説子は目をさました。
——今のは? 夢の中だろうか。
いや、それは妙だ。何の夢も見ていなかったのに、聞いたりするだろうか?——女の悲鳴を。
「ね、利根さん」
と、小声で呼ぶ。「——利根さん。起きて」
しかし、利根はツインベッドの一つで、寝返りを打っただけだった。
仕方ない。——無理に起すのも気がすすまず、説子はベッドから出て、バスローブをはおった。
二人で、夕食をとってこのホテルへチェックインして……。
「明日、休んじまおうか」
と、利根が言うほど、クタクタになるまで愛し合った。
そのせいで、ぐっすり眠っている利根に文句を言っても……。
時計へ目をやると、午前四時になっていた。
今のは本当に悲鳴だったろうか?
説子は、ドアへ近付くと、覗《のぞ》き窓《まど》から廊下を見た。
誰もいないし、誰一人駆けつけても来ない。
じっと耳を澄ましても、何も聞こえない。
やはり気のせいか……。
説子は、バスルームへ行って顔を洗った。——眠気はいくらかさめたが、十分もすれば眠ってしまうだろうと思えた。
タオルで顔を拭《ぬぐ》い、ベッドへ戻ろうとして……説子はもう一度ドアへ寄って、廊下を覗き見た。
何ごともない。——平穏無事である。
説子がドアから離れようとしたとき、隣室のドアが開いた。
もう一度目をつける。
男が一人、黒いコートをはおって出て来た。そして、説子の見る前を通り過ぎて、エレベーターの方へと消えた。
それだけだ。——それだけ。
気にはなったが、通報するには根拠が乏しい。
説子は、ベツドへ戻って目を閉じた。
今は、厄介なことを少しでも遠ざけたいのだ。何も、わざわざ、もめごとの種を自分でまくことはない。
——寝よう。
ギュッと目をつぶって、説子は眠ろうとした。
あの悲鳴も、目の前を通って行った男も、全部夢の中のことだ……。
そう。——いつしか、説子は再び眠りに落ちて行った。
「——毎朝、こんな朝食だといいね」
と、利根は上機嫌で、ビュッフェスタイルの朝食をたっぷりと皿にとって食べていた。
「家でこんなもの、作れないわよ」
と、説子は笑った。
「まだ早い。こんなにのんびり食べてられるなんてな」
「そりゃ、会社まで十分だもの」
「いいな、実に」
「私も、今朝はお腹が空いて。——取ってくるわ」
説子は、ゆで卵、スクランブルエッグから、ベーコン、ハムなどをどんどん皿へ取った。
そして——ふと説子の目はフロントの方へ向いた。
警官が数人、急いでフロントへ駆けつけ、そして案内されてエレベーターへ……。
まさか……。
テーブルへ戻ると、
「ああ、もう満腹だ」
と、利根が言った。
「ね、フロントに……」
「うん?」
振り向いて、「警官がいるね」
説子は少し迷って、
「——さ、早く食べましょ。ここから遅刻したら、みっともないわよ」
と言った。
もちろん、あれがゆうべの悲鳴と同じことだとは限らないわけだ。全く別の事件かもしれない。
無理に自分自身へそう言い聞かせて、説子は忘れようとした。
耳の底で、いつの間にか悲鳴を打ち消す、別の音を捜していたのかもしれない。
「——君は?」
フロントで、山代弥生は問われて、
「呼ばれて来ました。あの……本当に——」
「君の名前は?」
と、刑事が言っていた。
「山代弥生です」
「大学生?」
「S大文学部です」
「学生証を」
山代弥生は、バッグから学生証を取り出して刑事へ渡した。手が震えている。
「——はい。それじゃ、こっちへ」
学生証を返すと、刑事は弥生を連れてエレベーターへと向った。
山代弥生は、大学へ行く仕度をして、家を出ようとしたとき、電話が入ったのである。
Kホテル。——木浜和子という子を知っているか。
親友の名が出て、弥生はびっくりした。
呼ばれて駆けつけたのだが、信じられなかった。誰か、他の子の間違いだ、と思いたかった。
エレベーターの中で、
「友だちかね」
と、刑事が訊《き》いた。
「はい。でも……」
「辛《つら》いだろうが、ともかく見てくれ」
「本当に……和子ですか」
と、弥生は言った。
「さあ。それを君に見てもらうんだ」
エレベーターが停り、扉が開く。
「僕は国原」
と、刑事が言った。「五十歳だ。君のお父さんくらいか」
「父は——五十二です」
