4 言 葉
「——利根さん」
と、説子が呼んだ。
会社での昼休み、昼食から戻った利根は、エレベーターの前で説子と出くわしたのである。
「やあ。——ごめんよ」
利根は反射的にそう言っていた。
「何のこと?」
説子はふしぎそうに言った。
「あ、いや……」
「お客様です」
「僕に?」
「下の喫茶で待ってるって」
「分った」
メモを受け取って、利根は肯《うなず》いた。
「すぐ行って下さいね」
説子は、事務服がよく似合った。背筋が真直ぐに伸びて、歯切れよく歩くからかもしれない。
メモを見ると、〈下の喫茶店で、永井様という方がお待ちです。——愛してる!〉
とあって、利根は笑ってしまった。
「永井……」
首をかしげる。誰だろう?
エレベーターで、また一階へ下りて行くことになった。
——利根や説子の勤め先、A商事は、そう大きな会社ではない。この九階建のビルの三階分を使っていて、社員は全部で七十人ほどだ。
利根のいる資料課は一番下の七階。説子は総務課で、八階にいた。一番上の九階は、重役や社長室、そして会議室になっている。
一階へ下りると、利根は階段でもう一つ下り、喫茶へと向った。
昼休みは、女性たちでにぎわう。——奥の方の席から、男が一人立ち上って手を振った。
「——やあ」
利根はびっくりした。
「突然で、悪いな」
背広にネクタイという格好が、いつの間に似合うようになったのか……。
「永井と聞いても、お前とは思わなかったよ!」
利根は、すっかり頭の薄くなった旧友をまじまじと眺めた。
コーヒーが来て、一口飲んでから、
「今、何してるんだ?」
やっと当り前の口をきいた。
「うん。——ここに勤めてる。ま、お役所の下請けみたいなもんだ」
名刺が置かれた。
永井康夫は、大学で利根の一年下だった。今、三十六歳のはずだが、見たところは四十代の半ばにはなっている。体も二回りは太ったろう。
「利根さんは変らないな」
と、永井は言った。
「変りようもないさ」
と、利根は言った。「大体、いつ日本へ帰ったんだ?」
「もう……七、八年かな」
と、タバコを取り出す。
「ああ、ここは禁煙なんだ」
と、急いで言った。
「そうか。やれやれ。肩身が狭いや」
と、永井は苦笑した。
利根は、永井が病気でもしているのかと気になった。肌にも目にも、生気がない。
「そんなに前に戻ってたのか」
「何も連絡しなくてすまん。色々あって、田舎へ帰ってたんだ」
「そうか。じゃ、改めて上京して来たのか」
「うん。三年前に。——結婚して、今は子供もいる」
永井が父親でいるという光景は、想像できなかった。
「利根さんは?」
「僕はまだ独りさ。別に独身で通すつもりじゃないけどね」
「いいな、気楽で」
永井は、何となく落ちつかない様子だった。
「——一度ゆっくり会いたいな。もう仕事が始まっちまう。永井、何か用事があって来たんじゃないのか?」
利根の問いに、永井は少しの間黙ってしまったが、やがて息をつくと、
「実は——ちょっと訊《き》きたいことがあって」
と、口を開いた。「野川さんのことを、何か知らないかと思ってね」
永井は、野川と一緒にドイツへ行っていたのである。
「ああ、野川のことか。ついこの間、会ったけど」
利根の言葉に、永井はサッと青ざめた。
「——会った?」
「うん。突然、会社へ電話して来て。そういえば、お前の話は出なかったな」
「それ……いつのことだ?」
「ええと……もう二週間くらい前かな」
「二週間……。そうか。じゃ、日本にいるんだな」
と、永井は言った。
「知らないのか。ドイツで、ずっと一緒だったのかと思ってた」
「いや、色々あって……。もう長いこと、連絡先も分らないんだ」
「そうか。野川も、今は落ちつかないから、と言ってた。落ちついたら連絡する、って。——野川と何かあったのか」
永井の様子は、どう見ても普通ではなかった。
