「いいかい?」
と、利根は念を押した。
今さら、妙なものだ。麻木説子は何度もここに泊りに来ているし、一か月後には式を挙げる予約も入れた。
そうなると、却《かえ》って何だか遠慮してしまうのが面白いところである。
「——私も一緒にいたいわ」
と、説子は言って、微笑んだ。
二人は電車を降りて、利根のアパートへと向った。空気が湿っていて、雨の気配は二人の足どりを急がせた。
アパートへ着くまで、二人は専ら式のこと、披露宴のことばかり話していた。——一緒にいたいと思ったのは、他の理由からだが、夜道を歩きながら、二人ともそれを思い出したくはなかったのである。
——部屋へ入って、二人はやっと落ちついた。
「明日、同じ服で行かなくちゃ」
と、説子は言った。「何か言われそうね。私は平気だけど」
「いいじゃないか。もう式場の予約までしてある。みんなに知れ渡った方が、却ってやりやすい」
利根は、ネクタイを外し、息をつくと、「君に言い寄る奴もいなくなるだろうし」
「そんな人いないわ。いつもはねつけてやった」
と、説子は笑った。「——お風呂、入ってもいい?」
「うん。僕がお湯を入れるよ」
「私もこつを呑み込んでるわ」
と、説子は止めて、「じゃ、先に入るわね」
「どうぞ」
利根は、説子がスーツを脱いでハンガーにかけ、シュミーズ姿でバスルームへ入って行くのを、何だか幻でも見るようにポカンとして眺めていた。
結婚か。——いざ、本当にその決心をすると、お風呂を使う説子の後ろ姿に、色気よりも、安心感を覚える。
今まで何度もここへ泊っているのに、その安心感は初めて知るものだった……。
それにしても——利根が見たトンネルでの殺《さつ》戮《りく》。そして二人の泊ったホテルの隣室で殺された女子大生。
まるで、俺たちが——いや、俺が血生ぐさい出来事を招き寄せているようだ。
そんなことを言えば、説子が全身を浸している幸せに水をさすことになってしまう。黙っていよう。
利根は、バスルームからお湯を入れる音が聞こえてくると、少しホッとした。
それは幻でも何でもない、「生活の音」だった……。
玄関のチャイムが鳴る。——利根は当惑した。
「——利根さん。いる?」
ドアを叩く音と一緒に、聞き慣れた声。
ああ、そうだ!
利根も、やっと思い出した。
玄関のドアを開けると、
「あ、もう帰ってた」
と、弓原美奈が言った。「今日はありがとう」
「その男の子、どうしたんだい?」
と、利根は訊《き》いた。
「詳しく話すと長くなるの」
と、美奈は言った。「でも、手術がうまく行って、ちゃんと足は治るって」
「そうか。良かったな」
「うん。下手したら、足を切断するところだったって」
「ねえ、美奈ちゃん。お母さんにはちゃんと話をした?」
「詳しくは話してない」
と、美奈は目を伏せて、「本当はまだ全然」
「そうだろうと思った」
「今夜、ちゃんと話すわ。私も、あの子のこと、特別どうって思ってるわけじゃないの。カールっていうんだけど……」
「カール。——ドイツ人?」
「そうらしいわ。十二歳で、でも、一人ぼっちなのよ」
ドイツ人。——ドイツ。
どうして俺の周囲に、こんなことが続くんだ?
