利根が足を止めた。
その少し手前から黙りがちになっていたので、説子にも見当はついていた。
「——ここね?」
と、できるだけ明るい口調で訊《き》く。
「うん」
——駅へ向かう一本道。
金網の向うには、ただ平らな大地が広がっている。
「何の跡もない。だけど、本当にあったことなんだ」
と、利根が言うと、
「分ってるわ」
と、説子は彼の腕に自分の腕を絡めて、しっかりと身を寄せた。「世の中には色んなことがあるのよ。人間の常識では判断できないことも」
「ありがとう」
と、利根は微笑んだ。
夕方、まだ辺りは充分に明るい。この道も買物に駅前へ出る人、戻ってくる人で、結構人通りが途切れることがなかった。
「ね、今日はもう帰ったら?」
と、説子は言った。
「大丈夫だよ」
「でも……」
土曜日の夜には二人で駅前へ出て夕食をとり、そこで別れて説子は帰る。これがいつものパターンである。
普通はもっと暗くなってから団地を出るのだが、ここを暗い中で通るのはいやだろうと思って、今日は早く出て来た。
「気をつかわせて悪いな」
と、利根は言った。「食事して帰っても、電車を降りて帰る人がいくらもいる。心配ないよ」
「じゃあ……」
却《かえ》って、気をつかい過ぎるのも良くないかもしれない。説子は、できるだけいつも通りにしようと決めた。
二人は駅前に出て、いつもと同じ中華料理店に入る。特別中華が好きというわけでもないのだが、この駅前では、「何とか食べられる店」はここぐらいしかない。
一時間ほどかけて、少しビールを飲み、説子と利根は店を出て駅の改札口へ。
「それじゃ」
と、説子は笑顔で言った。
何か言ってあげたい、と思ったが、却って利根が気にするかという気もして、やめた。
「また月曜日に」
と、説子は手を振って改札口へ。
「気を付けて」
と、利根が声をかける。
説子は振り向くと、
「電話するわ!」
と大きな声で言った。
周りの人が、ちょっと目を丸くするくらいの声だったので、利根はいささか照れた。
——説子の姿が見えなくなると、利根は軽く息をついて、歩き出す。
何も怖いことはない。——そうとも。
今日は時間も早いし、人通りがある。あんなことは起るわけがない。
そう自分へ言い聞かせるのが、怯《おび》えている証拠だろう。
いや、決して怖いわけではない。むしろ、「怖がらないこと」を恐れている、と言ったらいいだろうか。
「——今晩は」
と、女の子の声がして、利根はまさか自分に向けられた言葉とは思わず、そのまま行ってしまおうとした。
「利根さん」
「——え?」
びっくりして振り向く。
セーラー服にコートをはおった女の子がニコニコ笑っている。
「ああ、美奈ちゃんか」
と、利根はホッとして言った。
「どうかしたの?」
と、同じ棟に住む高校二年生の少女は訊いた。
「何が?」
「凄《すご》く怖い顔してたから」
「僕が? そうかな」
と、さりげなく笑って、「仕方ないんだ。人間、中年になると、いつもくたびれてるからね」
「そんなことばっかり言ってる」
弓原美奈は、少し顔をしかめて、「老化は気持からですよ」
このしっかりした少女は、よく利根に「お説教」をしてくれる。それをかしこまって聞くのが、また利根には楽しいのである。
「美奈ちゃん、学校の帰り?」
「クラブがあって」
美奈は、学生鞄の他にスポーツバッグをさげていた。
「大変だね」
「でも、早めにすんだのよ、これでも」
と、美奈は言った。「もうじき文化祭でしょ。発表があるから、練習が長いの」
「そうか。——帰るか、一緒に」
「うん」
はつらつとして、肌のつやが違う。——もちろん、三十七の自分と比べても仕方ないことは分っているが。
「あ、ちょっと待って」
と、美奈は言った。「私、コンビニで買物があるの」
「そうか。じゃ、寄って行こう」
ついでに、なくなりそうな歯ミガキやグラニュー糖を買おう、と思った。
駅前にコンビニができて、夜の十二時近くまで開いている。都心のように二十四時間営業というわけにはいかないが、遅くまで開いている店があるというのは、妙に安心する。
コンビニの中は、若い人で結構混んでいた。
「利根さんも何か買う?」
「うん。じゃ、一緒にするか」
「あ、だめ」
と、美奈は微笑んで、小声になり、「女の子用品、買うから」
いたずらっぽく言われると、照れるより笑ってしまう。
二人は、別々にカゴを持って、棚の間を回った。
弓原美奈の所は、母親と美奈の二人暮しだ。父親とは、三、四年前に離婚したと聞いた。
母親はフリーランスの記者だそうで、出かけるのも帰るのも、時間はまちまち。美奈は自然に何でも自分でやるように育ったらしい。
ふっくらとした丸顔の可愛い子である。体型はやや太めで、足もがっしりと太い。
逞《たくま》しさと、少女らしい色白な肌のなめらかさが、アンバランスで面白かった。
「——説子さんは帰ったの?」
と、急に美奈が訊いた。
「ああ……。今、送ってったところさ」
「じゃ、入れ違ったんだ」
——美奈は、説子が毎週末、泊りに来ていることも知っている。
説子も何度か美奈に会ったことがあって、お互い、どことなく「似たタイプ」と思っているらしかった。
「ねえ」
と、美奈が言った。「説子さんと結婚しないの?」
「さあね。——するかもしれない。しないかもしれない。どうして?」
「私だったら別れてるな。しびれ切らして」
美奈が生理用品の棚へ手を伸す。
その瞬間、利根はハッとした。
ゆうべ、説子を抱いたとき、勢いに任せて、避妊しなかったことを、初めて思い出したのである。
説子は何も言わなかった。むろん分っていたはずだが。
「——どうしたの?」
と、美奈が振り向く。
「何でもない。もうそれで最後?」
「うん、先にレジに並んでる」
美奈がサッサとレジの行列の最後につく。
——説子がもし妊娠したら?