「うん……。野川さんは……僕を殺すために帰って来たんだ」
永井の言葉に、利根はびっくりして、
「何だって? どういうことなんだ?」
「いいんだ。——邪魔してすまん」
永井は立ち上ると、逃げるように店を出て行った。
利根は呆《あつ》気《け》にとられていた。
人間、何があるにしても、「殺そう」とするほど人を恨むことはあまりない。野川の様子も、確かに少し妙ではあったが……。
利根は、永井の名刺をポケットへ入れると、急いで支払いをすませ、店を出た。——もう午後の仕事は始まっていた。
「——残業?」
珍しく、説子が「恋人」の口調で訊いて来た。
七時になって、ほとんど社内は空になっていたのである。
利根は、一人で資料課に残っていた。
「まだいたのか」
「今夜は会議のお茶出し」
「そうか。——もうすんだの?」
「ええ。会議はまだやってるけど、もう私の仕事は終り」
利根は机の上を見回して、
「これ、一通り片付けて、それから全部コピーして……」
「手伝う?」
「いや、いいよ」
と、利根は首を振って、「このまま帰る!」
説子は嬉しそうに、
「いいの?」
「明日、頑張りゃ大丈夫」
利根は、とりあえず、机の上を片付けると、席を立った。
「じゃ、何か食べて帰りましょ」
「そうしよう」
利根は、上着をつかんだ。
——ビルの正面はもう閉っていて、二人は裏口から外へ出た。
風が冷たい。もう冬が間近である。
「何か鍋でも食べたいわね」
と、説子は言った。
「よし。どこか知ってるかい、いい店?」
「安くていい店、でしょ」
と、説子は笑って言った。
——だが、寒い、となると考えることは誰でも同じで、二人が知っている店は、どこも満席だった。
まさか……こんな店?
予定とはかけ離れた結果になった。
ドイツ料理で知られるレストラン。そう高級店というわけではないが、ソーセージやハムがおいしい。説子が学生のころ、よく来た店だった。
「——懐しいわ」
と、やや薄暗い店内を見回す。
「雰囲気があるね」
「冬向きじゃないかもしれないけど」
と、笑って言う。
「いいさ。冬だからって、いつも同じものを食べてるわけじゃない」
——ほぼ半分の入りで、店内には低くクラシック音楽が流れていた。
そう。これもいいかしら。
説子は、たまにはこんな「デート」らしい場所もいいか、と思った。
メニューを眺めて、自家製というソーセージを中心に、いくつか料理をとった。
白ワインをグラスでもらい、乾杯する。
「——よく眠れる?」
と、説子は訊いた。
「うん。——もう大丈夫だ」
利根は肯《うなず》いて、「忘れてたよ、つい」
「ごめんなさい。思い出させて」
「違うんだ。今日の永井のことで……」
「あのお客様?」
「うん。大学の一年後輩でね」
説子は、利根の話を聞いて、眉《まゆ》をひそめた。
「野川さんって、あの人ね」
「うん。永井と二人でドイツへ行ってたんだ。——しかし、人間、十年もたつと、大きく変るな」
「そうね」
「特に、二十七と三十七じゃ大違いだ。もう若いとは言えないし」
「そんな……」
「君はまだ二十八だ。——僕なんか年寄に見えないか?」
「残念ながら、見えないわ」
と、説子は言ってやった。
前菜にハムの盛り合せが来て、二人は取り分けて食べ始めた。
そこへ、五、六人のグループが入って来て少し離れたテーブルにつく。
「あら、利根さん」
と、一人の女性が立って来て、「この間は……」
「ああ 弓原さん」
美奈の母親である。
「美奈が危いところを助けて下さって、ありがとうございました」
スーツ姿で、きりっとした印象の弓原栄江は、ていねいに頭を下げた。
「いや、別に……。あれはたまたまですよ」
「一度お礼に伺おうと思っていたんですけど、毎日帰宅が遅くて、ここでお目にかかれて良かったわ」
利根が説子のことを紹介すると、
「ああ、美奈がよく話してます」