「しかし、その子のことは、ちゃんとどこかで面倒をみてもらわないとね。美奈ちゃんが、けがしてるその子を見かねて病院へ入れてやったことは正しいと思うよ。でも、それ以上のことは、君には無理だ」
「うん、分ってる」
と、美奈は肯《うなず》いた。「でもね、一つ気になってるんだけど」
「何だい?」
「その子を捜してる人がいるの。やっぱりドイツ人で——」
と、美奈が言いかけたとき、バスルームのドアが開いて、説子が、
「ねえ、シャンプーの買い置きは——」
と言いかけて、美奈に気付いた。「あら……」
美奈と利根の話し声が、お湯を入れる音で聞こえていなかったのだ。美奈も、まさか説子がいると思っていなかった。しかも、説子が裸で現われるのを見てしまうとは……
「ごめんなさい!」
美奈は頭を下げて、「じゃ、帰る!」
止める間もなく、美奈は飛び出して行ってしまった。
駆けて行く足音が、廊下を遠ざかっていく。
「——びっくりさせちゃったわね」
と、説子が言った。「中にいると聞こえなくて……」
「うん、いいんだ」
利根は鍵《かぎ》をかけて、「——シャンプー、君がいつも使ってるのは、鏡の戸棚の中に入ってるよ」
と言った。
あの子は、私に嫉《しつ》妬《と》してる。
バスルームのドアを閉め、説子は鼓動の高鳴りにしばらく聞き入っていた。
まさか、利根以外に誰かいるとは思ってもいなくて、驚いたのも事実だ。
しかし、それだけではなかった。利根は気付かなかったかもしれないが、あの美奈という少女の、説子を見る目には、鋭く刺すような嫉妬の矢が込められていたのだ。
確か——十七歳といったか。
十七歳といえば、男を本気で愛することもできる。少女であって、女でもある。
いや、もちろん利根はそんなことに気付いてもいないだろう。
——説子は、お湯を止めた。
急にバスルームの中が静かになる。
利根に言われた戸棚を開けると、本当に説子の使うシャンプーがあった。
そろそろなくなって来たからといって、ちゃんとこうして買っておいてくれる人など、めったにいるものではない。
利根のやさしさであり、同時に細かいことに気の付く、神経質な傾向の現れでもあるだろう。
説子は、戸棚の、表が鏡になっている扉を閉めようとして、ふと眉《まゆ》を寄せた。
空いた棚に、ビニール袋に入った石のかけらが置かれている。——あの、野川という人の「お土産」の〈ベルリンの壁〉だ。
何か絵が描いてあったのか、黒い色に塗られたその壁のかけら……。
説子は、その袋を、そっと指でつまんで取り上げた……。
「どこに行ってたの!」
ドアを開けるなり、母親の声がぶつかって来た。
美奈は、
「ちょっと」
とだけ言って、ドアを閉め、ロックしてチェーンをかける。
「ちょっと、じゃ分らないでしょ。——利根さんの所?」
「うん」
美奈は居間へ入って、TVをつける。
「何の用だったの?」
「何でもない」
「何も用がないのに、行ってたの?」
「ほんの二、三分よ」
「でも……」
弓原栄江は、まだ帰宅したスーツ姿のままだった。「——心配なのよ、美奈のことが」
「大丈夫だったでしょ」
と、つき放すように言う。「邪魔してないわよ、そんなに」
栄江は何か言いかけたが、そのとき、ピピピと携帯電話が鳴り出して、急いでバッグから取り出した。
「——はい。——あ、マルティン。今日はご苦労様。——え?——うん、分ってるわ。ちゃんと書面にしておかないと……」
母の声が奥へ消える。
美奈は、TVのリモコンを握りしめて、指先がひっきりなしにチャンネルを変えていた。
母に、利根の部屋からどうして逃げるように戻って来たか、言いたくなかった。
カール少年のことも、オットーといった、あの妙な男のことも……。
今は、何も話したくない。
いや、今の美奈は、利根の所で見たものの衝撃に堪《た》えるので精一杯だったのである。
「——馬鹿ね!」
と、口に出して呟《つぶや》く。
あの説子という女の人が、しばしば利根の部屋に泊っていることは、美奈も知っていた。
彼女が泊れば、当然二人が一緒に寝るということも、分っていた。十七歳だ。自分で経験はなくても、何をするのかくらい、知っている。
でも、それは「見えない」限り、利根と関係ないと思うことができた。
