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黒い壁10

时间: 2018-07-30    进入日语论坛
核心提示:10 血 痕「大丈夫?」 説子の声が、どこか遠くから響いてくる。 大丈夫?大丈夫? 大丈夫なわけがないだろう! あのトンネ
(单词翻译:双击或拖选)
 10 血 痕
 
「大丈夫?」
 
 説子の声が、どこか遠くから響いてくる。
 
 大丈夫?——大丈夫?
 
 大丈夫なわけがないだろう! あのトンネルの中で何が起きたか。あのライトの中に浮かび上った光景を、どうして忘れられるものか。
 
「ね、利根さん。……気分は?」
 
 冷たく、ひんやりとした感覚が額によみがえって、利根は目を開けた。
 
 説子。——危いぞ、逃げなくちゃ。
 
 しかし、そこはあの暗いトンネルではなかった。明るい結婚式場の廊下である。
 
「立てる?」
 
 冷たいおしぼりを、この式場の女性が持って来てくれたようだ。
 
「ああ……」
 
 廊下の隅にうずくまるように倒れていたらしい。説子はさぞびっくりしただろう。
 
「少し、横になる?」
 
 と、利根を支えて、相談室へ連れて行く。
 
「いや、大丈夫……。すまん。ちょっとめまいがして」
 
「分ってるわ。このところ忙しかったので」
 
 説子の言葉は、係の女性へのものだった。
 
「大変ですね。もしご無理でしたら、式場を仮押えだけしておきますから、ご予約は改めて、ということでも」
 
「そうする?」
 
 と、説子が利根をソファに座らせて訊《き》く。
 
 説子は、ちゃんと予約して行きたいのだ。その気持は分っていた。
 
「いや、少し休んでれば平気さ」
 
 と、利根は言った。「予約して行こう。その方が、後も楽だ」
 
 説子が嬉《うれ》しそうに、
 
「そう? そうね。——じゃ、大体は私が書き込むから、あなたはサインだけして。ここで休んでてね」
 
 利根は、説子が机に向って、せっせと必要事項を記入している、その後ろ姿を眺めていた。
 
 ——あれは何だったんだ?
 
 トンネルも、軍用犬の咆《ほう》哮《こう》も、機関銃の音も——すべてがあまりにリアルだった。
 
 見たこともない場所、光景を、突如目の前にすることなどあるだろうか?
 
 利根は、トンネルの壁のヌルッとした感触、ひんやりと湿った空気、そして靴を泥の中へ踏み入れた、あの気持悪さも、はっきりと憶《おぼ》えていた。
 
 そして……あの凄《せい》惨《さん》な光景も。
 
 機関銃の音に驚いて、トンネルの先へ駆けて行くと、男たちの笑い声が聞こえた。
 
 そして——利根は、機関銃を構えた兵士たちを見た。
 
 泥と水たまりの中に、さっき利根のそばを駆け抜けて行った人々が倒れていた。血に染って。
 
 老人も子供も、折り重なって血と泥に半ば埋れるようにして、死んでいた。
 
 射殺されたのだ。
 
 何という光景……。それは「悪夢」だった。
 
 しかも——。
 
 呻《うめ》き声が上った。
 
 老人が撃たれるときにかばったのだろう。
 
 老人の下になっていた男の子が苦しげに呻いたのである。
 
 銃弾を逃れたわけではなかっただろうが、まだ息がある。——それを聞いた兵士が、拳銃を抜くと、近付いて行って、引金を引いた。——二度、三度。
 
「やめろ!」
 
 と、思わず利根は叫んでいた。「やめろ!」
 
 すると——突然兵士たちが利根の方を見たのである。
 
 利根は凍りついた。
 
 まさか! 俺の声が、聞こえたのか?
 
 しかし、兵士たちも戸惑っている様子だった。
 
 利根のいる方へ拳銃を手に近付いてくる。しかし、その目は利根を見ていない。
 
 見えないのだ。——利根はホッとした。
 
 そうとも、これは夢なんだ。夢の中で撃たれて、本当にけがしたりしたら、たまらないものな。
 
 だが、どういう具合か、あの叫び声が、兵士たちの耳に届いたらしい。
 
 兵士が上官らしい男に何か言った。
 
 上官が鋭く命令を下す。——機関銃を手にした兵士が、進み出てくると、銃口を真直ぐ利根の方へ向けて構えた。
 
 やめてくれ! 俺は幻なんだ。いや、お前らの方が幻なんだ!
 
 やめてくれ!
 
 機関銃が火を吹く。——利根は反射的に地面へ身を伏せていた。
 
 同時に——一瞬、正面からはっきりと見たその兵士の顔に、見覚えがあるような気がした。
 
 そして利根は、気を失ってしまったのだ……。
 
 あれは一体何だったのだろう?
 