と、微笑みかけ、名刺を出した。「——じゃ、仕事なので、これで」
テーブルへ戻っていく弓原栄江を見送って、
「あの高校生のお母さん? 若いわね」
と、説子は言った。
「でも、四十にはなってると思うよ」
「あの子を助けたって、何のことなの?」
説子が訊くと、利根はちょっと肩をすくめて、
「あの日の帰りにね……」
と話し始めた。
「——呆《あき》れた! 危いことして!」
と、説子はつい文句を言う。
「そう言うなよ。何だか……今度こそは、助けなきゃ、と思ったんだ」
「気持は分るけど……。気を付けてよ」
説子は、それ以上言わなかった。
きっと、その事件が利根を苦しみから救い出したのだろうと察したからだ。
二人はしばらく黙って食べていたが、
「——どうして急にこんなことになったのかな」
説子は戸惑って、
「何のこと?」
「いや、今まで平和に暮してたのにさ。あの出来事があって、コンビニでの事件があって……。今日は永井があんな話をしに来るし。——偶然かな」
「他に考えようがないでしょ。コンビニの強盗なんか、よくあるわ」
説子は、利根が深刻に考え込むのを心配して、わざと、「何も表彰されなかったの?」
と言ったりした。
「そうだな。変に考え込んでも——」
と言いかけて、利根は食事の手を止めた。
「どうしたの?」
「——これは?」
「え?」
「何の曲だろう」
店内に流れているのは、ややドラマチックな音楽だった。
「オペラね」
少し耳を傾けて、「——ああ! モーツァルトの〈魔笛〉だわ」
「じゃ……ドイツ語かい?」
「そうね。——そう〈魔笛〉はドイツ語でかかれてるわ。どうして?」
「さっき、頭のところで何と歌ってたんだろう?」
「さあ、そこまで知らないけど……」
利根は、レストランのオーナーらしい白髪の女性がテーブルを回って挨《あい》拶《さつ》しているのを見て、
「ドイツの人だね」
「ええ、もう五十年だか日本にいるのよ」
上品な貴婦人だった。
利根と説子のテーブルへ来て、
「お味はいかがですか?」
と、ていねいに訊く。
「ええ、とてもよく味がしみて……」
「すみません」
と、利根が言った。「今流れてるオペラですけど、一番初めに何と叫んだんですか?」
「叫んだ?」
と、少し考えて、「——ああ、〈ヒルフェ!〉ね。日本語の『助けて!』という意味です」
「ヒルフェ……」
「主人公が、竜に追われて逃げてくるんですよ。そこの歌です」
「——ありがとう」
利根は、頬を紅潮させていた。
「どうしたの?」
と、女主人が行ってしまうと、説子は訊いた。
「あの女が、あのとき言ったのは、〈ヒルフェ〉って言葉だ」
「つまり……助けて、ってことね」
「うん。僕の耳には『ひ……え』としか聞こえなかった。でもきっとそうだ」
「ということは、ドイツ語を使ってたってこと?」
「さっき、この歌を聞いててハッとしたんだ。——あの女はドイツ人だったのかな」
「でも……消えてしまったのよ」
「うん……。分ってる」
利根は、しかし何か気分の安らかな様子になった。
——もう忘れて。お願いよ。
説子はそう言いたいのを、何とかこらえた。
何かいやな予感がしていた。
利根が、もっともっと深く、何かに巻き込まれていくような……。
今は、私のことを考えて。
説子は、なぜか直感的にあの夜、利根の子を身ごもった、と感じていた。
むろん、はっきりするのはまだずっと先のことだが、説子はほとんど確信に近いものを持っていた。
「ごめんよ、ぼんやりして」
と、利根が言った。「ただ、ずっと気になってたんだ、あの言葉が。分ってホッとした」
「じゃ、落ちついて食べましょう」
話したかった。——あなたの赤ちゃんができたのよ、と。
しかし、今言っても信じてはもらえまい。
説子は何とか自分を抑えて、
「残り、食べてね。私、この後のソーセージに賭けてるの!」
と、大げさに言ってやった……。