「それで?」
と、説《せつ》子《こ》は息を呑んだ。
「うん……」
利根は、急に言い淀んだ。
「どうしたの? 教えてよ! その人、やっぱり死んだの?」
思わず大きな声を出してしまって、説子はあわてて周囲を見回した。——ここはレストランなのだ。
もちろん、ごく普通のサラリーマン、OLにも気軽に入れる大衆的な店で、周りもにぎやかにおしゃべりしている。聞かれはしなかっただろうが、それでも改めて少し声を小さくして、
「どうなったの? 早く言ってよ」
と、せっついた。
「それがね……」
と、利根は額にしわを寄せて考え込みながら、「結局何時間たってたのか……。その内意識がボーッとし始めて……。緊張のあまりだと思うけど。ハッと気が付くと、もう辺りが少し明るくなりかけてた」
「そんなに長い時間?」
「うん。きっと三、四時間たってたと思うんだ」
と、利根は言った。「そして、金網の向うも、はっきり見えるようになっていた」
「——それで?」
「ところが……」
と、利根は首を振った。「その空地には何もなかった」
「どういうこと?」
「女の死体も、ライフルを持った狙撃者もいなかった。血だまりも、消えていた」
説子は呆《あつ》気《け》に取られていたが、
「——どういうことなの?」
「分らないよ」
と、肩をすくめて、利根はコーヒーを飲んだ。「僕は、足下の道路もよく見た。弾丸が何発も当ってるんだ。その痕《こん》跡《せき》がないわけはない。でも……何もなかった」
「じゃ……その女も幻のように消えちゃったってわけ?」
「まあ……そういうことになるかな」
説子は、少しの間、利根を見つめていたが——。
「ちょっと!」
と、突然、かみつきそうな声を出した。
「何だよ?」
「結局、全部夢でしたってわけ? 冗談じゃないわよ。ハラハラしながら聞いてれば。こっちまで寿命が縮まったじゃない!」
と、やけ気味に自分のコーヒーを飲み干し、「ぬるい! ちょっと! コーヒー、もう一杯!」
「僕だって、『そこでハッと目がさめて、ベッドで寝てたんだ』ってことになりゃどんなに気が楽か」
利根は、ため息をついた。「しかしね、朝までその場所に僕がずっと立ってたのは事実なんだ。おかげで今日は会社を休んじまったけど」
「立って眠ってたんじゃないの?」
「酔っちゃいなかったんだぜ。全くアルコールなんか入ってない。それで、歩きながら居眠りして夢を見るなんてことがあると思うか?」
「そう言われても……。じゃ、何だったって言うの? タヌキに化かされたとでも?」
「タヌキがこんな物を持ってるかね」
利根が上着のポケットから、鎖のついたペンダントを取り出して、テーブルに置いた。
説子は目を丸くして。
「これって……話の中に出て来た?」
「彼女が死ぬ前に投げて寄こした物だ。これがなければ、僕もあのすべてが夢だったかもしれないと思うんだけどね」
説子は、触ると消えてしまうとでもいうように、恐る恐る、それを手に取った。
「——これって、割合古い物ね」
「らしいね。周囲の金色が鈍くなってる」
「これ、ロケットだわ」
説子が小さな突起を見付けて押すと、カチッと音がして、ふたが開いた。
「子供の写真よ」
中には、せいぜい一、二歳と思われる赤ん坊の笑顔の写真があった。モノクロで、いくらかセピアがかった色になっているのは、古いのか、それともわざとそうしてあるのか……。
「僕も見た。たぶん、あの女の子供なんだろう」
と、利根が肯《うなず》く。「でも、名前も何もない。どこの誰やら、調べようもないよ」
「本当ね……。可愛いわ」
「男の子かね?」
「さあ……。こんなに小さいと、どっちとも取れるわ」
と、説子はまじまじと眺めた。「何だか、外国人の子供みたい」
「うん。僕もそう思った。もしかするとハーフかな」
「その女の人は? 確かに日本人?」
「さあ……。そう見えたけどね。髪が黒かったからそう見えたのかもしれない」
「ともかく——返すわ」
気味悪くなって、説子は利根の手にそのペンダントを返した。
「——びっくりさせてごめんよ」
と、利根は笑顔になって、「だけど、こんな話を信じてくれるのは、君ぐらいしかいないんだ」
「分ってるじゃない」
と、麻木説子は、わざとおどけた調子で言った……。
