「大丈夫?」
説子の声が、どこか遠くから響いてくる。
大丈夫?——大丈夫?
大丈夫なわけがないだろう! あのトンネルの中で何が起きたか。あのライトの中に浮かび上った光景を、どうして忘れられるものか。
「ね、利根さん。……気分は?」
冷たく、ひんやりとした感覚が額によみがえって、利根は目を開けた。
説子。——危いぞ、逃げなくちゃ。
しかし、そこはあの暗いトンネルではなかった。明るい結婚式場の廊下である。
「立てる?」
冷たいおしぼりを、この式場の女性が持って来てくれたようだ。
「ああ……」
廊下の隅にうずくまるように倒れていたらしい。説子はさぞびっくりしただろう。
「少し、横になる?」
と、利根を支えて、相談室へ連れて行く。
「いや、大丈夫……。すまん。ちょっとめまいがして」
「分ってるわ。このところ忙しかったので」
説子の言葉は、係の女性へのものだった。
「大変ですね。もしご無理でしたら、式場を仮押えだけしておきますから、ご予約は改めて、ということでも」
「そうする?」
と、説子が利根をソファに座らせて訊《き》く。
説子は、ちゃんと予約して行きたいのだ。その気持は分っていた。
「いや、少し休んでれば平気さ」
と、利根は言った。「予約して行こう。その方が、後も楽だ」
説子が嬉《うれ》しそうに、
「そう? そうね。——じゃ、大体は私が書き込むから、あなたはサインだけして。ここで休んでてね」
利根は、説子が机に向って、せっせと必要事項を記入している、その後ろ姿を眺めていた。
——あれは何だったんだ?
トンネルも、軍用犬の咆《ほう》哮《こう》も、機関銃の音も——すべてがあまりにリアルだった。
見たこともない場所、光景を、突如目の前にすることなどあるだろうか?
利根は、トンネルの壁のヌルッとした感触、ひんやりと湿った空気、そして靴を泥の中へ踏み入れた、あの気持悪さも、はっきりと憶《おぼ》えていた。
そして……あの凄《せい》惨《さん》な光景も。
機関銃の音に驚いて、トンネルの先へ駆けて行くと、男たちの笑い声が聞こえた。
そして——利根は、機関銃を構えた兵士たちを見た。
泥と水たまりの中に、さっき利根のそばを駆け抜けて行った人々が倒れていた。血に染って。
老人も子供も、折り重なって血と泥に半ば埋れるようにして、死んでいた。
射殺されたのだ。
何という光景……。それは「悪夢」だった。
しかも——。
呻《うめ》き声が上った。
老人が撃たれるときにかばったのだろう。
老人の下になっていた男の子が苦しげに呻いたのである。
銃弾を逃れたわけではなかっただろうが、まだ息がある。——それを聞いた兵士が、拳銃を抜くと、近付いて行って、引金を引いた。——二度、三度。
「やめろ!」
と、思わず利根は叫んでいた。「やめろ!」
すると——突然兵士たちが利根の方を見たのである。
利根は凍りついた。
まさか! 俺の声が、聞こえたのか?
しかし、兵士たちも戸惑っている様子だった。
利根のいる方へ拳銃を手に近付いてくる。しかし、その目は利根を見ていない。
見えないのだ。——利根はホッとした。
そうとも、これは夢なんだ。夢の中で撃たれて、本当にけがしたりしたら、たまらないものな。
だが、どういう具合か、あの叫び声が、兵士たちの耳に届いたらしい。
兵士が上官らしい男に何か言った。
上官が鋭く命令を下す。——機関銃を手にした兵士が、進み出てくると、銃口を真直ぐ利根の方へ向けて構えた。
やめてくれ! 俺は幻なんだ。いや、お前らの方が幻なんだ!
やめてくれ!
機関銃が火を吹く。——利根は反射的に地面へ身を伏せていた。
同時に——一瞬、正面からはっきりと見たその兵士の顔に、見覚えがあるような気がした。
そして利根は、気を失ってしまったのだ……。
あれは一体何だったのだろう?