「——どうぞ」
 
 若い、事務服姿の女性が冷たいお茶を出してくれる。
 
「ありがとう」
 
 利根は微笑んで肯《うなず》いた。
 
 その女性のやさしい笑顔が、利根をやっと完全にこの世界へ引き戻した。
 
 冷たいお茶を飲むと、その冷たさが胸からお腹の方へと広がっていく。——それは生きているという感覚だった。
 
「じゃあ、よろしくお願いします」
 
 と、説子が立ち上った。
 
「またご連絡を差し上げますので」
 
 と、係の女性はていねいにファイルを閉じて、「——お加減、いかがですか?」
 
「もう何とも……。ご心配かけました」
 
 利根はゆっくりと立ち上った。
 
 いくらかめまいを覚えたが、すぐに消えていった。
 
「今、お話し申し上げてたんですけど、ひと月後ということですので、忙しい進行になります」
 
「招待者とか、まずリストを作らなきゃ」
 
 と、説子は言った。
 
「ああ、大丈夫。そういうことは君の得意技じゃないか」
 
「あなたの親《しん》戚《せき》のことまで知らないわよ」
 
 と、説子は言った。「ともかく、正確な人数を出します」
 
「よろしく。二、三人のプラスマイナスは結構です。そのくらいで人数を。それが第一ですので」
 
「じゃ、行きましょう」
 
 と、説子に促されて、
 
「どうも……」
 
 利根は会《え》釈《しやく》して、その式場を後にした。
 
 少し行きかけると、
 
「お客様!」
 
 と、あのお茶を出してくれた若い女性が追って来た。
 
「——何でしょう」
 
「あの……今、お出になるときに、カーペットに足跡が……」
 
「足跡?」
 
 言われて、利根も初めて気付いた。——外へ出て、ここまで、舗装の上に、黒ずんだ足跡がついている。
 
「じゃ、おたくのカーペットを汚してしまいましたね」
 
 と、利根は言った。「申しわけない。気付かなくて——」
 
「いえ、そんなことはいいんです」
 
 と、その女性は首を振って、「どうせ、カーペットは定期的にクリーニングしていますから。ただ——カーペットの足跡が、何だか……血のような気がして、大丈夫かしらと思ったもんですから」
 
 
 
「——それって何なの?」
 
 と、説子は言った。
 
「分らないよ」
 
 と、利根は首を振った。「ともかく、そういうトンネルの中に、僕はいたんだ」
 
 利根は靴を脱いで、手に取ると、裏を引っくり返して見た。
 
 そこにはもう何もついていない。
 
「——おかしいわ。カーペットにはっきり跡が残るくらいなら、まだこびりついてるでしょう」
 
 と、説子は言った。
 
「うん……。何にしても、あの足跡は現実だ」
 
 二人は、喫茶店に入っていた。
 
 もう外は暗くなり始めている。
 
「私、さっぱり分らない」
 
 と、説子はため息をついた。「もちろん、あなたが正直に話してくれてるのは分ってるのよ。でも……」
 
 利根にも説子の気持はよく分った。
 
 説子は今、長い間、幻だった「結婚」を、現実のものにすることに夢中なのだ。
 
 それに冷水をあびせるように、利根が見た妙な「白昼夢」の話。今、手にしかけている「現実」を逃してしまいそうで、怖いのである。
 
 そうだ。——これは俺一人の胸にしまっておけばいいことなのだ。
 
「そう心配するなよ」
 
 と、利根は言った。「大丈夫、いくら夢の中で撃たれても、かすり傷一つ負うわけじゃないんだ」
 
「でも——永井さんの奥さんが……」
 
「ああ。しかし、真相は分ってないんだからね」
 
 説子に、野川卓也が死んでいるということも話していなかった。言わずにおこう、と利根は思った。
 
「——ともかく、今は一か月しかない式のことだ」
 
 と、利根は言った。「ゆっくりと相談して決めよう」
 
「それはいいけど……」
 
「一晩中かかるな、細かいことまで決めると」
 
 説子は戸惑って、
 
「一晩中?」
 
「うん。もちろん、睡眠もとって、ってことだけどね」
 
 説子は、ちょっと笑って、
 
「あなたのアパートで?」
 
「いや、こういうことはやはり、華やかな場所で決めなくちゃ。ホテルに泊って、明日はホテルから出社ってのはどうだい?」
 
「無茶言って!」
 
 と、苦笑している。「化粧品も何も持って来てないわ」
 
「ホテルの売店で売ってるよ」
 
「パジャマもないわ」
 
「着ることないさ」
 
「馬鹿ね!」
 
 頬《ほお》を赤くして、それでも説子は嬉しそうだった……。
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