「まあ、若くて回復力がありますから」
と、医師が言った。「しかし、ひと月は入院しないと。途中で無理に動かすと、骨が真直ぐつながらないことがあります」
「分りました」
利根は医師に礼を言って、「知人から預かった子で、あまりよく知らないのですが」
「ま、おとなしくしてますよ、今は」
と、医師は笑って、「我慢強いことは確かですね」
利根は、残業していて、この病院から電話をもらったのである。
美奈に頼まれて名前を出している以上、放ってもおけない。
少し早めに残業を切り上げ、この病院へやって来たところだ。
——病室の奥のベッドで、少年が雑誌をめくっていた。
「失礼」
と、利根は声をかけた。「カール君だね。僕は利根というんだ」
少年が利根を見る。
とても十二歳とは思えない。大人の目をしていた。相手をまず「敵か味方か」に分類する目。
しかし、利根はその少年を見て、なぜか胸をつかれる思いがした。
どこかで、この目を見たことがある、と思ったのである。
「美奈ちゃんと同じアパートにいてね」
と、椅子にかけて言った。「君の手術のとき、誰かが君の身許引受人にならなきゃいけないんで、頼まれたんだ」
「知ってます」
と、少年は言った。「どうもありがとう」
「いやいや、別に大したことじゃない。しかし……君、一人なのか?」
「訊《き》かないで」
と、カール少年は言った。「僕のことは放っといて」
「そういうわけにもいかないだろ。——誰か身寄りがあれば、呼んであげるよ」
「誰もいません」
と、カールは天井を見上げた。
「ご両親は?」
「死んじゃった」
「お二人とも?——事故か何かで?」
カールはしばらく黙っていた。そして、ゆっくりと、
「パパは捕まって、どこかで処刑されたって。でも、どこなのか今でも分らない」
「分らない?」
「まだ、ドイツが一つになる前だったから」
利根は、座り直した。
「つまり——君のご両親は東ドイツにいたんだね」
「うん」
「そして、政府ににらまれるようなことをした……」
「馬鹿みたいだ」
と、カールが言った。「あと二、三年、うまくやって生きてたら、殺されることなんかなかったのに」
「そうだな……。でも、誰も、あんなことが起るなんて思わなかったんだよ。ベルリンの壁が一夜で壊されるなんて……」
カールの目から急に涙が溢《あふ》れた。
「——ごめんよ。何か悪いことを言ったかな?」
と、利根はあわてて言った。
「そうじゃないの」
カールは、両手を固く握りしめて、「ママが……」
「お母さん?」
「ママは……あそこで死んだんだ」
「——あそこって?」
「〈壁〉だよ」
「ベルリンの壁?」
「うん。——西へ逃げようとして、撃ち殺されたんだ」
利根の顔から血の気がひいた。
カール少年に残る面影。それは、あの目の前で射殺されてしまった、あの女のものだった……。
「ハルト!」
突然、マルティンがそう叫んで、眠りかけていた栄江はハッと目を覚ました。
「マルティン?——マルティン」
マルティンがガバッと起き上った。
「——大丈夫?」
栄江は毛布を胸まで引張って、上体を起した。
マルティンは肩で大きく息をつくと、
「僕は何か言った?」
と、訊いた。
「たぶん……ドイツ語でしょ。夢でも見てた?」
栄江はマルティンの広い背中に手を当てた。
「汗かいてるわ」
「ええ……。びっくりさせて、ごめん」
マルティンは金髪をかき上げた。
「いいのよ。私も、眠っちゃうところだったわ」
と、栄江は言って時計へ目をやった。
「九時だわ。——シャワーを浴びて、仕度する」
マルティンは栄江の方へ向くと、肩をつかんで抱き寄せた。
「マルティン……。もう……」
唇をふさがれ、栄江は軽く身震いした。
——時間を忘れてしまいそうだった。
マルティンに抱かれながら、しばしば栄江は、もうこのままどうなってもいい、という気持になった。
