こんな……。
こんなことって、ある?
美奈は、たった今、自分が降りて来たエレベーターの方を振り返ったが、そこにはただ暗いトンネルが闇の中へと延びているばかり。
「これって、何なの?」
まるで夢の中へ迷い込んでしまったかのよう。
今、私はエレベーターで三階へ下りて来た。そして、扉が開いて……。
眠っているのか。でも、このひんやりと湿った空気は何だろう? そしてこの長いトンネルはどこへ通じているのだろう。
美奈は何度も頭を振り、目をこすった。でも——自分はどこかへ「迷い込んで」しまったのだ。
「どうしよう……」
と、美奈は途方に暮れていた。
トンネルはかなりの長さがあるようだが、前も後も闇に閉ざされてよく見えない。今、自分のいる辺りが見えているのも、ふしぎだった。
そのときになって、半円形のトンネルの壁が地面に接する辺りに、小さな火が燃えていて、その光がぼんやりと周囲を照らしていることに気付いた。
そして——物音がした。
気のせいかと思ったが、人の話し声らしいものは少しずつ近付いてくる。
そして、ゆるくカーブしているトンネルの濡れた壁に、照明がチラチラと動いて見えて来た。
誰か来た!
しかし、美奈には、その誰かに助けを求めていいものか、見当がつかない。
話し声は外国人——ドイツ語らしい。それに日本語も混った。
何人かの足音が近付いて来て、壁に人影が揺れる。
美奈は、ほとんど本能的にトンネルの先の暗がりへと逃げるように進んで行った。
トンネルが真直ぐなら、すぐにやって来た誰かの照明に捉《とら》えられるだろうが、目も慣れて、進んで行くとトンネルは右へ左へと曲りくねって、後ろから見られないようにするのは難しくなかった。
——声が響いて、日本語は聞き取れるようになって来た。
「どうしてトンネルは真直ぐじゃないのか、と訊《き》いてる」
と、男の声。
どうやら、誰かの質問を通訳しているらしい。
「西へ本当に向ってるのか、分らなくなるんだろう。大丈夫。曲っているのは、地下に色んなものが通っていて——地下鉄、ガス管、水道管とかね。そういうものをよけて掘ってあるので、こうなっている」
「ヤアヤア」
と、男は納得した様子で言って、それを何語にか通訳していた。
「ともかく、これだけのものを掘るのは大変だった。高いと思うだろうが、分ってほしい……」
美奈はギクリとして足を止めた。
目の前に、男が立っていた。兵士だ。手には黒光りする機関銃。
ゾッとして、言葉も出ない。だが——男は美奈を全く見ないで、やって来る人々の方をうかがっていた。
私は見えないんだ……。
やっぱり夢なのか、と美奈は思った。
ホッとしてもいたが、これがただの「夢」でないことも分っていた。
トンネルをやって来た一行のライトが兵士を照らし出した。
その瞬間、人々の間にパニックが起った。地面に伏せる者、逃げ出そうとする者、両手を組んで、神に祈っているらしい者……。
七、八人のその一行は、年齢もまちまちだった。女性も二人いる。
「大丈夫だ!」
案内して来た男が叫んだ。「落ちついて! 味方だ!」
通訳の男が何度も同じ言葉をくり返して、やっと騒ぎはおさまった。
「心配ない。この兵士は我々の仲間だ」
案内しているのは、どう見ても日本人ではない。しかし日本語は達者だった。
通訳をしているのは日本人らしく、他のメンバーにあれこれと話しかけている。ドイツ語ではないようだ。
でも——このトンネルは何なのだろう?
美奈は、その場にいながら、誰にも見られていないという奇妙な感覚に、なかなか慣れることができなかった。
「大丈夫だと言ってやってくれ」
「言ってる。しかし怯《おび》えてるんだ。分るだろう」
「分ってる。——紹介しよう」
案内役の大柄な外国人は、機関銃を構えた兵士のそばへ歩み寄って、その肩を抱いた。
「私の部下で、信頼できる男だ。マルティンという」
——マルティン。
美奈はその名を聞いてハッとした。
母が仕事でよく連絡を取っているドイツ人が、確かマルティンだった。
いや——もちろん「マルティン」という名は一人ではないだろう。偶然ということはあり得る。
その兵士が微笑んで、会《え》釈《しやく》すると、今にも逃げ出しそうにしていた人々は少し安《あん》堵《ど》の表情を見せた。
「当日もこのマルティンがトンネルを案内する。憶《おぼ》えておいてくれ」
きれいな日本語で説明している男。——その男は軍服こそ着ていないが、やはり兵士らしい雰囲気があった。
そして、その男はマルティンという兵士と何か話し始めた。ドイツ語だろう。
その案内役の男のドイツ語を聞いていて、ふと美奈はこの男の声をどこかで聞いたことがある、と思った。——どこだったろう?