「同じ世代だな」
廊下に人が大勢いた。国原という刑事は、五十にしては若く見えた。
「どいてくれ。——中は?」
「今、検死官が」
「そうか。身《み》許《もと》の確認だ」
弥生は、逃げ出したかった。
——木浜和子は、同じS大の二年生で、大学の中では一番の仲良しである。
弥生が呼ばれたのは、和子が上京して一人住いをしているからだ。その手帳のトップに、弥生の名前があったのである。
「入って」
と、国原が手招きする。
こわごわ中へ入ると、ダブルベッドが目に入った。——シーツはしわになっているが、そこには何もなかった。
「——木浜和子さんの物?」
テーブルの上のバッグや財布、そして教科書……。
「そうです」
弥生の声がかすれている。
「現場はバスルームだ」
と、国原が言った。「君には気の毒だが、まず被害者がはっきりしないと、何もできないのでね」
弥生は青ざめた顔で肯《うなず》いた。
「来てくれ」
国原に促されて、弥生は震える足でバスルームの中へ入って行った。
写真のフラッシュが光る。——バスタブの傍らに、膝《ひざ》をついていた男が振り返った。
「国原君。こいつはプロの手口だ。刃物を扱い慣れてるよ。鮮やかなもんだ」
「検死官。——被害者の友人です」
「ああ、そうか。まあ……仕方ない。見てくれ」
弥生は前へ押し出されるようにして、バスタブの手前まで行った。
目をそろそろと上げる。
和子……。
「友だちかね」
と、国原が言った。「肯くだけでいい」
弥生は肯いた。
「分った。ありがとう」
弥生は支えられてバスルームを出ると、そこで緊張の糸がプツンと切れて、失神してしまった。
「——大丈夫か」
冷たいおしぼりが額にのせられて、弥生はソファに寝かされていた。
「ここは、別の部屋だ」
国原刑事がそばに椅子を持って来て座っていた。
「私……気絶したんですね」
「当然だ。無理をさせて、すまなかったね」
弥生は、大きく息を吐いて、
「和子……苦しまなかったでしょうか」
と訊いた。
「喉《のど》を切られて、一瞬の出血のショックで亡くなったろう。苦しみは長くなかったと思う」
「そうですか……。でも、むごい……」
弥生は涙を拭《ぬぐ》った。
「犯人は、どうやら外国人らしい」
「え?」
「金髪の男性、という証言がある。印象としては、ややいかつい、ドイツ風の顔だということだ」
弥生は、ゆっくりと起きて、
「和子は……仕送りが止ってたんです」
「家からの?」
「不況で、送れないと言って来たって。困ってました」
「いつのことだね?」
「二年生になったばかりのころです」
「それで——」
「アルバイトを捜してました。でも、その内、ずいぶん洒《しや》落《れ》た服も着たりするようになって……。本人は、『また父の所がうまく行ってるの』と言っていましたが、みんな分ってました」
「つまり、男と……」
「他に考えられません。どんどん持っている物もブランド品になって」
弥生はため息をついて、「私が、もっときつく言って、やめさせれば良かった……」
「子供じゃない。仕方ないさ」
国原は言った。「そうなると厄介だな。特定の恋人じゃないというわけだ」
「そうです」
「彼女が——男を見付けるのは、何かそういうクラブなどに入ってのことかね?」
「分りません。訊いたこともないし、訊いてもしゃべらなかったでしょう」
弥生はそう言って、「ご両親には……」
「今、こっちへ向っておられる」
「そうですか」
「君の持物だ。これで全部かな?」
と、国原が言った。「持っていたものが、倒れたときにあちこち飛んでいってしまってね」
「すみません!」
弥生はタオルで顔を拭った。
ドアをノックする音。
国原がすぐに立って行き、ドアを細く開けて何か話していたが、
「山代弥生君」
「はい……」
「協力ありがとう。君はもう気分が良くなったら帰っていいよ」
「分りました」
「何か、思い出したことでもあれば、ここへ電話を」
と、国原刑事は名刺を渡し、「じゃ、僕はちょっと失礼する」
「どうも……」
弥生は、一人になると、テーブルの上の物をバッグへ戻した。
そして弥生の手が止った。
「これ……私のものじゃないわ」
弥生は呟《つぶや》いて、それを手にしてじっと見つめていた……。