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黒い壁13

时间: 2018-07-30    进入日语论坛
核心提示:13 入 院「マルティン! おはよう」 弓原栄江は、明るく言って手を振った。「遅れてすみません」 マルティンは、小走りに
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  13 入 院
 
「マルティン! おはよう」
 
 弓原栄江は、明るく言って手を振った。
 
「遅れてすみません」
 
 マルティンは、小走りにやって来た。
 
「二、三分よ。大丈夫」
 
 栄江は、ビルのロビーを見回すと、「あそこに座っていましょう。相手がみえれば、すぐ分るわ」
 
「そうですね」
 
 二人は、ロビーのソファに腰をおろした。
 
「——感じはどうです?」
 
 と、マルティンが言った。
 
「え?」
 
「向うの出方。電話での感じは?」
 
「ああ。『感触』ってことね。悪くないわ。翻訳がいいの。私も感心した」
 
「それは珍しい。弓原さんがそうほめるのはめったにない」
 
「そうね。本当に今はまともな文章になってない翻訳がいくらもあるわ」
 
 と、栄江は言って、「——あら、マルティン。けがしたの?」
 
「いえ、どうして?」
 
「髪の毛の……この耳の後ろの所。血じゃない、それ?」
 
「そうかな……」
 
 と、指で探り、「あ、いてて……。できものを潰《つぶ》したんです」
 
「消毒した方がいいわ」
 
「ちょっと、洗面所で洗って来ます」
 
 マルティンは立ち上って、ロビーの奥の化粧室へ入って行った。
 
 鏡の前で、ペーパータオルを濡らし、耳の後ろの血のこびりついた所をこすって落とした。
 
 マルティンは、さらに冷たい水で顔を洗った。
 
 そしてペーパータオルを抜いて顔を拭《ぬぐ》うと、鏡の中に、大柄な男を見た。
 
「オットー……」
 
 と、マルティンは呟《つぶや》くように言った……。
 
 
 
「——利根さん。お電話です」
 
 と言われて、コピーの所にいた利根は、
 
「ありがとう」
 
 と、机に戻った。「——はい、利根でございます」
 
「今日は。私、美奈です」
 
「ああ、美奈ちゃんか」
 
 利根は椅子にかけて、「どうしたんだい、会社へ」
 
「ご迷惑?」
 
「いや、そうじゃないけど……」
 
「ゆうべ、帰って来なかったわね」
 
 利根は詰って、
 
「うん……。ちょっと用事で——」
 
「いいの。そのことは」
 
 と、美奈は言った。「別に、利根さんが何してようと、私がとやかく言うことじゃないし」
 
「美奈ちゃん……」
 
 そばには誰もいなかった。
 
「利根さん、私——」
 
「待ってくれ」
 
 と、遮って、「僕はね、説子君と結婚する。昨日、式場も予約したし」
 
「いつ?」
 
「ひと月後だよ」
 
 美奈は少しの間黙った。
 
「——もしもし? 美奈ちゃん?」
 
「はい」
 
「だからね——」
 
「分ってる。私は子供だし。でも、あと何年かしたら、私も大人になるのよ」
 
「それは分ってるけど……」
 
「そんなことで電話したんじゃないの」
 
 と、早口になって、「ね、どこか近くの病院を紹介して」
 
「病院?」
 
「ええ。どこか知らない?」
 
「君……。美奈ちゃん、まさか……」
 
 と口ごもると、
 
「——いやだ! 何考えてるの?」
 
 と、美奈は怒っている。「けがしてる子がいるの。男の子で、足を骨折してるんじゃないかと思うんだけど」
 
「誰なんだい、それ?」
 
「万引き」
 
「ええ?」
 
「お金盗って逃げようとして、階段から転り落ちたの」
 
 利根はわけが分らず、キョトンとしているばかりだった。
 
 
 