「ねえ」
と、説子は言った。「——ねえ」
返事はなかった。
利根がぐっすりと眠り込んでいるのを知って、説子はあの話が事実だったのだろう、と思った。
明りを落とした部屋に、かすかにコーヒーの香りが残っている。
利根貞男の住む団地の一室は、男の一人暮しにしてはよく片付いていて、毎週、週末にはここへ泊りに来る説子が一応その度に掃除や片付けもするのだが、実際にはそんな必要がないほどである。
説子は、大きく伸びをした。
ベッドの傍の時計へ目をやると、三時を少し回ったところだ。
説子は、眠る前にシャワーを浴びて、ここに置いてあるパジャマを着ることにしている。しかし今夜はもう少し利根のそばで休んでいることにした。
利根は裸のままでぐっすり眠っている。説子は薄手の羽毛ふとんをていねいにかけてやった……。
——麻木説子は二十八歳のOLである。
同じ会社の別の課に勤める利根とこういう仲になって半年ほど。利根が大分年上の三十七歳ということもあって、「あまり目立ちたくない」と言うので、説子も会社の中では一切プライベートな話はしないようにしていた。
同僚でも、説子が利根と付合っていると知っているのは、同じ課で後輩の柳原沙江、一人である。——他の女性たちには知られていない、という自信があった。
といって、説子も独身、利根貞男も独身なのだから、隠す必要性はないようなものだが、むしろ噂になったり、からかわれたりすることで、せっかくの恋に水をさされるのを心配している、というのが利根の気持なのだろう。そういう彼の性格を、説子はよく呑み込んでいた。
こうして週末ごとに利根の部屋へ説子が来て泊る、というのも、申し合せたわけでも何でもなくて、何となく習慣になり、「暗黙の了解」になっていったのである。
結婚、という形に落ちつくのかどうか、説子にもはっきりした見通しがあるわけではないが、今さら急ぐ気にもなれなかった。
それにしても……。
暗い天井を見上げて、説子はゆうべの利根のふしぎな体験を思い出していた。
利根は、そんなことで作り話をするような人間ではない。といって、あれがすべて事実なら、一体何が起ったのだろうか。
今夜は、食事の後、少し飲んでからタクシーで帰って来た。電車がない時間にはなっていなかったから、そんなぜいたくをするのは珍しいことだったのだが、説子は利根がゆうべの「現場」を通りたくないのだろう、と察した。
それほど、利根にとってそれは恐ろしい体験だったのだ。
その気持は、今夜、いつになく利根が我を忘れて説子を激しく愛したことにも感じられた。——少し心配もある。
いつも、きちんと避妊してくれる利根が、今夜はそんなことを忘れてしまっていたのだ。説子は今、妊娠してもおかしくない時期だった。
しかし、そのことで利根を責めようという気にはなれない。彼は「悪い夢」から必死で逃げようとしていたのだ……。
たぶん、利根を苦しめているのは、「恐ろしかった」ことより、「その女を救えなかった」ことの方だろう。
確かに、目の前で、人が一人、徐々に息絶えていくのを見守るのは、決して忘れることのできない体験に違いない……。
けれども、実際には何があったのか? 説子には見当もつかなかった……。
——やっと思い切ってベッドから出ると、説子は裸のまま浴室へと入って行った。
洗面所、トイレと一緒になったユニットバスだが、団地そのものが新しいので、充分に広い。
シャワーの音で利根が起き出てこないように、きちんとドアを閉める。
洗面台の明りをつけると、パッと浴室の中が明るくなった。
お風呂は、洗い場もスペースがゆったりしていて、説子は気に入っている。
もともと、この部屋は三、四人の家族用に作られていて、3LDKの広さ。それが売れ残って、「独身者でも可」という公団の方針変更で、利根が買ったものだ。
もし結婚するとしたら、説子が今一人で住んでいるワンルームマンションを引き払って、ここへ越して来ればいい。収納やクローゼットも、充分にスペースが空いていた。
シャワーを出し、熱さを調節してから、ゆっくりと浴びた。
こうしてさっぱりしないと、説子は眠る気になれない。そこは習慣というものだ。
少し長めにシャワーを浴びていると、お風呂場に湯気がこもって、汗が出て来た。
