タクシーを降りて、栄江は息をついた。
「さあ……。現実に戻らなきゃ」
自分が毎日暮している棟を見上げると、ふと後悔の思いが湧《わ》く。
マルティンに抱かれたことへの後悔ではなく、こうして一人で帰って来たことへの後悔である。
マルティンがオットーに会いに行っても、そのまま部屋で待っていれば良かったのだ。
マルティンは、戻って来て、また愛してくれただろう。
栄江は、何年も男と縁のなかった自分の体が、たった一度の交わりで、こんなにもマルティンの体になじんでしまっていることに驚いた。
マルティンを愛している。——きっと、そうなのだ。
でも……。
マルティンにとってはどうだろう。栄江はもう四十で、若くはない。仕事の上のパートナーと、気が向いて寝てみた、というだけなのかもしれない。
西洋の男性はすぐに「愛してる」「すてきだ」と言う。
それは一種の社交辞礼なのだ。
いや、そんなに自分を卑《ひ》下《げ》することはない。
マルティンも寂しいのだ。どういう事情でドイツを出て来たのか分らないが——。
マルティン……。
栄江は、もしマルティンと再婚すると言ったら、美奈はどう思うだろう、と思った。
「——弓原さん」
気付かなかった。利根がやって来るところだったのである。
「利根さん」
「どうしたんです?」
「え?」
「いや、何だかずっと立ったまま動かないので、何か……」
そうか。タクシーを降りて、建物の中へ入らないまま、立っていたのだ。
どれくらいボーッと立っていたのだろう?
頬《ほお》を染めて、
「何でもありません。つい、考えごとをしていて……」
「そうですか。いや、具合でも良くないのかと……」
「いえ、そんなんじゃないんです」
と、あわてて首を振って、「入りましょう」
「ええ」
利根も、考えごとをしながら歩いて来たのだが、栄江はもちろんそんなことには全く気付かなかった。
「美奈ちゃんは、もう先に?」
と、利根がエレベーターを呼ぶボタンを押した。
「ええ。何か適当に食べてると言って……。仕事で忙しくて、夕ご飯を作れないことが多いんです」
「仕方ありませんよ。美奈ちゃんも、ちゃんと分ってる」
「ええ……。ありがたいと思っています」
エレベーターが下りて来て、扉が開く。
栄江と利根は声もなく立ちすくむことになった。
エレベーターの床に、泥だらけになってうずくまっている美奈を見ていたのである。
「美奈。——美奈」
栄江が必死で冷え切った手をさすり続けている。
「お湯が入りました」
と、利根が声をかけた。「僕が運んで行きます。後はよろしく」
「申しわけありません」
栄江の声が震える。
利根は、美奈を抱えて部屋へ運んで来た。
そして、体が冷え切っているので、お風呂のバスタブにお湯を一杯に入れたのである。
「さあ、タオルを何枚か用意して下さい」
「はい!」
美奈は気を失っていた。
脈拍は正常に打っていたが、体は長いこと冷たい川にでも入っていたように、冷え切っていた。
利根はベッドから美奈の体を抱え上げた。
もう十七歳である。決して軽くはないし、ぐったりしているので、特に重く感じる。
しかし、何とか踏んばって、お風呂場まで運んで行った。
「すみません……」
栄江は震えていた。
「一人で入れられますか?」
「私……たぶん……」
栄江は青ざめていた。「利根さん、入れてやって下さい」
「分りました」
利根としては、美奈が後でどう思うか心配だったが、今はそんなことを言っている場合ではなかった。
脱衣カゴのそばに美奈を座らせ、洗面台によりかからせると、利根は泥で汚れた美奈の服を脱がせて行った。
「——これは?」
美奈の左手が、汚れた熊のぬいぐるみをしっかりつかんでいる。
「ぬいぐるみですか」
「片手の取れた熊だ。美奈君のですか」
「違うと思います」
ぬいぐるみを取り上げようとしても、固く握って離そうとしない。
「無理にとるのはやめましょう。シャツを破っていいですか? ハサミがあれば」
「はい!」
栄江がすぐにハサミを取ってくる。
利根はシャツを切って、やっと脱がせた。
栄江の方が目を伏せている。
母親の気持は分る。——泥だらけでうずくまっていた、あの様子は、美奈が暴漢に襲われ、乱暴されたと思えるものだった。
下着や、肌を見るのが怖い。——栄江がそう思っても当然だった。
しかし——利根は、美奈のブラジャーを外し、
「大丈夫のようですよ」
と言った。「汚れていないし、傷もない。たぶん……」
上半身の白い肌はまぶしいほどに利根の目を射た。
「スカートもいいですか」
「ええ」
利根はスカートを引張って抜き取った。
足は泥で汚れていたが、太腿には汚れはない。
「大丈夫ですよ」
利根の声にもホッとした響きがあった。「傷一つない。何かされていたら、こんなことはあり得ませんよ」
「はい!」
栄江は床に膝《ひざ》をついた。
「じゃあ……後で黙ってて下さいね」
