「ごめんね、遅れて」
「いいよ、中をぶらついて待ってる」
と、弓原美奈は言った。
「できるだけ急いで行くから」
風井咲子はそう言って、電話を切った。
咲子と、この日曜日の夕方、美奈は待ち合せて何か食べて帰ることにしていた。
約束の時間を、十分ほど過ぎて、おかしいな、と思い始めたとき、美奈の携帯電話が鳴ったのである。
咲子は、母親の用事で出かけていたのだが、意外に手間どって、三十分近く遅れそうといって来た。
美奈は別に急いでいるわけでもなかったので、二人で待ち合せた広場に面したスーパーマーケットの、小物売場で待っていることにしたのだった。
——店内は、そろそろ夕食の買物の客は減り始めて、少し空《す》いていた。
美奈はスーパーの二階へ上って、文房具やキャラクターグッズの並んでいる棚に見入った。
可愛い小物を見付けて買うのが、美奈の楽しみの一つだ。
ゆっくりと棚の一つ一つを眺めて行く。
棚の端を回ろうとして、向うから来た子とぶつかりそうになった。
「あ、ごめんなさい」
と言って——相手が外国人らしいと気付く。
男の子だ。髪は茶色で、顔立ちは西洋人。身長は美奈と同じくらいあるが、年齢はずっと下だろう。ヒョロリと足が長く、まだ男の子らしいがっしりしたところがない。
たぶん十四歳か——もっと下かもしれない。
ぶつかりかけて、謝った美奈は、その少年がじっと自分を見つめるのを見て、
「ごめんなさい……」
と、ゆっくり言った。
日本語が分っていないのか、と思ったのである。
その目は青かった。澄んで、ふしぎな透明さをたたえていた。
そして、美奈を見つめる視線は、どこか冷たく、ゾッとするようなものを持っていた……。
「何でもないよ」
と、その少年は言って、パッと美奈のわきをすり抜けて行ってしまった。
「——何だ」
と、思わず呟《つぶや》く。「日本語、しゃべれるんじゃない」
美奈は肩をすくめて、また棚を眺めて行った。
十分ほどたっただろうか。突然、
「泥棒!」
という叫び声が上った。「おい! 待て!」
エプロンをつけてレジを打っていた中年のおじさんが、カウンターから飛びだして、
「泥棒だ!」
と大声で言いながら追いかけて行く。
美奈は、ちょうどレジを見る位置に来ていたので、その声に振り向いた。
そして——レジの係が追いかけている「泥棒」が、さっきぶつかりかけた少年だと知って目をみはった。
たぶん、前の客が支払いしているときに、レジの中の金をわしづかみにして逃げたのだろう。
少年は、二階から下りる階段を飛ぶような勢いで駆け下りて行く。
美奈は思わずその階段の方へ近寄っていた。
少年は、階段の踊り場で足を滑らした。
アッという間もなく、階段を下まで転り落ちる。硬貨が散らばって、音をたてた。
「捕まえてくれ!」
と、追っかけるレジ係が怒鳴っても、客にはとても無理なことで、店の人間が気付いて駆けて来たときには、少年はもう外へ飛び出していた。
美奈は、少年があんなにひどい落ち方をして、けがしなかったかしら、と思った。
もちろん、自分がお金を盗んで逃げようとしたのだから、自分のせいなのだが、それでもあの細くてきゃしゃな体つきと、あの目を思い出すと、ふしぎと責める気になれないのだった。
「——大丈夫。全部落として行きやがった」
レジの係がお金を拾い集めて、「ざま見ろだ! たちの悪いガキなんだから」
息を切らしながら、レジの係のおじさんが二階へ戻ってくる。
美奈は、小さなクリップをいくつか手にしてレジへ出すと、
「——今の男の子、知ってるんですか」
と言った。
「え? ああ、あいつかい。——二百十円。うん、何しろこの辺でよく万引きやるんだ」
「万引き?」
「そう。どの店でも用心してるよ。目立つだろ。あんな風だからな」
「じゃ、今日みたいにお金をとって行くなんて——」
「うん。ありゃ初めてだ」
と肯《うなず》いて、「びっくりした。だけど、全部落として行った。悪いことはできねえよ」
美奈はお金を払って、
「どこの子なの?」
「さあね。——たいてい、この裏の公園で寝てるって話だよ」
「公園で……」
美奈が、おつりを財布へしまって、階段を下りて行くと、
「ごめん!」
と、咲子が手を振ってスーパーへ入って来るのが見えた。
「やめとけば?」
と、咲子は美奈の手を引張った。
「せっかくここまで来て?」
「だって……一人じゃないかもしれないよ」
美奈は、人《ひと》気《け》のなくなった公園の前に立つと、
「咲子、ここにいて」
「でも……」
「何かあったら、逃げてね。私を助けようなんてしないで」
