「起きてるんでしょ」
と、美奈は言った。「分るわよ、タヌキ寝入りしても。——『タヌキ寝入り』って、分んないか」
「知ってるよ」
と、目を開けて、少年が言った。
「ほら、起きてた」
と、美奈は笑って言った。
少年もちょっと笑った。——珍しいことだった。
「痛い?」
美奈は、学生鞄《かばん》を床へ置いて、ベッドのわきの椅子に腰をかけた。
カール少年がこの病院で手術を受けてから、三日たっている。経過は良好で、今日からカールは普通の病室へ移されていた。
「少し」
カールは包帯でグルグル巻きにされ、ベルトで吊られた片足を眺めて、「動けないって、いやだ」
「仕方ないでしょ。ちゃんと治しておかないと」
カールは、ふしぎそうに美奈を見た。
「どうして入院させたりしたんだ?」
「放っとけなかっただけよ。——ねえ、あなた、日本に知り合いとか親《しん》戚《せき》とか、いないの?」
学校の帰り、美奈はこうして毎日病院に立ち寄っていたが、普通の病室へ移って、やっと話ができる状態になったのである。
「いたら、あんなことしてない」
と、カールはぶっきらぼうに言った。
「でも、誰か……。あなた、オットーって人、知ってる?」
その名を聞いたとたん、カール少年の顔に激しい怒りが浮かんだ。
「知ってるのね」
——美奈はびっくりしていた。
「オットーがどうしたんだ?」
「あなたのこと、捜してたのよ、あのスーパーの近くで」
「それで?」
「何だか怪しい人みたいだったから、話さなかった。——あの人は何なの?」
カールは、青ざめた顔をこわばらせて、
「知らない方がいいよ」
と言った。
「だって、会って話もしたのよ。向うが私の言ってることを信用してるかどうかも分らないし。何かあるのなら、話してよ」
カールは、じっと天井を見上げて、
「知らない方がいいよ」
と言った。
「どうして?」
と、美奈は訊《き》いたが、カールは答えなかった。「——ねえ、どうして?」
「知らない方がいいんだ」
カールは、そうくり返した。
——美奈は、病院を出た。
なぜか、あのカールのことが気にかかっている。
しかし、これ以上美奈にできることはないのだ。利根が名前を出してくれているから、やはり利根に何とかしてもらうしかないだろう。
今夜、利根の所へ行ってみよう。美奈はそう決心した。
バス停でバスを待っていると、携帯電話が鳴った。
「——もしもし」
「美奈? お母さんよ。今、どこ?」
「うん、外……だよ」
「出かけてるの?」
「学校の帰りに、友だちのお見舞に、病院へ寄ったの」
母には何も話していなかった。
「そう。お母さん、食事の約束ができたから、少し遅くなるわ」
「うん、分った」
「何か買って帰って、食べててね。ごめんなさい」
「大丈夫だよ」
と、美奈は言った。「もう十七だよ」
「そうね」
栄江は笑って、「じゃ、気を付けてね」
「はい」
美奈はホッと息をつく。——この分だと、母の帰りはかなり遅いだろう。
今夜、利根の帰宅が早いといいのだけれど……。
栄江は席に戻った。
「——今夜、大丈夫よ」
そう言って、栄江の顔が赤く染る。
「ありがとう。無理を言ってすまない」
マルティンが栄江の手を取る。
「いいえ」
栄江は首を振った。「ちゃんと納得してのことですもの。——後悔しないわ」
この三日間、忙しかった。
マルティンとも、電話で話すだけ。
そんな状況が、却《かえ》って栄江に一歩を踏み出させた。
今日は仕事をやりくりして、この時間から後を空け、会っているのである。
「でも、遅くなっても帰らないと」
と、栄江は言った。
「分ってる。じゃあ……出ようか」
マルティンが促す。
ホテルのバー。まだ夕方なので、客は少ない。
「このホテルの部屋を取った」
と、マルティンがウエイターを呼んで支払いをしながら、言った。
「まあ、高かったでしょう」
「あなたを、安っぽいホテルへ連れていくわけにいかない」
「もったいないわ。あなた一人でも泊ってね」
つい現実的な言い方をしてしまう栄江だった。
「食事は後で?」
「部屋で取ってもいいわ」
「それがいい。——ありがとう」
マルティンはつり銭を受け取ると、立ち上った。
二人はバーを出て、エレベーターへと向った。