利根はわざと冗談めかして言うと、美奈の下着を脱がせた。
「お風呂へ入れます。よくこすってあげて下さい」
「はい……」
栄江は涙を拭《ぬぐ》った。
利根は、全裸にした美奈を抱き上げると、浴室へ入り、バスタブの中へ何とか体を沈めた。
お湯が溢《あふ》れ、利根の方もワイシャツからズボンまでびしょ濡れになってしまう。
「——これでいい。さあ、後はよろしく」
「ありがとうございます」
栄江は中へ入って来て、「——利根さん」
「何か……。あ、もちろん、誰にも言いませんよ、このことは。美奈ちゃんの話を聞かないと分らないことですしね」
「いえ、そうじゃないんです」
「というと?」
「私——今夜、ホテルで男と寝ていたんです」
と、栄江は言った。「相手はマルティンというドイツ人で、仕事のパートナーです」
「いつぞやレストランで見かけた人ですね」
「そうです。彼に誘われて、拒めなかったんです」
栄江はバスタブのそばに膝をつくと、タオルでお湯の中の美奈の体をさすり始めた。
「それはしかし……あなたは大人なんですから」
「私……美奈がひどい目に遭ったとしたら。そのとき、自分はマルティンに抱かれていたんだと思うと……。自分が許せなかったでしょう」
「ご自分を責めちゃいけません。それに、美奈ちゃんは大丈夫ですよ」
「ええ……。救われました、私。でも——もうやはり二度と……」
お湯の中で、美奈が深く息を吐いた。
意識が戻りそうだ。——利根は、
「自分の部屋へ戻ります。着替えたりして、後でまた来てみましょう」
と言った。
「ありがとうございました!」
利根が浴室を出て、濡れた靴下を脱いでいると——。
急に、美奈が言った。はっきりとした口調で。
「マルティン!」
栄江の手が止った。
何が起ったのか。
——利根は、部屋へ戻り、濡れた服を脱いで、そのまま熱いシャワーを浴びた。
利根の目に、美奈の白い裸身が焼きついて消えない。
「しっかりしろ!」
と、鏡の中の自分に向って言った。
そして着替えると、無理にでも、今の状況をつかもうとした。
そうしないと、また美奈の体のことを思い出してしまいそうになったのだ。
ドイツだ。
鍵《かぎ》は「ドイツ」にある。
それも、「一つのドイツ」に統一される前、東西に分れていたころのドイツ。
野川が——死んだ後に?——くれた、あの〈ベルリンの壁〉。
すべてはあれから始まったのではないか。
射殺されたあの女が、カール少年の母だとすると、あのとき、利根の目の前で起ったのは、実はベルリンの壁で起ったことだったのかもしれない。
そして、あのふしぎなトンネルでの光景。
弓原栄江の恋した男がドイツ人のマルティン。そして、美奈は、意識が戻らない内に、
「マルティン!」
と叫んだ。
——栄江にとってはショックだったろう。
やはり美奈が、母とマルティンのことを知って、責めているかと思えただろう。
しかし、そうではないように、利根には思えた。
美奈は利根に恋している。母の恋にまで気が回るまい。
そうだ。もう一つ。美奈が握りしめていた、あのぬいぐるみの熊。——美奈をバスタブに入れて、利根はあのぬいぐるみにぬいつけられていたタッグを見た。
〈シュタイフ〉。——ドイツの有名なぬいぐるみのメーカーである。
しっかりと作られた、そのぬいぐるみは、親から子の代へと受け継がれると言われている。
その片方の手が取れていた。何か、よほどの力がもぎ取って行ったのだろう。
電話が鳴って、出てみると、弓原栄江からだった。
「——色々ありがとうございました」
と栄江は言った。
「いや。どうですか、美奈ちゃんは?」
「ええ、何でも夢を見たようとか……。今は疲れたのか、ぐっすり眠ってるんです」
「それは良かった。眠らせてやって下さい」
「はい」
「明日でもまた、お寄りしますよ」
と、利根は言った。
「よろしく。——私も明日は仕事をキャンセルしました」
「そうですか。しかし……」
「あの子がマルティンの名を呼んだときは、心臓が止るかと思いました」
「詳しいことを訊《き》いてみますよ、僕から」
「はい……。ありがとうございます」
栄江は電話を切った。
きっと、栄江はもう二度とマルティンに抱かれないだろう。
マルティンか……。
利根は、お湯をわかしながら、あのレストランで見た金髪の、いかにもドイツ人らしい男を思い出した。
そして連想作用のように、説子と泊ったホテルの隣の部屋で殺された女子大生のことを思い出した。
説子は、「金髪の、ドイツ人風の」男だと言った。
ここでも「ドイツ」か。
利根は、明日美奈の話を聞きに行こうと思った。会社は遅れて行ってもいい。
あの、泥だらけの美奈の姿に、利根はあの幻のトンネルのことを思い出していた。
そして——突然思い出した。
あのトンネルの中で見かけた、機関銃を持った兵士。
どこかで見たような気がしていた。
あれは——年齢は若いが、あのレストランにいた、「マルティン」だ……。