これほど、自分が快感に溺《おぼ》れたことはないような気がした。
「もう行かないと。美奈が待ってるわ」
言葉は弱々しかった。
「もう娘さんは子供じゃない。一人でも大丈夫だよ」
「でも——」
「泊って行こう。朝まで、こうして離れずにいよう」
力強い腕に抱きすくめられ、押し倒されてしまうと、栄江はもう拒むことはできなかった。
マルティンの重みが、栄江の中から美奈の姿を消してしまった……。
だが——部屋の電話が鳴り出して、二人の間へ割り込んだ。
「——誰かしら」
「待って」
マルティンは苛《いら》々《いら》と手を伸し、電話を取った。「もしもし」
栄江は、大きく息をついた。
——これ以上はだめだわ。戻れなくなってしまう。
マルティンが低い声でしゃべっている。ドイツ語だった。
マルティンは、難しい顔で受話器を戻した。
「——さっきの方? オットーっていったかしら」
マルティンは肯《うなず》いて、
「どうしても話があると言って……。すみません」
「いいえ。また会えるわ」
と、栄江は自分からマルティンにキスして、「先にシャワーを使うわ」
「ええ、どうぞ」
栄江は、バスローブをまとってベッドを出ると、バスルームへと入った。
鏡の中を覗《のぞ》いて、栄江は驚いた。——これが自分だろうか?
まるで二十歳そこそこの恋する娘のように、顔を上気させ、ごく自然に笑みの浮かぶ自分の姿があった……。
バーの奥に、オットーの重そうな姿があった。
「——いくらでも待つぞ」
オットーがグラスを上げる。
「大きな声を出すな」
マルティンは、苦々しげに座った。
「ドイツ語でしゃべってりゃ、誰にも分らないさ」
マルティンは、カクテルを注文して、
「連絡しない約束だ」
と言った。
「分ってる。しかし、食べていかなくちゃな。そうだろう?」
オットーは真顔になって、「——妙なことが起ってる」
と言った。
「何のことだ」
「あのトンネルのことが、噂《うわさ》になってるんだ。今はまだ、ほんの何人かのことだが、広まると、ジャーナリズムが取り上げるかもしれない。分るか?」
「——もう終ったことだ」
と、マルティンは目をそらした。
「そうはいかない。僕たちは同罪さ。あのトンネルで、ずいぶん稼いだんだ」
マルティンは、じっとグラスを見つめて、
「金なら、あんたにやるほど持っていない」
と言った。
「ああ。分ってる。お前は偉い。よく努力して、ここまでやって来た。ドイツ民族の誇りさ」
「やめてくれ」
と、首を振る。「もう——何もかも忘れたいんだ。あそこでのことは」
「忘れられるもんか」
と、オットーは苦笑した。
「忘れようとしてる」
「女と寝てか。女は知ってるのか、お前が東ベルリンで何をしてたか」
マルティンはオットーをにらんで、
「彼女には何の関係もないんだ。手を出すな!」
「分ってるとも。俺の捜してるのは、あのトンネルのことを知ってる連中だ」
マルティンは目をみはって、
「オットー……。何をやろうっていうんだ?」
「もう、やってるんだ」
オットーは言った。「これが俺の仕事さ」
上着をめくって、オットーは肩から下げたホルスターの拳銃をチラリと覗かせた。
マルティンは青ざめて、
「俺には関係ない!」
と、立ち上り、「もう近付くな!」
と叩きつけるように言って、バーから大股に出て行った。
美奈は、利根の部屋へ行ってみようと思った。
母から電話があったばかりで、三十分は戻って来ないだろう。
急いで部屋を出ると、エレベーターで三階へと下りる。
五階から三階だから、階段でもいいのだが、階段はよく電球が切れていて、暗くて足もとが危い。
「帰っててくれるといいけど……」
と、エレベーターの中で呟《つぶや》いた。
三階に着き、美奈は廊下へと出たが——。
「——何、これ?」
そこは、暗く、じめじめとした空気の充ちた、見たこともないトンネルの中だった……。