「じゃ、今後の予定はそういうことで」
と、栄江は出版の担当者に言った。「よろしくお願いします」
「ご苦労さん」
と、もうベテランのその中年の編集者は肯《うなず》いて、「期限を守ってくれるんで助かるよ」
「それが取《と》り柄《え》ですもの」
と、栄江は微笑んだ。「それに、マルティンがよくやってくれます」
「うん、確かにね」
栄江の傍に、マルティンがおとなしく控えている。体は大きいのに、あまり目立たないのがふしぎだった。
「この間、カラオケで歌った、君の演歌は大評判だったぞ」
と、編集者に言われて、
「恐れ入ります」
と、マルティンは少し照れている。
「じゃ、これで——」
と、栄江が立とうとすると、
「そうだ。待っててくれないか」
「何かご用が?」
「一つね、面白そうな本があってね、詳しいところはよく分らないんで、ザッと読んでみてほしい。いけたら、翻訳したいんだ。今、取ってくる」
「はい」
新しい仕事につながるかもしれない。言われる通りにするしかなかった。
応接室で、マルティンと二人になる。
「——今日はどうしたんだ?」
と、マルティンが言った。
「どう、って?」
「今日の約束を延ばすって言って来たから、心配したよ。何かあったのかと思って」
「娘がね——ちょっと具合悪くて。それで出るのやめようと思ったのよ」
「それで?」
「でも、娘が『大丈夫だから、行って』って言うの。『約束を断っちゃだめだよ』って」
と、微笑んで、「子供の方が、ちゃんとしてるわ」
「そうか……」
マルティンが手をのばして、栄江の手をつかむ。それを、力をこめて振り切り、
「だめよ」
「今夜、ぜひ——」
「もうだめ」
「——どういう意味?」
「昨日のことは、いい思い出にして。でも二度とあんなことはないわ」
マルティンは言葉を失った。
「誤解しないでね。あなたが悪いんじゃないの。でも、私には仕事がある、美奈がいるの。あなたと、いつまでも続けてはいけないのよ」
「よく分らない。——何がまずいんだ?」
「さあ……。でも、このままだと、何かとんでもないことが起りそうな気がするの」
「とんでもないこと……」
マルティンもまた、考え込んでしまう。
「分るでしょ? 仕事の上では、いいパートナーでいたいけど。でも、あなたがそんなことできないと言うのなら、仕方ないわ。あなたの自由にして」
マルティンは、しばらく黙っていたが、
「僕は、あなたの役に立つ間は、そばにいる」
と言った。「もし——僕のせいで、あなたに危険なことがあるようなら、去ります」
「危険なこと?」
と、マルティンを見て、「何があるっていうの?」
「僕にも分らない。ただ——昔の幽霊が、僕を追いかけてくる」
マルティンは真顔で言った。
「昔の幽霊?」
「そう……。僕がドイツにいたころの……。あの東ドイツの、暗い夜の中にいたころの幽霊だ」
「それって、何のこと?」
「いや……。いいんだ。忘れてくれ」
マルティンは、何か思い詰めた表情をしていた。
栄江が何か言いかけたとき、ドアが開いて、分厚い原書を手にした編集者が入って来た。
「——今、検査中です」
看護婦にそう言われて、
「長くかかりそうですか」
と、利根は訊《き》いた。
「たぶん、二、三十分ですむと思いますけどね」
「どうも……」
利根は、ホッと息をついた。
病室を覗《のぞ》いて、カール少年のベッドに誰もいないのを見て、一瞬ドキッとしたのである。
「美奈ちゃん。僕はちょっと会社へ電話してくる。ここにいてくれるかい?」
「うん」
「すぐ戻るよ」
利根は病室を出た。
美奈は、カールのベッドのそばの椅子に腰をおろした。
ともかく、まだカールは無事なのだ。
「——あんた、あの子の友だちかい?」
隣のベッドのおじさんが言った。
「え……。まあ、そうです」
向うは友だちと思っていないだろうけど。
「あの子、どこの国の子?」
「ドイツ人ですよ」
と、美奈は言った。
「ドイツか! てっきりイギリス辺りかと思ってた」
と、そのおじさんは言った。「じゃ、見舞に来てた、でかいのもドイツ人か」
美奈はふと、
「でかいの、って……。大柄な男の人ですか、頭の禿《は》げた」
「うん、そうそう。でも日本語が上手でね」
美奈は血の気のひくのを感じた。
「その男の人……いつごろここへ?」
「ついさっきさ。やっぱり、検査って言われて、出てったよ」
——オットーだ!