利根は、ふとそう思った。同時に、並んでいる美奈の白い足を見て、あの子もいつか母親になるのだと思ったりもした。
利根は、キズテープがなくなりかけていたのを思い出し、一箱カゴの中へ入れた。
そのとき——。
「金を出せ!」
と、甲《かん》高《だか》い声が店内に響いた。
一瞬の間。——そして、悲鳴が上った。
「金を出せ! 殺すぞ!」
利根は、棚の間から出て、レジで一人の男がナイフを突きつけ、店員に迫っているのを見た。
古びたジャンパーの、中年男だ。手にしたナイフも、どこかで拾ったものかもしれない。
「早く金を出せ!」
男が上ずった声を上げる。そのすぐそばに美奈が呆《ぼう》然《ぜん》として突っ立っていた。
早く逃げろ! そう叫びたかったが、男を刺激してもいけない、と思った。
「何してやがる!」
男は苛《いら》立《だ》って、「こいつを殺すぞ!」
と、いきなり美奈の腕をつかみ、喉《のど》にナイフを突きつけたのだ。
「金を出してやれ」
と、利根は店員へ言った。
店員の方も、大学生だろう、どうしていいか分らず、立ちすくむばかり。
「早くしないと、本当に殺すぞ!」
男が美奈を一方の手で押えつけると、ナイフの刃を押し当てた。美奈の手からカゴが落ちる。
「落ちつけ」
と、利根は言った。「そんなこと、やめとけ。今やめて逃げれば、大したことじゃないぞ」
「余計な口を出すな!」
男が叫ぶ。
——レジの店員が、やっと現金をつかみ出して置いた。
「全部出せ!」
男は、汗を流していた。顔がギラギラと光っている。
レジのカウンターに、クシャクシャの一万円札や五千円札が置かれる。
利根は、青ざめた美奈の目が、救いを求めるように自分の方を向くのを見た。
助けて……。助けて……。
その目はそう言っていた。
あの目。——救いを求めていた、あの女の目と、それはそっくりだった。
利根は自分のカゴを足下へそっと置いた。
男は、カウンターの上の札をつかんで、ポケットへねじ込んだ。美奈の体を押えていた手が外れたのだ。ナイフの刃も、美奈の喉から離れた。
利根は、大股に、真直ぐ男の方へと歩いて行った。
誰もが唖《あ》然《ぜん》としていた。——男は利根に気付いたが、足を止めると思っていたらしい。
「おい——」
と言いかけたときには、もう利根は目の前だった。
利根の拳が男の顎《あご》に向って飛んだ。
男はのけぞって、カウンターの上に突っ伏すように倒れると、そのままズルズルと床へ崩れて、のびてしまった。
——美奈が喉を押えて、
「やったね」
と言った……。
「お母さんに話すんだ」
と、美奈が言った。「利根さんに助けてもらったんだよ、って」
「やめてくれ」
と、利根は言った。
「どうして?」
「無茶なことをした。下手をすれば、君が殺されてたかもしれない」
二人は、団地への道を歩いている。
電車が着いて、帰り道は人が途切れずにつながっていた。
「あれで良かったんだよ。相手が呆《あつ》気《け》にとられてる間に一発!——凄かったなあ」
美奈は呑《のん》気《き》なものだ。
しかし——利根は胸のつかえが消えていないことを感じていた。
美奈を助けても、それがあの女を見殺しにしたことの代りにはならない。
「——どうしたの?」
美奈が振り向いた。
利根が足を止め、金網越しに中の空地を見ていたからだ。
「何かあるの?」
と、戻って来て覗《のぞ》く。
「何か見えるかい?」
「何も」
「そうだろうな……」
「何なの?」
「行こう」
利根は美奈を促した。
「——ね、うちのお母さんのこと、どう思う?」
と、美奈が言い出した。
「何のことだい?」
「お母さんと結婚してみる気、ない?」
利根は、つまずいて転ぶところだった。