「もう少しで、足を切断しなきゃいけないところだったよ」
 
 と、医師が言った。「何とか間に合ったがね」
 
「ありがとうございました」
 
 と、美奈は頭を下げた。
 
「ただ、大分傷口が大きい。当分は痛んで起きられないだろう」
 
「分りました」
 
 美奈はホッと息をついた。
 
 朝、遅刻してまで、あの少年を病院へ連れて来て良かった。——足の切断。
 
 でも……。あいつは何も言わない。
 
 美奈は、今朝どうしても気になって、あの公園へ寄ってみた。
 
 そこでベンチに横になっている少年を見つけたのだ。
 
 少年は苦しげに呻《うめ》いて、ひどい熱だった。
 
 美奈は迷った後、利根の所へ電話したのである。
 
 少年——カールという名だそうだが、少年からそれ以上の話を聞くこともできず、緊急の手術になった。
 
 身許引受人は、利根がなってくれた。
 
 美奈は、学校を完全にサボるのもいやで、医師に任せて学校へ遅れて行った。
 
 そして帰りに寄って、手術が無事にすんだと聞かされたところである。
 
 ——病室へはまだ戻らず、集中治療室で一日二日は過した方がいいということ。
 
 美奈は、ガラス越しにあの少年カールが額にたてじわを刻んでいるところを見ると、何だか少しホッとした。
 
 あの子の本当のことを聞く日はいつか来るだろうか。
 
 美奈は、そっと、
 
「また明日ね」
 
 と言って、窓を離れた。
 
 
 
「——利根さん?」
 
 と声をかけられて、
 
「はあ」
 
 利根は、会社を出るところで、この後、説子と待ち合せている。
 
「国原といいます」
 
「刑事さん?」
 
「ゆうべのKホテルでの事件、ご存知ですね」
 
 利根は肯《うなず》いて、
 
「TVのニュースで見ました」
 
「女子大生が殺されたんです」
 
「気の毒でした」
 
「ゆうべ——Kホテルに泊っておいででしたね」
 
「ええ」
 
 住所と名前、勤務先まで書いて来ているから、当然分るわけだ。
 
「事件の現場は、お隣の部屋だったんです」
 
 利根も、それは知らなかった。
 
「本当ですか!」
 
「それで、何か変ったことに気付かなかったかと思いまして」
 
「さあ……」
 
 利根は当惑した。
 
「むろん、あなたを疑うとか、そんなことじゃありません」
 
 と、国原は言った。「それなら、あんなに正直に、住所や名前を書いて来ないでしょう」
 
「はあ……」
 
「お二人でしたね。もうお一人は?」
 
「婚約者です」
 
「それはそれは……。ちょっとお話をうかがいたいんですが」
 
「たぶん、彼女も何も気付いていないと思いますが……」
 
 利根は国原へ、「今から待ち合せているので、どうぞ」
 
 と促した。
 
 ——待ち合せた喫茶店で、説子は、利根が見知らぬ男と一緒なのでびっくりした。
 
 刑事と聞いて、すぐに察しがつく。
 
「隣の部屋の事件ですね」
 
 と、説子は言った。
 
「君、知ってたのか」
 
 と、利根は言った。
 
「ええ。でも、わざわざ言うこともないと思って……」
 
「何か気付かれたことが……」
 
 と、国原刑事が言った。
 
 説子も、黙っているわけにいかなかった。
 
「——悲鳴を聞いたと思います」
 
 説子の言葉に、利根の方がびっくりした。
 
「そのとき、男の顔を見たんですね」
 
 と、国原が言った。
 
「一応。——でも、覗き穴のレンズを通してなので、大分デフォルメされています」
 
「しかし、特徴などは——」
 
「金髪でした。外国人です。横顔も、たぶんゲルマン系じゃないでしょうか」
 
 と、説子は言った。「そのときは、大したことと思わなかったので……」
 
「当然ですよ」
 
 と、国原は肯いて、「思い出せることは何でもおっしゃって下さい」
 
 利根は口を挟んで、
 
「この説子は、人の顔や名前を決して忘れない人なんです」
 
「それはありがたい!」
 
 国原は、手帳を手に張り切って身をのり出した。
 
「でも……ともかく一瞬のことだったので」
 
 説子はじっと考え込んだ。
 
 利根は、そんな厳しい説子の顔を初めて見たような気がした。
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