オットーが来ている。今、この病院の中にいる。
美奈は立ち上って病室から出た。
利根はまだ戻って来ない。いや、行ったばかりだ。すぐには戻らないだろう。
「電話……。どこだろ」
近くでかけようとするだろう。
美奈は急いで廊下を歩いて行った。
少し引込んだ格好で休憩所があり、当然電話がありそうだ。
覗いてみると、二台の公衆電話は、どっちも入院患者が使っていた。
きっと利根もここを覗いて行っただろう。
美奈は、他にないかと歩き出した。
そのとたん、わきから出て来た誰かとぶつかって、美奈は尻もちをついてしまった。
「ああ、こりゃごめん」
大きな体が、目の前にあった。
「——大丈夫かい?」
と、手を引いて立たせてくれる。
オットーは、美奈を見て、
「やあ、君はあのときの……」
「どうも」
と、美奈は言った。
「カールに会いに来たのか?」
「え……。そうですけど……」
「今、検査だと言ってたよ」
「聞きました」
「座って待ってようじゃないか」
「あの……ちょっと電話をかけるんで……」
「電話? そこにあったよ」
「使ってるんです。他の階へ行ってみます。どうも」
急いでオットーから離れる。
階段まで来て振り向くと、オットーの姿はなかった。
「どうしよう」
もし、カールが検査から戻って来たら……。
美奈は、必死で利根の姿を捜したが、見付からない。
——カールのいる病室が見える所まで戻って、オットーがどこかにいないか様子をうかがう。
しかし、忙しく人の行き来する廊下は、いくらオットーが大きいとはいえ、いくらでも姿を隠せる場所だった。
美奈は、汗がにじみ出てくるのを感じて、てのひらをスカートで拭《ぬぐ》った。
マルティンの携帯電話が鳴った。
「——何だろう」
栄江と二人で、出版社のビルを出ようとしているときだった。
「もしもし」
と、マルティンは言って、顔がこわばった。
ドイツ語になり、栄江から離れて、ロビーの隅へ行く。
オットーという男だろう。——マルティンの反応が、どこかまともでないものを感じさせて、栄江には気になった。
押し殺した声でしゃべっている。
内容は分らないが、口調からは苛《いら》立《だ》ちと腹立たしさが感じられた。
押し問答の末、マルティンが折れたらしい。
深いため息が出て、電話をしまうと、
「——申しわけない。急な用事で」
「いいわよ。ここでの用がすんだんだから」
「また電話する」
「ええ」
マルティンは、足早にビルを出て、一瞬タクシーを拾おうとしたが、道の渋滞を見て、地下鉄の入口へと急いだ。
マルティン……。
ゆうべ、なぜ美奈は「マルティン」と言ったのだろう?
母とマルティンの付合いに怒って、というのとはどこか違う気がする。
栄江は、ほとんど反射的に駆け出していた。そして、地下鉄の入口へと走って行ったのだ……。
早く。——早く戻って来て。
美奈は、祈るような思いで、廊下の端に立っていた。
オットーの姿も見えないが、どこかにいる。美奈は直感的にそう思っていた。
利根が戻らないので、不安にもなってくる。もしかしてオットーが……。
でも、まさか!
こんなに人がいるんだもの。まさか、こんな所で人を射殺したりしないだろう。
「——あのカールって子を待ってるのよね」
と、通りがかった看護婦が声をかけてくれる。
「はい」
「今、検査終ったから、そのエレベーターで上ってくるわ」
「ありがとう……」
美奈はエレベーターの扉の前に行って立った。
少し待つと、チーンと音がして、扉がガラガラと開く。
ストレッチャーにのせられたカールがいた。
すぐに美奈に気付いて、手を上げる。
「やあ」
と、美奈は手を振った。
ストレッチャーがエレベーターから押し出されて来る。
「いつ来た?」
と、カールが訊く。
「さっき。——検査の方は? 辛《つら》かった?」
「大したことないよ」
と、カールは強がった。
「待ってね」
看護婦がナースステーションへと小走りに急ぐ。
「カール」
美奈はカールの方へ身をかがめ、「オットーがいる」
カールが驚いて、
「どこに?」
「分らないの。でも、きっとどこかに……」
オットーがやって来る。
どこにいたのか、大股に真直ぐやって来る。
「逃げろ!」
と、カールは言った。
美奈は、エレベーターの扉が開くのを見た。医者が数人、出てくる。
——とっさのことで、ほとんど体の方が先に動いていた。
美奈は、扉が閉ろうとしたとき、力をこめて、カールの乗ったストレッチャーを押した。
ガラガラと車輪が音をたて、ストレッチャーがエレベーターの中へ入ると、扉が閉じた。
オットーが、一瞬足を止め、唖《あ》然《ぜん》として美奈を見た。
美奈は駆け出した。
「待て!」
オットーが追って来る。
美奈は、〈非常口〉と示されたドアを開け、飛び込んだ。
「——キャッ!」
足をとられ、危うく転びそうになる。
美奈は息をのんだ。
そこは——あのトンネルだった。
また来てしまった!
立ちつくす美奈の前に——突然、オットーが現われたのだ。
美奈を追って、あのドアから入ったのだろう。
オットーは、自分がどこにいるのか、わけが分らずキョロキョロしていた。
しかし——すぐに気が付く。そのはずだ。
「何だ、これは!」
オットーの右手は拳銃を持っている。
「トンネルよ」
と、美奈は言った。「憶《おぼ》えてるでしょ! あなたが人を沢山殺したトンネルよ!」
オットーは怒るよりも混乱している様子である。
「どういうことだ!」
オットーの額には汗が光っていた。