ドアを開けたのは、意外なことに美奈当人だった。
「やあ、起きてもいいの?」
と、利根は言った。「心配で寄ってみたんだ」
「上って」
美奈は、寝ていた風でもなかった。
「お母さんは?」
と、利根が訊《き》くと、
「仕事に行った」
と、美奈はポットのお湯でお茶をいれながら言った。
「仕事? 今日は休むと——」
「私が行かせたの。大丈夫だからって」
「そうか」
「フリーの立場でキャンセルなんてしたら、後で困るもの」
美奈はしっかりした口調で言って、「——どうぞ」
と、お茶を出す。
「ありがとう。ゆうべのことは——」
「私のこと、利根さんが運んでくれたのね。ありがとう」
「いや……。当り前だよ」
「服を脱がすのも?」
利根はやや焦って、
「それは——お母さんがしたんだ。僕は君を運んだだけ。本当だよ!」
美奈はちょっと笑って、
「ちゃんと聞いたもの。凄《すご》く困った顔してたって」
「そりゃあね……。君に万一のことがあっちゃいけないっていうんで、それでね。——分るだろう?」
「分ってるわ」
美奈はそう言って、「でも、私の体を見て、何か感じた? はっきり言って」
「それは——」
「言って」
と、美奈が利根を見つめる。
「——重かった」
困った挙《あげ》句《く》にそう言うと、美奈はふき出してしまった。
「笑うなよ」
と言いつつ、利根も笑っている。
これで、妙な緊張がほぐれた。
利根はお茶をひと口飲んで、TVの上の熊のぬいぐるみを見た。
「あれ、君が昨日持ってたんだね」
「ええ」
「どこで見付けたの?」
美奈は、
「トンネルの中で」
と言った。
利根はじっと美奈を見つめた。
「君も入ったのか、トンネルに」
「——うん」
「話してくれ」
利根は座り直した。
美奈の話を聞く間、利根は何も言わなかった。「それで?」と促しもしなかった。
美奈が自分のペースで話し終えるのを、じっと待っていたのである。
——話が終ってから、しばらく二人とも何も言わなかった。
「お茶、さめた?」
と、美奈が言って、「いれかえるね」
と立ち上る。
何か動作が——日常の当り前の動作が必要だったのだ。
「利根さんは、いつトンネルに入ったの?」
と、美奈が訊く。
「うん……。この間、結婚式の打ち合せをしててね」
利根は、しかしあのトンネルの中の出来事を話したくなかった。
「——話して」
「うん……。しかし、美奈ちゃん。君は知らない方がいい」
「そんなのないよ!」
と、抗議して、「話してくれなかったら、利根さんに乱暴されたって訴える」
「おい……」
と、利根はため息をついた。「分ったよ」
——利根の話を聞いて、美奈はさすがに青ざめた。
「何だったの、あれって?」
「君の話と僕のとをつなげてみると、分ってくるだろう」
と、利根は言った。「ドイツが東と西に分れていたとき、大勢の人が東から西へ逃亡しようとして、殺された」
「教科書で読んだわ」
「たぶん、あのトンネルは、東側の地下にある。きっと、何か目的があって掘られて、途中で放置されたトンネルじゃないかな」
「わざわざ掘ったんじゃないのね」
「あれだけのものを掘ろうとしたら、容易じゃないよ。——きっと、あのトンネルを見た誰かが思い付いたんだ。『西側へ脱出できるトンネルだ』と騙《だま》して、脱出したい人から高い料金を——いや、ほとんどの財産を取り上げたんだ」
「でも、トンネルは行き止りになってる」
「そこまで、脱出しようとする人を連れて行き——皆殺しにしたんだろう」
と、利根は首を振って、「きっと軍部の上の方の誰かが絡んでいただろう。そして、何人かの兵士にその仕事をやらせていた」
「あのマンホール……」
「死体をそこへ捨てていたのかもしれない」
「うん……。じゃ、あのぬいぐるみは……」
「持っていた子供は殺されたんだろう。ぬいぐるみだけが、泥の中に残った」
美奈はしばらく何も言わなかった。
「——その日本語の通訳がついていたグループっていうのは、きっとドイツ人じゃなくて、他の国から来た人たちだ。ドイツ語が分らなくて、たまたま日本人にオットーという日本語の上手な軍人との通訳をしてもらった」
「あの人たちも殺されたのかな」
「たぶんね」
利根は、少し迷ってから、「君のお母さんの仕事仲間のマルティンというドイツ人も、そのとき、加わっていたんだ」
