長くは居られなかった。
思いの他、その駅は遠く、またその〈ホーム〉も駅から遠かったのである。
——説子との待ち合せに、少し遅れてしまうかもしれない。
ロビーのソファで待つ間、利根は明るく日の射し込む窓から、芝生をゆっくりと散歩する老人たちを眺めた。
一人で杖をついて歩く者、手を引かれて歩く者、車椅子を押してもらう者……。
どれもゆっくりとした動きで、ここでは時間の流れ方が違っているようだった。
「——どうも」
と、声がして、振り向くと、ガウン姿の老婦人が、一歩ずつ踏みしめるようにしてやって来た。
白髪の、この人が?——記憶の中の顔と、それは一致しなかった。
「あの……野川卓也君のお母様ですか」
と、利根は立ち上って言った。
「そうですが……」
「私は大学で一緒だった利根という者です。ご記憶にないと思いますが」
老婦人の目が見開かれて、
「まあ! 利根さん。利根貞男さんね」
利根はびっくりした。
「憶《おぼ》えていて下さったんですか」
「もちろん! うちでよくご飯を食べて行ったわ」
と、ソファに座って、「何てよく食べる人かと呆《あき》れたもんだわ」
「いや、若かったですから」
利根も、やっとその笑顔に、かつての面影を見出した。
「——主人は亡くなって、私もね、一人でいるのもつまらないし、ここが空いていたんで入ったの。ここで死ぬことになるでしょうね」
七十歳ぐらいだろうか、見た目は老けていても、言葉も表情も若々しいものがあった。
「突然お邪魔してすみません」
「いえいえ。退屈ですもの。お客は大歓迎よ」
「実は——同じ大学で一年下だった永井という男が、ちょっと色々あって、問題を起したんです。姿をくらまして、行方が分らないままでして」
「あの人? 奥さんを撃ち殺したっていう……」
「ご存知でしたか」
「手配の写真を見て、どこかで見たことがあると思ってたの。永井って姓もね」
大したものだ。——利根は舌を巻いた。
「それで、もしかしたら、卓也君が何か知らないかと思って。——確か、一緒にドイツへ行っていたんです」
「卓也が……」
「ええ、卓也君に連絡を取りたいと思ったんですが、居場所が分らなくて。ご存知でしょうか」
ふしぎな表情で、老母は利根を見ていたが、
「ご存知ないのね」
と、静かに言った。「卓也は死にました」
——利根は、いつの間にか自分が、
「いつですか?」
と訊《き》いているのを、ぼんやりと分っていた。
「もう……半年になりますね」
半年。——半年?
利根は笑い出しそうになった。
そんな馬鹿な! 僕はついこの間、野川に会ったんですよ。そしておみやげに、時代遅れの〈ベルリンの壁〉をもらったんですよ!
しかし、何も言わなかった。
「呆《あつ》気《け》なくね、本当に」
と、老いた母親は言った。「そのとき、私も髪がいっぺんに白くなったんですよ」
その白い髪に、柔らかな日射しが当って、まるで雪のように輝いて見えた。
「——遅い!」
説子は目をつり上げていたが、本気で怒っているわけではなかった。
今日、利根がどこへ行ったか、ちゃんと知っていたからだ。
「——会えたの?」
と訊《き》くと、利根は、
「うん」
と肯いた。
「そう。それで、分ったの、野川さんのいる所?」
「いや、分らなかった」
「そう……」
「遅れてすまない。——出かけよう」
もちろん、説子にも異存はない。
日曜日の午後、待ち合せた二人は、結婚式場を捜しに歩くことにしていたのである。
「初めはどこへ行く?」
と、説子は言った。
「君が決めてくれ。地下鉄の乗り方は、君の方が得意だろ」
説子は、実のところ、どこからどこへどう回るか、ちゃんと計画を立てていた。
「じゃ、二時間で五つ回りましょ」
「そんなに回れるのかい?」
「途中、気に入った所があれば、詳しく見せてもらうのよ。予約の状況も聞いてからね」
二人は、まず地下鉄へと向った。
——説子は、利根がどこかふさぎがちなことに気付いていた。
確かに、あの白いコートの女が目の前で射殺されたという奇妙な事件に始まって、旧友が妻を殺して行方をくらます。しかも、その妻の死体を発見したのが利根自身なのだから、気がふさぐのも当然だ。
でも説子は、それ以上のことを考えるにはあまりに幸せだった。
「——私、あなたの部屋へ行けばいい?」
と、地下通路を歩きながら、説子は訊いた。
「うん?——ああ、今夜?」
「違うわよ」