シャワーを止め、白くくもったガラス戸を開けると——目の前にパンツ一つの利根が立っていて、説子はびっくりして声を上げてしまった。
「——ああ、びっくりした!」
「ごめん」
と、利根が頭をかいて、「何となく目がさめてね」
「起こしちゃった?」
「いや、そういうわけじゃない。僕もシャワーを浴びるよ」
「じゃ、どうぞ」
入れ替りに出て、説子がここに置いてある自分のバスタオルで体を拭《ふ》く。
髪が少し濡れたのを、ドライヤーで乾かしていると——ふと鏡の前の棚に、四角い、小さなタイルのかけらみたいな物がビニール袋に入れて置かれてあるのに気付いた。
髪が乾いたころには、もう利根も出て来て、
「目がさめちゃったよ」
と笑って言った。
「よく眠ってたわ」
「そうだな……。夢も見ないで、ぐっすり寝た。——君のおかげかな」
「あら、珍しいこと言って」
と、バスタオルを体に巻きつけたまま、説子は利根に軽くキスした。「体を早く拭かないと、風邪ひくわよ」
「うん」
利根も自分のバスタオルで体を拭く。
「——ね、これ何?」
と、説子がビニール袋をつまみ上げて訊《き》いた。
「え?——ああ、それか」
と、利根が笑って、「野川のみやげさ」
「野川さんって……この間、帰って来た人でしょ、ドイツから?」
「そう、君はよく人の名前を憶えてるなあ」
と、利根は感心している。
「いやだわ、何よ」
と、説子は照れた。
しかし、事実、説子は人の顔や名前を憶えるのが得意である。仕事でそう仕込まれた、ということもあるが、やはり持って生れた部分が大きいだろう。
「野川卓也さんっていったっけ?」
「うん。大学の同期で……。この十年、ドイツに行ってたんだ」
つい、先週のこと、説子が会社帰りに待ち合せた場所へ行くと、利根と一緒に、少し老け込んだ感じの、やせた男がいた。
それが野川卓也で、急に利根に「会いたい」と連絡して来たのだということだった。
帰国していることさえ知らなかったので、利根もびっくりしたらしいが、もともと少し風変りな所のある人だったということだ。
「会ったときにくれたのさ」
と、利根は言った。「——何だか分るかい?」
「もしかして……。でも、まさか今どき……」
と、説子はそのビニール袋に入った物を目の前にかざして、口ごもった。
「その『まさか』さ」
「〈ベルリンの壁〉?」
「ご名答」
「だって——もう何年たつの、あれがなくなってから!」
「僕も忘れてたよ。帰ってから調べたら、ベルリンの壁が崩れたのが、一九八九年」
「じゃ、もう十年近いのね」
「そう。野川が行ったときは、まだ〈西ドイツ〉だった。もっとも、野川は東ドイツの町にもずいぶん足を運んでたらしいけど」
「それにしても……」
と、説子は首を振った。
ドイツ統一の後、しばらくの間、ドイツ土産は〈ベルリンの壁のかけら〉というのが流行ったものだ。
しかし、実際にはその辺のコンクリートのかけらを拾ってビニールの袋へ入れても、見たところは少しも違わないのだから、果して本物がどれくらいあったのか、誰も知りようがないわけだ。
それにしても、〈壁〉がなくなって十年近くたった今、ドイツ土産にこれを持ってくるというのは珍しい。
「黒い色が塗ってあるのね」
ベルリンの壁には、一杯に色々絵や文字が描いてあった。だから、売る方も、
「本物だよ! ほら、ちゃんと絵が描いてあるだろ!」
と主張したものらしい。
「ま、もちろん本物じゃないとは思うけど、でもくれた当人に、そうは言えないし。ありがとう、って受け取っといた。捨てるわけにもいかないしね」
その一辺四、五センチの四角いコンクリート片は、片面が黒く塗られて、その裏側はコンクリートむき出し。厚みは一センチほどのものだった。
「でも、十年もドイツにいた人のお土産だもの。本物かも」
「だとしても、どうしたらいいのか……。どこかその辺の引出しへ放り込んどいてくれよ」
と、利根は言った。
説子は、洗面台のわきの小さな引出しに、そのビニール袋を入れた。
「さあ、もう一眠りしよう」
「目がさめちゃったんじゃなかったの?」
「でも、まだ寝られそうな気がしてるんだ」
——事実、翌日の休みの土曜日、二人は昼過ぎまでぐっすりと眠り込んでしまったのである。