「恋人でしょ、お母さんの」
「知ってるの?」
「電話で話す調子で分るよ。自分でも恋してるとね」
「そうか……。オットーというのは上官だったらしいな」
「オットーはあのカールを捜してるんだ」
と、思い出して、「病院にいるから、大丈夫だろうけど」
「分らないな。——君、オットーも見てるんだね、日本で」
「うん」
「オットーは、殺し屋かもしれない」
「殺し屋?」
「もう、ドイツが一つになって、そんな事件は過去になった。でも、殺された人の知人や親類で、おかしいと思う人間が出て来たんだろう。調査されて、そんなトンネルを利用しての大量の殺人があったなんて、もし知れたら、ただではすまない」
「マルティンやオットーも」
「それで、トンネルのことを知っていた人間を口ふさぎのために殺して行った。僕の知人も、きっとそうだ。オットーは日本語ができるんで、日本へ送られて来たんだろう」
「マルティンも?」
「それは分らない」
と、利根は言った。
「怖いね」
と言って、美奈はちょっと身震いした。
「お金のために、そんなことまでするの?」
「一度やってしまえば、後は段々慣れて、何も感じなくなっていくんだろうな。それに、兵士にとっては、『上官の命令でやってる』という言いわけができる」
利根はそう言って、「今のこと、お母さんには……」
「話してない」
「そうか。——僕と君はあのトンネルに入っているが、他の人たちに話しても、分ってくれるとは思えない。はっきりした証拠が出ればともかく、今はまだ黙っていた方がいい」
「うん」
美奈は肯《うなず》いて、「でも、もし本当にマルティンが大勢の人を射殺したんだったら、お母さんの彼氏でいてほしくない」
「分るよ。しかし、たぶんお母さんはもうマルティンと仕事以外のことでは付合わないと思うよ」
微妙な問題で、美奈もそれ以上は言わなかった。
「しかし、分らないのは、どうして美奈ちゃんがトンネルへ入りこんだのか、だな。君、何か——たとえばカール少年から何かもらったりしたかい?」
「何も」
と、美奈は言った。
「そうか。——僕にもよく分らないけれど、このふしぎな世界へ引き込まれるのは、何かのきっかけがいるようなんだ。しかし、美奈ちゃんの場合、それは何だったのか……」
「利根さんは?」
「うん……。ある日、昔の友人がひょっこりやって来てね。ドイツ帰りのそいつが、みやげにくれたのが、〈ベルリンの壁〉のかけらだった」
「〈ベルリンの壁〉……」
「それをもらってから、すべては始まった。僕はそう思ってるんだ」
「じゃ……あのトンネル以外にも、何かあったのね」
「うん……。僕は、あのカールという子の母親が射殺されるのを見ていたんだ」
——利根は何もかも話をした。
美奈に話して聞かせていいものかどうか、迷いはあったが、今さら一つ二つの事実を隠してどうなるものでもない。
美奈は息すら殺して聞き入っていたが、
「——そのペンダントって、まだ持ってるの?」
「ここにある」
と、上着の内ポケットから取り出し、「あの子に見せようと思ってる」
「見せて」
美奈は受け取ると、中の写真を見て、「カールだね」
「たぶんね」
と、利根は肯いた。「カールを、オットーが捜してるんだね。入院先を調べることはできるだろう。今から行ってみる」
「私も!」
と、美奈は立ち上った。
美奈を巻き込むのは気が進まなかったが、今さら来るなとも言えない。
「危いことがあったら、すぐ逃げるんだよ、僕に構わず。いいね?」
と、一応念を押して、しかし気休めでしかない。
「待っててね」
美奈はすぐに着替えて出て来た。
「じゃ、出かけよう」
と、利根は促した。
美奈は、迷っていた。
あれは〈ベルリンの壁〉のかけらだったのだ。
利根はそれが自分の部屋にあると思っているだろう。
でも——見たことを利根に告げるのは、ためらわれた。
説子が持ち出して捨てたのだということ。——利根にそれを言うと、説子への妬《ねた》みから言うようで、美奈自身もいやだった。
黙っていよう。いつか、自然と分る時が来るかもしれない。
それまでは……。
「じゃ、出かけよう。——学校は?」
利根は初めて気付いた。
「今日は休むって連絡してある」
「そうか」
「利根さんと出歩いてるとこを見られたら、まずいな」
と、美奈は笑って見せた。