りてしまったら、今度はどうやってあの女を運び出すんだ?
自分一人でも、やっとの思いで乗り越えたこの金網を、彼女をおぶって越えるなんて、できっこない。それに、あの出血では、動かすことなどできないのではないか。
そう思い付いた利根が、一瞬金網の上で考えていると——突然、バアンと弾《はじ》けるような音がして、金網がガーンとショックを受けて揺れた。
「あ——」
と声を上げたときには、利根の体は地面に落っこちていたのだ。
道路の側へ落ちたのだが、幸い、お尻から落ちたので、そうひどくは痛まなかった。
何だ、今のは?
やっとの思いで立ち上ると、遠い闇の中に赤い閃《せん》光《こう》が走り、再びバアンという音と共に、金網とその倒れている女の間の地面でパッと土が弾け飛んだ。
やっと、利根にも分った。——誰かが銃で撃ったのだ。
血の気がひいた。こんなこととは思ってもいなかった。
あの女も、撃たれて倒れているのだろう。犯人は、まだ銃でこっちを狙っているのだ。
すると——また銃声がして、
「アッ!」
と、女が叫んだ。
利根は、女の足に血がふき出すのを見た。女が苦しみ悶《もだ》えて、仰向けになり、撃たれた足を抱え込むようにして呻く。
何てことを!
女がまた手を伸して来た。その手はもう白くはない。自分の血で赤く汚れていた。
——どうしたらいいんだ? 明るい道路にいる利根のことも、向うにはよく見えているに違いないのだ。
助けたくても、この金網を越えようとすれば、こっちが撃たれるかもしれない。
「——待っててくれ!」
と、利根は叫んだ。「誰か呼んでくる! すぐ戻るから——」
と言ったものの、駅まで行かなければ、人はいないだろう。
必死で走って、駅前の交番へ駆け込んで、警官を連れて戻ってくるのに何分かかるだろう? 五分? 十分? その間に、あの女は殺されてしまうかもしれない。
しかし、今の利根には他にどうしてやることもできないのだ。
「すぐ戻ってくるからな!」
と、もう一度大声で言うと、駅の方へ駆け出そうとした。
その瞬間、続けて三発の銃弾が発射された。それは、利根の行手を遮《さえぎ》るように、目の前の道路のアスファルトを削り取って、細かいかけらが利根の顔にまで飛んで来た。
利根は立ちすくんだ。——向うは、わざと道路を撃ったのだ。そうとしか思えない。
利根を行かせたくないのだ。立ちすくむ利根の足下へ、さらに二発の弾丸が飛んで来た。
「ワッ!」
利根を思わずその場で飛びはねた。一発は靴のかかとを削り取っていた。
動けない。——人を呼びに行こうとすれば撃つぞ、と言っているのだ。
冷汗がふき出して来た。膝が震える。
どうしたらいいんだ!
女は、苦しげに地面を這っていた。少しずつ、金網の方へ這い寄ろうとしている。
と、また銃声がして、女は右腕を撃ち抜かれて悲鳴を上げた。コートがたちまち血に染っていく。
もう這って進むこともできない。撃っている人間は、明らかに狙いを定めていた。
出血がひどいせいか、女はほとんど声も上げなくなっていた。
「もうよせ」
と、利根は言った。「もうやめろ!」
だが、声は震えていた。犯人を怒らせて、こっちが撃たれたら、という恐怖心が、利根を縛りつけていた。
女が、ゆっくりと顔を上げた。——もう叫ぶ元気もなかったのかもしれない。声は洩れなかった。
撃たれていない左の手で、女はコートのポケットを探った。そして、何かを取り出すと、その手を精一杯の力で、利根の方へと差しのべた。
だが、とても届く距離ではない。
すると——女は驚くべき気力で、その手にした物を、利根の方へ向けて投げたのである。
それは街灯の光を受けて、キラリと光った。一瞬、利根はハッとした。それが金網に引っかかってしまうかと思ったからだ。
しかし、奇跡的に——と言うしかないが、それは金網を越えて、利根の足下に落ちた。
反射的にかがみ込んで、それを拾っていた。
鎖のついたペンダントだった。それは、たった今まで持っていたあの女の体温なのか、ぬくもりが感じられる。
ペンダントは卵型のもので、花を図案化したような模様が入っていた。それが何の花なのか、確かめるような余裕は利根にはない。急いでポケットへ入れた。
もし、犯人が今の出来事を見ていたら、利根を撃ったかもしれない、と思った。しかし、今度は一発も弾丸は飛んで来なかった。
利根は、金網越しに女を見た。すると女も顔を上げ、利根の方を見たのである。
その顔は、ふしぎな穏やかさに満ちていた。もう苦痛に歪《ゆが》んではいなかった。
出血で、感覚が鈍っているのか? しかし、女の目はしっかりと利根を見ていた。二人の目が合っていたのである。
「受け取ったよ」
と、利根は何度か大きく肯《うなず》いて見せた。「受け取ったよ!」
女にその声が届いただろうか? しかし、女は、利根の声がはっきり分ったという様子で、微笑んだ。
その笑顔は、ほんの一、二秒のものでしかなかったが、忘れがたく利根の目に焼きついた。
そして——女はゆっくりと地面に頭を落とし、そのまま動かなくなった。
じわじわと血だまりが彼女の周囲に広がっていく。そして、コートも、今は半ば以上が血で染っていた。
「——生きてるのか?」
と、声をかけても、何の反応もなかった。
「おい。——何とか言ってくれ。おい!」
女は死んだ。
利根は、直接彼女の手首の脈を取ってみたわけではないが、それでも彼女が死んだと直感的に知っていた。生きている徴候は全く感じられない。
——何てことだ!
目の前で人が死ぬ。しかも、銃弾に倒れて。
こんなことが。——こんなことが、どうして起るんだ?
利根は、しばらくその場に立ちすくんでいた。動けばまた銃撃されるかもしれない。
どうしよう?——どうしよう?
汗がにじんだ。足は地に根を張ったかのように、動こうとしなかった……。