マルティンがしきりに身振りを混えて、トンネルの先の方を指さし、何か説明している。
「ヤア」
と、案内役の男は肯《うなず》き、「みんなに言ってくれ。トンネルの出口辺りで今日は道路工事をしている。大勢が行き来しているので、これ以上先へ行くのは危険だ、と」
通訳が翻訳してしゃべると、一行の間に、ちょっと戸惑いがあったが、互いに少し声をかけ合っただけで、一番年長の紳士が通訳に何か言った。
「——結構だと。工事は夜もあるのか、と訊いている」
「夜はやらない。日没になれば、事実上終りだ。しかし、用心に越したことはない。実行は夜中にしたい」
その返事に、一行は納得した様子だった。
「この先、百メートルほどでトンネルの出口だ。——心配ない。そこを出れば、もうみんな自由だ」
その言葉が訳されると、不安と怯えの表情を浮かべていた人々の顔に、笑いが浮かんだ。それは、わけも分らずに眺めていた美奈でさえ心打たれるほど、長い苦しみの後に喜びを見出した人の笑顔だった……。
「では、戻ろう。——各自、持って行く物だけをまとめておいてくれ。くれぐれも言うが、荷物になる物は、どんなに惜しくても置いて行け。持っていたオルゴールが突然鳴り出したら、おしまいだ」
案内役の言葉に、誰もが神妙に肯く。
「私はマルティンと今夜のことを打ち合せていく。先に戻っていてくれ」
通訳の日本人が、その人々を促してトンネルを戻って行く。
美奈は、もしこれが夢でないとしたら何だろう、と思った。
トンネル。——自由。
これはもしかすると、どこかの国境を越えるトンネルなのかもしれない。
すると、あの人たちは脱出を希望していて、それをこの男とマルティンが案内して逃がしてやっている、というところか。
通訳していた日本人らしい男は誰だろうか?
人々が戻って行く。
そして残った二人が話し始めた。
何だか、空気が変ったような、そんな印象を美奈は受けた。
案内役の男が笑った。いやな笑いだった。
そして、それを見たとき、美奈はその男をどこで見たか、思い出した。
その男は——ずっと若く、そしてまだそう太っていないが、あのカール少年を捜していた男、オットーだ。
そのつもりになって聞いていると、二人の早口の話の中に、マルティンが呼びかけている、「オットー」という名が聞き取れた。
これがあの「オットー」なら、やはり兵士の方も、母の知っているマルティンかもしれない。
オットーは、マルティンに向って説得しようとしている。何を?
マルティンがためらいがちに肯いて、オットーは上機嫌でマルティンの肩を抱いた。
二人はトンネルを、何か話しながら戻って行く。
——美奈は、しばらくその場に立っていた。
美奈は一人になると、またひんやりとしたトンネル内の冷たい風に身震いした。
夢にしては、あまりに現実らしい。でも、こんな見たことも聞いたこともないことを夢に見るだろうか。
ふと——好奇心が頭をもたげた。
この先、百メートルほど。
オットーはそう言ったが——。
美奈はトンネルを先の方へと進んでみることにした。
滴り落ちる水、そして足下のぬかるみ。
たぶん、四、五十メートル進んで、美奈は当惑した。
トンネルはそこだけ広くなっていた。しかし、そこでトンネルは「おしまい」だった。行き止りなのだ。
これは一体……。
もしかすると、ここが出口か? どこか外へ出る穴が隠してあるのだろうか。
ゆっくり見て回ると、隅に泥をかぶっているマンホールの口らしいものがあった。
少し足先で泥をのけてみると、確かによく見かける、丸いマンホールのふたである。
これが出口?
とてもそうは思えない。地上へ出ようというのになぜ足下から?
美奈は、ためしにそのふたを引張ってみたが、全く歯が立たない。
手に泥がこびりついている。
美奈は、戻ろうとして何かを踏んだ。
泥にまみれたそれを拾い上げる。
それは、小さなぬいぐるみの熊だった。
一つの手が取れてしまっている。
逃げようとする人たちの中に、小さな子供がいたのかもしれない。その子がこのぬいぐるみを抱いていたとしたら……。
その子に何が起きたのだろう?
ぬいぐるみの真丸な目を見ていると、何かふしぎな悲しさに捉えられた。
そして——突然トンネルの中は闇に閉ざされ、一寸先も分らなくなった。
急に恐怖が襲って来て、
「誰か来て!」
と、美奈は叫んだ。
不意に足下が崩れるようで、美奈の体は闇の底へと呑み込まれて行った。