「マルティン」
と呼び止める声がした。
栄江は足を止めて、少し年輩のドイツ人らしい男がやってくるのを見た。
「——お知り合い?」
マルティンはなぜか固い表情で、ドイツ語で早口に何か言った。
二人は握手している。
「ドイツにいたころの友人です」
と、マルティンは言った。「オットーといって……」
「オットー・リンデンといいます」
と、その男は達者な日本語で、「マルティンとは一緒に暮したこともあります」
「まあ、日本語がお上手ですね。——弓原栄江です」
オットーという男は、栄江の手を取って、軽く会《え》釈《しやく》した。
がっしりした体つきのその男は、マルティンとは大分タイプが違って見えた。
マルティンがドイツ語でオットーに何か言うと、オットーの方はニヤリと笑って、
「マルティンが、『大切な仕事の打ち合せがある』と言っていますが、本当ですか?」
と、栄江の方を見る。
「オットー!」
マルティンは怒ったように言った。
「邪魔はしません。——では、いずれ、また」
オットーは栄江に向って会釈すると、立ち去った。
「——ぶしつけな奴で、すみません」
マルティンは、栄江に言った。
「いえ、そんなことはないけど……。久しぶりなんでしょ? いいの?」
「大丈夫。必要ならいつでも捜せます」
マルティンは栄江の肩を抱いて、「今夜はあなたのことしか考えたくない」
と言った。
栄江は頬《ほお》を染めると、
「じゃ、まずエレベーターのボタンを押さないと、部屋へ行けないわ」
と言った。
マルティンが笑ってボタンに指を触れた。
「ごめんなさい」
と、説子は言った。「今日はこのまま帰るわ。頭痛がして、早くやすみたいの」
「風邪ひいたのかな」
「大丈夫。一晩寝れば」
説子は、表の公衆電話から会社へかけていた。——仕事で外出し、そのまま早退することにして、利根へ連絡しているのだ。
「明日は、予定通り、式場へ行きましょう」
「そうしよう。じゃ、僕も今日は少し頑張って仕事を片付けて帰るよ」
「無理しないでね」
と、説子は言った。「それじゃ……」
——電話を切って、説子は振り返った。
利根のいる公団住宅が見える。
説子は、足早に、その棟へと向った。
エレベーターで三階へ上る。
利根の部屋の鍵《かぎ》は持っている。説子は、鍵をあけ、素早く部屋の中へ入った。
——もう、ここの空気になじんでいる自分。
それは、自分の部屋へ入ったような安《あん》堵《ど》感を、説子に与えた。
しかし——その「安心感」に影を落としているものがある。
説子は、部屋へ上ると、コートを脱いで、まずバスルームへと足を向けた。
あの棚には、もうあの〈壁のかけら〉はなかった。——利根も、同じ所にそのまま置いてはおくまい。
では、どこにやったか。
説子は、利根から、
「あの〈壁のかけら〉は処分したよ」
と聞かされた。
しかし、説子は直感的に察していた。利根はあの〈壁のかけら〉を捨てたりしないだろう、と。
旧友からもらったという点を別にしても、あの〈壁のかけら〉から、何かふしぎなことが起っている。——説子は、利根が自分の経験したいくつもの奇妙な出来事を、すべて平気で忘れ去れるような人間でないことを、よく知っている。
むしろ、そういう利根を愛しているとも言えるだろう。
でも——あれはあまりに危険だ。説子は、あれが自分と利根の幸せをおびやかすことになると思っていた。
見付けて、ひそかに処分してしまおう。——利根にはあくまで黙っていよう。
説子は、バスルームの中から捜し始めた……。
一人で外食というと、高校生ではどうしてもハンバーガーやフライドチキンになる。
美奈は、駅前につい最近オープンしたお弁当屋さんに寄って、好きなお弁当と、サラダを買った。持って帰って家で食べた方がいい。
こういうお弁当も、今は競争が激しいのでなかなかおいしいのである。
美奈がアパートへ着いたときには、もう辺りはずいぶん暗くなっていた。日一日と、夜の訪れが早くなる季節だ。
「——あの人」
足を止めたのは、自分の棟から、急ぎ足で出て来たのが、利根の「彼女」だったからだ。
麻木説子。——しかし、何だか様子がおかしい。
こんな早い時間に、利根が帰宅しているのだろうか?