と、説子は笑って、「結婚したら、ってこと!」
「そうか、何だ。——もちろん、あそこで二人は充分暮せる。三人でもね」
「そうね」
説子は微笑んだ。「もう少し待ってね。三人か二人か、分るわ」
利根は、説子の手を握った。
説子は少しびっくりした。人目のある所で、こんな風に手をつなぐなんて、したことがない。
当り前の恋人のような、そんなことが、今の説子には嬉《うれ》しかった。
——式場巡りは、三つめまでは時間通りに運んだ。
四つめの式場は、小規模なホテルだったが、係の女性の感じがいいことと、ちょうどひと月後の週末がキャンセルで空いていたこと。それは魅力的な状況だった。
「式場をごらんになりますか?」
と、係の女性に言われて、説子はためらわず、
「ぜひ」
と肯いていた。
——小さなチャペルだったが、ステンドグラスがきれいで、バージン・ロードに七色の光を落としている。
「とてもすてき」
説子は正面に立って言った。「——どう?」
「うん……」
利根は、小さく肯いて、「悪くないんじゃないか」
「一か月後が空いてるって、それ……巡り合せだわ」
本当は「運命だわ」と言いたかったのだが、少し照れてやめた。
「じゃあ、ここで予約を入れて行こう」
「ええ」
仮の予約、ということで、説子が書類に記入する。
「ちょっと、化粧室を」
と、利根が立ち上った。
「出られて左の奥です」
と、係の女性が言った。「あ、ここへ、ご住所とお電話番号を……」
利根は、化粧室で手を洗い、鏡の中の自分を見つめた。
「おかしくなんかない」
そうだ。——あの母親の記憶違いだろう。
いや、野川は本当は死んでいないのかもしれない。死んだのは別の人間で……。
もし、あの野川が「生きた人間でなかった」としたら、説子もそれを見ているということだ。
そんなことがあるのだろうか。
利根は顔を冷たい水で洗って、ハンカチで拭《ぬぐ》った。
——今は説子が幸せに浸っているのだ。何も言い出さずにおこう。
利根は、化粧室を出た。
目の前に、暗いトンネルがあった。
何だ、これは?
振り返ると、化粧室は消えて、そのトンネルが背後にも続いていた。
ひんやりとした空気が触れる。——地下道だろうか。水の滴り落ちる音が、あちこちからシンコペーションのようにずれて聞こえてくる。
ここは何だろう?
そっと手を触れると、ヌルヌルと泥のような土の層がある。
高さは二メートルくらいか。人が一人なら充分に通れるトンネルである。
明りが、ずっと先の方から射していて、それが利根の足下も照らしていた。
どこへつながってるんだ?——大体、どうして突然こんな所に?
しかし、利根はもうさほど驚かなかった。これも幻なのだ、きっと、幻影なのだ。
ゆっくりと進んでみる。——明りの方へと。
そこには出口か何かがあるはずだ。
足下は水たまりが至る所にあって、どうしても靴の中に水が入ってくる。少しすると諦《あきら》めて、水たまりなど気にしないで歩くことにした。
トンネルはゆるくカーブしていて、先まで見通せない。
しかし、いくら行っても、出口は見えて来ないのだった。
そのとき——背後で叫び声が上った。
振り向くと、トンネルの中を何人もの足音が駆けて来る。
暗いトンネルを必死に駆けてくるのは誰だ?
すると——明りの中に、駆けてくる男女の姿が浮かび上った。
若い金髪の男と、茶色い髪の女。男が女の手を引いて、走ってくる。
その後から、初老の紳士が、孫かと思える小さな子を抱いて駆けてくる。その後に、太った婦人が息を切らし、喘《あえ》ぎながら続く。
どれも外国人——ヨーロッパの人間だろうと利根は思った。見た印象だけにすぎないが。
利根はトンネルの壁へ身を寄せた。——走ってくる人々には、利根の方が存在しないらしく、誰もが利根の目の前を駆け抜けて行った。
その後からも家族らしい男女と子供たち。結局、十四、五人が駆け抜けて行った。
そしてその後から、トンネルの中に響き渡る犬の咆《ほう》哮《こう》。そして足音が近付いて来た。
——軍用犬だ。
激しく吠《ほ》え立てながら、あの人々を追って行く。そして、兵士たち。
機関銃を手にした兵士が十人近く、犬たちの後から駆けて行った。
何ごとだ?——一体これは……。
突然、トンネルの中に銃声が響いた。
悲鳴と子供の泣き声。——機関銃の連続する発射音が、その叫び声を消して行った。
利根は走り出した。
我を忘れて、銃声と叫び声の方へと駆けて行った。