「マルティン! おはよう」
弓原栄江は、明るく言って手を振った。
「遅れてすみません」
マルティンは、小走りにやって来た。
「二、三分よ。大丈夫」
栄江は、ビルのロビーを見回すと、「あそこに座っていましょう。相手がみえれば、すぐ分るわ」
「そうですね」
二人は、ロビーのソファに腰をおろした。
「——感じはどうです?」
と、マルティンが言った。
「え?」
「向うの出方。電話での感じは?」
「ああ。『感触』ってことね。悪くないわ。翻訳がいいの。私も感心した」
「それは珍しい。弓原さんがそうほめるのはめったにない」
「そうね。本当に今はまともな文章になってない翻訳がいくらもあるわ」
と、栄江は言って、「——あら、マルティン。けがしたの?」
「いえ、どうして?」
「髪の毛の……この耳の後ろの所。血じゃない、それ?」
「そうかな……」
と、指で探り、「あ、いてて……。できものを潰《つぶ》したんです」
「消毒した方がいいわ」
「ちょっと、洗面所で洗って来ます」
マルティンは立ち上って、ロビーの奥の化粧室へ入って行った。
鏡の前で、ペーパータオルを濡らし、耳の後ろの血のこびりついた所をこすって落とした。
マルティンは、さらに冷たい水で顔を洗った。
そしてペーパータオルを抜いて顔を拭《ぬぐ》うと、鏡の中に、大柄な男を見た。
「オットー……」
と、マルティンは呟《つぶや》くように言った……。
「——利根さん。お電話です」
と言われて、コピーの所にいた利根は、
「ありがとう」
と、机に戻った。「——はい、利根でございます」
「今日は。私、美奈です」
「ああ、美奈ちゃんか」
利根は椅子にかけて、「どうしたんだい、会社へ」
「ご迷惑?」
「いや、そうじゃないけど……」
「ゆうべ、帰って来なかったわね」
利根は詰って、
「うん……。ちょっと用事で——」
「いいの。そのことは」
と、美奈は言った。「別に、利根さんが何してようと、私がとやかく言うことじゃないし」
「美奈ちゃん……」
そばには誰もいなかった。
「利根さん、私——」
「待ってくれ」
と、遮って、「僕はね、説子君と結婚する。昨日、式場も予約したし」
「いつ?」
「ひと月後だよ」
美奈は少しの間黙った。
「——もしもし? 美奈ちゃん?」
「はい」
「だからね——」
「分ってる。私は子供だし。でも、あと何年かしたら、私も大人になるのよ」
「それは分ってるけど……」
「そんなことで電話したんじゃないの」
と、早口になって、「ね、どこか近くの病院を紹介して」
「病院?」
「ええ。どこか知らない?」
「君……。美奈ちゃん、まさか……」
と口ごもると、
「——いやだ! 何考えてるの?」
と、美奈は怒っている。「けがしてる子がいるの。男の子で、足を骨折してるんじゃないかと思うんだけど」
「誰なんだい、それ?」
「万引き」
「ええ?」
「お金盗って逃げようとして、階段から転り落ちたの」
利根はわけが分らず、キョトンとしているばかりだった。
「もう少しで、足を切断しなきゃいけないところだったよ」
と、医師が言った。「何とか間に合ったがね」
「ありがとうございました」
と、美奈は頭を下げた。
「ただ、大分傷口が大きい。当分は痛んで起きられないだろう」
「分りました」
美奈はホッと息をついた。
朝、遅刻してまで、あの少年を病院へ連れて来て良かった。——足の切断。
でも……。あいつは何も言わない。
美奈は、今朝どうしても気になって、あの公園へ寄ってみた。
そこでベンチに横になっている少年を見つけたのだ。
少年は苦しげに呻《うめ》いて、ひどい熱だった。
美奈は迷った後、利根の所へ電話したのである。
少年——カールという名だそうだが、少年からそれ以上の話を聞くこともできず、緊急の手術になった。
身許引受人は、利根がなってくれた。
美奈は、学校を完全にサボるのもいやで、医師に任せて学校へ遅れて行った。
そして帰りに寄って、手術が無事にすんだと聞かされたところである。
——病室へはまだ戻らず、集中治療室で一日二日は過した方がいいということ。
美奈は、ガラス越しにあの少年カールが額にたてじわを刻んでいるところを見ると、何だか少しホッとした。
あの子の本当のことを聞く日はいつか来るだろうか。
美奈は、そっと、
「また明日ね」
と言って、窓を離れた。
「——利根さん?」
と声をかけられて、
「はあ」
利根は、会社を出るところで、この後、説子と待ち合せている。
「国原といいます」
「刑事さん?」
「ゆうべのKホテルでの事件、ご存知ですね」
利根は肯《うなず》いて、
「TVのニュースで見ました」
「女子大生が殺されたんです」
「気の毒でした」
「ゆうべ——Kホテルに泊っておいででしたね」
「ええ」
住所と名前、勤務先まで書いて来ているから、当然分るわけだ。
「事件の現場は、お隣の部屋だったんです」
利根も、それは知らなかった。
「本当ですか!」
「それで、何か変ったことに気付かなかったかと思いまして」
「さあ……」
利根は当惑した。
「むろん、あなたを疑うとか、そんなことじゃありません」
と、国原は言った。「それなら、あんなに正直に、住所や名前を書いて来ないでしょう」
「はあ……」
「お二人でしたね。もうお一人は?」
「婚約者です」
「それはそれは……。ちょっとお話をうかがいたいんですが」
「たぶん、彼女も何も気付いていないと思いますが……」
利根は国原へ、「今から待ち合せているので、どうぞ」
と促した。
——待ち合せた喫茶店で、説子は、利根が見知らぬ男と一緒なのでびっくりした。
刑事と聞いて、すぐに察しがつく。
「隣の部屋の事件ですね」
と、説子は言った。
「君、知ってたのか」
と、利根は言った。
「ええ。でも、わざわざ言うこともないと思って……」
「何か気付かれたことが……」
と、国原刑事が言った。
説子も、黙っているわけにいかなかった。
「——悲鳴を聞いたと思います」
説子の言葉に、利根の方がびっくりした。
「そのとき、男の顔を見たんですね」
と、国原が言った。
「一応。——でも、覗き穴のレンズを通してなので、大分デフォルメされています」
「しかし、特徴などは——」
「金髪でした。外国人です。横顔も、たぶんゲルマン系じゃないでしょうか」
と、説子は言った。「そのときは、大したことと思わなかったので……」
「当然ですよ」
と、国原は肯いて、「思い出せることは何でもおっしゃって下さい」
利根は口を挟んで、
「この説子は、人の顔や名前を決して忘れない人なんです」
「それはありがたい!」
国原は、手帳を手に張り切って身をのり出した。
「でも……ともかく一瞬のことだったので」
説子はじっと考え込んだ。
利根は、そんな厳しい説子の顔を初めて見たような気がした。