説子は、出て来たのだ。もう帰るところなのだろうか?
帰るのなら、当然美奈と出くわすことになるのに、なぜか説子は逆の方向へと歩いて行った。
美奈は、後を尾《つ》けてみることにした。
手にさげたお弁当の袋がガサガサと音をたてるので、あまり近付くわけにはいかないのだが、この団地の中はよく分っている。
少し離れて、美奈は説子を尾行して行った……。
説子は、団地の奥の方へと入って行き、〈中央公園〉と住人が呼んでいる、広い公園の中へと足早に消えた。
暗くなると、公園にはほとんど人がいない。
美奈は駆け足になって、公園の中を少し上から見渡せる場所へと急いだ。
公園で時間を潰《つぶ》している母親を捜したりするとき、みんなここへ来て中を見渡すのである。
公園自体が、中央に池があって、少し低い位置に作られているのだ。
美奈は息を弾ませて、説子の姿を捜した。
すぐに、池の辺りを歩いている説子の姿が目に入った。——むろん、見られているとは思ってもいない。
説子は、人《ひと》気《け》がないのを何度も確かめるように、キョロキョロと見回している。
何をしているんだろう?
説子がバッグを開け、何かを取り出した。小さくて何なのか分らないが、それを説子は力一杯池に向って放り投げたのである。
池の真中辺りに小さな水柱が立ち、タポッという音が、美奈の耳にも聞こえて来た。
説子がハンカチで手をしつこく拭《ふ》いている。そして、走るように公園から出て行ってしまった。
美奈は、説子が通りかかったタクシーを停め、乗って行くのを見送った。
アパートへ戻るわけではないのだ。
今の様子から見て、説子は利根の部屋へ留守中に入り、何かを持ち出して捨てたのだろう。
美奈は、公園の中へ入ってみた。
もちろん、池は大きくて、真中辺りは深いので、何が捨てられたか、知りようもないのだが、それでも説子が立った辺りまで行ってみた。
池の面はもう黒くかげって静かだった。
——何を捨てたんだろう?
他の女の手紙とか、写真とか……。そんなものなら、池に捨てないで破るか焼くかすればいいのだ。
ともかく、美奈は説子の秘密——利根に知られてはたぶん困ることを見たのだと思って、満足していた。
「帰ろう……」
と、呟《つぶや》いて池から離れかけたとき、ふと池で水音がした。
振り向くと——池の中から何かが飛び出して来た。
妙な言い方だが、そうとしか見えない。
何かが空中高く、放物線を描いて飛んで来ると、美奈の二、三メートル先の道へ落ちたのである。
——美奈は呆《あつ》気《け》に取られた。
今のは何? まるで見えない手が投げ返しでもしたようだった。
道へかがみ込んで見ると、落ちていたのは小さなビニール袋で、中に石のかけらのようなものが入っている。
そっと拾い上げてみると、袋の中から、池の水がこぼれ落ちる。中には、黒い色をした石——いや四角くて薄い、かけらのような物が入っている。
これを、説子は捨てたのだろうか。
美奈は少し迷ったが、袋の中の水を切って、それからティッシュペーパーにくるんで、鞄の外側のポケットへと入れたのだった……。