自分自身が、両親の交わっているところを想像できないように、美奈は利根があの女性と愛し合っているさまを、思い浮かべることができなかった。
それが——バスルームのドアが開いて、あの説子という女が裸で現われるのを見て、美奈は突然利根が「男」だということに気付いたのだ。
利根さん……。
私だって——私も女なのに。
美奈は、自分が利根の部屋のバスルームから裸で当り前のように出てくるところを想像していた。
あそこにいるのが私だったら……。私だったら……。
「——いつもありがとう、マルティン」
栄江はベッドに腰をおろした。つい、疲れたように息をついていた。
「どうしたんですか?」
と、マルティンが訊いてくる。
「え?」
携帯電話で話しながら、栄江はスカートのホックを外し、ファスナーを下ろした。しめつける感じが消えて、楽になった。
「いや、疲れてるみたいだから」
「ああ……。いえ、今帰って、一息入れたところなの」
と、栄江は言った。「つい、ため息が出るのよ、もう若くないもの」
ブラウスのボタンを外して、今度はそっと息を吐いた。
「栄江さんは若いし、きれいです」
「まあ、ありがとう。誰か、本気でそう言ってくれる人がいるといいけど」
と、栄江は笑った。
「僕は本気です」
と、マルティンが言った。
「マルティン……」
「今——何してるんですか」
「座ってるわ。ベッドに」
「一人で?」
栄江は面食らって、
「もちろんよ!」
「今度——どこかへ旅行しませんか」
マルティンの誘いは、明らかに「恋人」としての言い方だった。栄江は、すぐには返事ができなかった。
「——もしもし?」
「聞いてるわ」
「怒っていますか」
「いいえ。でも……私は娘がいて、放っておいて旅行には出られないわ」
断っていることにならない。
それは分っていた。——マルティン自身を拒んでいるわけではない。
「旅に出られない」
ということは、つまり、
「旅でなければいい」
という意味になる。
「マルティン。あなたの気持は嬉《うれ》しいけど、あなたは、もっと若い、すてきな女の子を見付けられるわ」
我ながら、つまらない言い方だった。
「栄江さんが僕を嫌いでないと分って、嬉しいですよ」
マルティンは明るく言った。「じゃあ、書類ができたら、連絡して下さい。取りに行きます」
「ええ、分ったわ。——マルティン」
「何ですか?」
「ありがとう……」
そう言いながら、ベッドから立ち上って、スカートを足下に落とす。
まるで、今マルティンに抱かれようとしているかのようだった。
「——早いね」
利根は、バスルームのドアの開くのを見て、言った。
説子が、体にバスタオルを巻いて立っている。——まだ入っていないことはすぐに分った。
「どうかしたのか?」
「見て」
説子が右手を広げて差し出す。
「けがしたのか?」
びっくりして利根が立ち上る。
「違うわ」
と首を振って、「でも、やはりこれ、血に見える?」
右のてのひらが赤く染っている。
「うん……。けがじゃないのか」
「これよ」
右手に、ビニールの小さな袋を下げている。
「それって、……野川の——」
「ええ、〈ベルリンの壁〉よ。それを今、手に持ったら、こうなったの」
「何だって?」
利根は、説子の左手から、かけらの入ったビニール袋を受け取って、「——何てことだ」
と言った。
ビニール袋の底に、血らしい紅色の液体がたまっている。
「この黒い壁、黒じゃなくて、本当は血が乾いてるんじゃない?」
もしかすると……。
「君、このかけらに水をかけてみたのか?」
「違うわ! 何もしてない」
と、説子は強く首を振った。
「それじゃ……」
「このかけらから、血がにじみ出て来たのよ」
「今になって? そんなことが——」
「事実だわ」
説子はじっと利根を見つめて言った。
「ねえ、これを捨てて」
利根は一瞬、言葉を失った。
「捨ててしまいましょうよ。縁起でもないわ。今ごろこんな物をくれるなんて。友だちがそんなことをするなんて変よ」
説子の言い分はもっともだった。
しかし——それは野川の「形見」かもしれないのだ。
「お願い」
説子はくり返した。
「——分った」
利根は、ゆっくりと肯いた。「分ったよ」