「もう!——美奈のひねくれ屋!」
と、咲子はむくれて、「一緒に行きゃいいんでしょ!」
美奈は笑いをかみ殺した。
小さな公園の中で、捜すのに時間はかからなかった。
植込みの向うに動く気配があって、
「そこにいるの?」
と、美奈が声をかけると、あの少年が植込みのわきから顔を出した。
「やっぱりいたね」
と、美奈は微笑んで、「憶《おぼ》えてる? さっきスーパーで……」
「何だよ」
と、少年は美奈を見上げた。
「うん。これ……」
と、紙袋を出して、「ハンバーガーと、紙パックの紅茶。ハンバーガー、まだあったかいよ」
少年は、しばらく美奈を見ていたが、
「置いてけよ」
と言った。
「うん。じゃ……。ここに置くね」
地面に置くのも何だかいやで、ベンチの上にのせる。
「待てよ」
と、少年は息をついて、「持って来てくれよ。足が痛くて……」
「さっき、階段から落ちたせい?」
「うん……」
はい、と紙袋を渡すと、
「じゃあ、これで——。足のけが、ひどいようなら、お医者に診せた方がいいよ」
食べるところを見られたくないだろうと思って、美奈は、ちょっと手を振って、そのまま公園を出た。
「——ああ、ドキドキした」
と、咲子はホッとした様子で、「物好きね、美奈も」
「でも……」
と、歩きながら不安げで、「足、かなり痛そうだったね」
「放っときなよ。自分のせいじゃない」
「そりゃそうだけど……」
正直、美奈一人ならもっとあの少年のそばにいただろうが、今は咲子がいる。
美奈は、咲子が慎重な性格で、たいていのことは親に報告してしまうことも分っていたので、これで切り上げることにしたのである。
「——でも、あの男の子、結構可愛かったよね」
その咲子が、バスを待っている間に、そんなことを言い出した。
「咲子。本心?」
「うん。私、顔は好み。もちろん、泥棒じゃいやだけど」
咲子は面食いである。
「でも、年下でしょ」
「たぶん、十三、四だね、あれ」
「あれ、ってことないでしょ」
美奈は、バスが来るのを見て、「——咲子」
「何よ。いやよ、あんな所に戻るの」
「はいはい」
バスが停って、扉が開いた。
「けがしてれば、子犬だって放っておけないよね」
と、咲子は言った。
二人は、小走りに、あの公園へと戻って行った。
風に空の紙袋が飛んで行く。
しかし、少年の姿はなかった。
「何だ。歩けたんじゃない」
と、咲子が肩をすくめて、「心配して損しちゃった」
「そうだね」
夜になると、風は冷たい。——寝るのはどこか他の場所なのだろう。
美奈たちが、公園を出て歩き出そうとすると、
「君たち」
呼ばれて、びっくりして振り返る。
大柄な、がっしりした体つきの男が立っている。——日本人ではない、頭はほとんど禿《は》げていたが、耳の辺りに残った毛は白く光っていた。
「この辺で、十二、三歳の男の子、見なかった?」
達者な日本語である。発音が固くて、巻き舌になるところは、ドイツ人かと美奈には思えた。
美奈は、この男が何者か分らないので、どう答えるか迷ったが、先に咲子の方が、
「私たちも捜しに来たの」
と言ってしまった。
「ほう。——すると、ここにいたことがあるんだね?」
「前はいたんです」
と、美奈は急いで言った。「でも、どこかへ行っちゃったみたい」
「前、とはいつごろ?」
と、男が訊く、
「ええと……二、三週間かな。ね?」
と、咲子の方を見る。
咲子は呆《あつ》気《け》にとられつつ、
「たぶん、それくらいね」
と、同調した。
「そうか。君らは、その子にどんな用事で?」
「この前、足をけがしてたんで、どうしたかな、と思って」
美奈は、「あなたは、あの子の……お父さん……じゃないですよね」
と見上げる。
「父親じゃないが、父親に頼まれて捜している」
と、男は言った。「もし、その子を見かけたら、ここへ電話してくれないか」 男が名刺を出した。
カタカナで、〈オットー〉とだけある。
「オットーさん」
「そうだ。〈お父さん〉と憶えてくれ」
男は笑って、「ちゃんとお礼はするよ、知らせてくれたらね」
「分りました」
と、美奈は言った。「あの子、どこの国の子?」
「もちろんドイツ人だ」
と、男は、何を今さらという表情で、「私もね」
男が、コートのポケットに手を入れて立ち去る。
美奈は、咲子と顔を見合せて、
「あの人、変だよ」
と言った。
「もう、美奈の言うことにはついて行けない!」
「そう怒らないの」
と、美奈は親友の肩を叩いて、「あのオットーって人、拳銃を持ってた」
咲子は、それを聞いて真青になった……。