「——どうぞ」
若い、事務服姿の女性が冷たいお茶を出してくれる。
「ありがとう」
利根は微笑んで肯《うなず》いた。
その女性のやさしい笑顔が、利根をやっと完全にこの世界へ引き戻した。
冷たいお茶を飲むと、その冷たさが胸からお腹の方へと広がっていく。——それは生きているという感覚だった。
「じゃあ、よろしくお願いします」
と、説子が立ち上った。
「またご連絡を差し上げますので」
と、係の女性はていねいにファイルを閉じて、「——お加減、いかがですか?」
「もう何とも……。ご心配かけました」
利根はゆっくりと立ち上った。
いくらかめまいを覚えたが、すぐに消えていった。
「今、お話し申し上げてたんですけど、ひと月後ということですので、忙しい進行になります」
「招待者とか、まずリストを作らなきゃ」
と、説子は言った。
「ああ、大丈夫。そういうことは君の得意技じゃないか」
「あなたの親《しん》戚《せき》のことまで知らないわよ」
と、説子は言った。「ともかく、正確な人数を出します」
「よろしく。二、三人のプラスマイナスは結構です。そのくらいで人数を。それが第一ですので」
「じゃ、行きましょう」
と、説子に促されて、
「どうも……」
利根は会《え》釈《しやく》して、その式場を後にした。
少し行きかけると、
「お客様!」
と、あのお茶を出してくれた若い女性が追って来た。
「——何でしょう」
「あの……今、お出になるときに、カーペットに足跡が……」
「足跡?」
言われて、利根も初めて気付いた。——外へ出て、ここまで、舗装の上に、黒ずんだ足跡がついている。
「じゃ、おたくのカーペットを汚してしまいましたね」
と、利根は言った。「申しわけない。気付かなくて——」
「いえ、そんなことはいいんです」
と、その女性は首を振って、「どうせ、カーペットは定期的にクリーニングしていますから。ただ——カーペットの足跡が、何だか……血のような気がして、大丈夫かしらと思ったもんですから」
「——それって何なの?」
と、説子は言った。
「分らないよ」
と、利根は首を振った。「ともかく、そういうトンネルの中に、僕はいたんだ」
利根は靴を脱いで、手に取ると、裏を引っくり返して見た。
そこにはもう何もついていない。
「——おかしいわ。カーペットにはっきり跡が残るくらいなら、まだこびりついてるでしょう」
と、説子は言った。
「うん……。何にしても、あの足跡は現実だ」
二人は、喫茶店に入っていた。
もう外は暗くなり始めている。
「私、さっぱり分らない」
と、説子はため息をついた。「もちろん、あなたが正直に話してくれてるのは分ってるのよ。でも……」
利根にも説子の気持はよく分った。
説子は今、長い間、幻だった「結婚」を、現実のものにすることに夢中なのだ。
それに冷水をあびせるように、利根が見た妙な「白昼夢」の話。今、手にしかけている「現実」を逃してしまいそうで、怖いのである。
そうだ。——これは俺一人の胸にしまっておけばいいことなのだ。
「そう心配するなよ」
と、利根は言った。「大丈夫、いくら夢の中で撃たれても、かすり傷一つ負うわけじゃないんだ」
「でも——永井さんの奥さんが……」
「ああ。しかし、真相は分ってないんだからね」
説子に、野川卓也が死んでいるということも話していなかった。言わずにおこう、と利根は思った。
「——ともかく、今は一か月しかない式のことだ」
と、利根は言った。「ゆっくりと相談して決めよう」
「それはいいけど……」
「一晩中かかるな、細かいことまで決めると」
説子は戸惑って、
「一晩中?」
「うん。もちろん、睡眠もとって、ってことだけどね」
説子は、ちょっと笑って、
「あなたのアパートで?」
「いや、こういうことはやはり、華やかな場所で決めなくちゃ。ホテルに泊って、明日はホテルから出社ってのはどうだい?」
「無茶言って!」
と、苦笑している。「化粧品も何も持って来てないわ」
「ホテルの売店で売ってるよ」
「パジャマもないわ」
「着ることないさ」
「馬鹿ね!」
頬《ほお》を赤くして、それでも説子は嬉しそうだった……。