パタッ。
冷たい滴が首筋に落ちて来て、美奈は、
「キャッ!」
と悲鳴を上げた。
「黙れ!」
オットーが怒鳴る。
美奈は、じっとオットーと向い合ってトンネルの中に立っていた。
「——どうなってるんだ」
オットーは、トンネルの中をゆっくりと見回した。
「憶《おぼ》えてるんでしょ」
と、美奈は言った。「このトンネルで何があったのか」
オットーは、美奈をじっと見つめて、
「お前がやったのか?」
「私が? 私が知ってるわけないじゃない。私の生れる前のことよ」
「それなら、どうしてここにいるんだ」
「分らないわ」
と、美奈は言った。「ただ、前にも一度、ここへ迷い込んだの」
「迷い込んだ?」
「ええ」
「このトンネルは……。だが、こんな馬鹿な!」
「私、見たわ、あなたを」
オットーがギクリとして、
「俺を?」
「ええ。もっと若くて、軍服を着て」
「——それから」
「マルティンと二人で、どこかの国の人たちを案内して来たわ。通訳をしている日本人がいて」
オットーは、やっとこれが何かのトリックではないと納得したようだった。
「過去へ迷い込んだのか? 俺たちは、どうなるんだ」
「分らないわ。——これがいつのトンネルなのか、知らないもの」
「お前は前にも来たと言ったな。どうやって戻った?」
「真暗になって、気絶したの。目が覚めたら、戻ってたのよ」
オットーは拳銃を上着の下へしまうと、
「奥へ行こう」
と言った。
「どうして?」
「外へ出る口がある。——ここがどの辺か分らないが」
「でも、外へ出ても、いつの時代か分らないじゃない」
「ああ……。しかし、こんな所に突っ立っているよりましだ」
「でも——」
「黙って!」
オットーが小声で、「聞こえるか」
と言った。
トンネルの、塗り込められたような静寂の奥から、少しずつ、ざわめくような物音が聞こえて来た。
「人の声だわ」
「近付いてくる」
オットーは背後を振り向き、「あっちから来るな。先へ行こう」
美奈は、逆らわずにオットーについてトンネルを歩き出した。
追われるように、二人の足どりは、少しずつ速くなる。それでも、背後の声が近付く方が速いようだった。
「急げ」
「そんなこと——」
「急ぐんだ!」
足下で泥がはねた。美奈は思い切り転んで、泥だらけになったが、立ち上って、すぐに歩きだした。
「もうすぐだ」
オットーが言った。
トンネルが明るくなった。
あの行き止りに来た。美奈は息を弾ませていた。
「——出口って?」
「待て」
オットーが足を運んだのは、あのぬいぐるみの落ちていた隅だった。
「これを開けると、出口がある」
「マンホールなのに?」
「下へ降りる途中、横穴があって、そこから地上へ出る穴へ通じてるんだ」
オットーはマンホールのふたを引張ったが、それは固く閉じて、動かなかった。
「——畜生! どうして開かないんだ!」
オットーの顔は汗で光っていた。
「来るよ」
と、美奈が言った。
人の声が、すぐ近くまで来ていた。
オットーは必死でマンホールのふたを引張っていた。それはかすかにきしみながら、少しずつ持ち上り始めていた。
「前のときは、誰も私のいることに気付かなかったわ」
と、美奈は言った。「今もきっと——」
「あれはおかしい」
と、オットーが言った。
「おかしいって」
「このトンネルの中じゃ、みんなしゃべったりしない。黙々と歩いているはずだ。——おい、お前も引張れ!」
美奈も仕方なくオットーと一緒にふたを引張った。徐々にではあるが、ふたが開く。異様な匂いが鼻をついた。
ふたが完全に開き切らない内に、その人たちがやって来た。
美奈は、自分が悪い夢を見ているような気がした。——そこへやって来たのは、「過去の人たち」ではなかった。
「——あれは何だ!」
と、オットーが真青になって、震えている。
老人がいた。女が、子供がいた。何十人いるんだろう?
しかし——誰一人として、「生きて」いなかった。
老人の白い顔は半分銃で吹っ飛んでいた。赤ん坊を抱いた女は血だらけで、胸のど真中に銃弾の貫通した穴が黒々と口を開けている。
そして、小さな男の子も、こめかみに銃口を押し当てて撃ったのだろう、血がどす黒く固まっていた。
誰もが白い顔に笑みを浮かべていて、ワイシャツやブラウスを血で染めていた。
この世のものではない。——美奈はあまりに凄《せい》惨《さん》な光景に、恐怖すら感じられずに立ちすくんでいた。
見えないんだ。向うからは私のことが見えないんだ。——美奈は自分にそう言い聞かせた。
しかし——その人たちが急に話をやめた。
それは、どう見てもオットーと美奈の二人に気付いたせいだったのだ。
人々は、しばらく黙って二人の方を探るように見ていたが……。
「オットー!」
と、一人が言って、みんな一斉に、
「オットー!」
「オットー!」
と、口々に叫び始めた。
その声には怒りがこめられていた。
「見えてるんだわ」
と、美奈は言った。「こっちへ来る」
オットーは、開きかけたマンホールのふたを、全身の力で引張った。ふたがパッと開いて、オットーが弾みで尻もちをついた。
「オットー!」
死者たちが、激しい怒りの声を上げながらやって来る。
「来るな! 畜生!」
オットーが立ち上り、拳銃を抜いて、彼らに向けて撃った。
「死んでるんだよ、もう! むだだよ」
と、美奈は叫んだ。
「中へ入れ!——急げ!」
オットーにせかされて、美奈はマンホールの中へ入って行った。目の回るような匂い。——真直ぐの穴を下りて行くための、細いはしごがある。美奈はそれを下り始めた。
「早く行け!」
オットーが美奈の頭上へ下りて来る。美奈はあわてて急ごうとして、足を踏み外してしまった。
悲鳴を上げる。しかし、美奈の叫び声は、もうマンホールまでやって来ていた死者たちの怒りの声に、かき消されてしまった。
オットーがどんどん降りて来る。そして、手を踏まれそうになった美奈は、思わずはしごから手を離してしまっていた。
声を上げる間もなく、暗いたて穴を、美奈は落ちて行った。
ガラガラと音がして、
「美奈ちゃん!」
ハッと顔を上げると、利根がエレベーターの前に立っていた。
「利根さん!」
「立てるか?」
利根に支えられて、美奈は立ち上ると、エレベーターを出た。カールの入院している病院だ。——戻って来た!
利根は美奈を廊下の隅へ連れて行くと、泥のついた美奈の服を見て、
「また行ったんだね」
と訊《き》く。
「オットーが、カールを殺しに来たの」
と、美奈はその後に起ったことを、利根に話して聞かせた。
「じゃ——その『死んだ人間たち』がオットーを襲おうとしたのか」
「私のことも、 はっきり分ってたわ。 オットーがどうしたのか分らないけど……。 カールは大丈夫?」
「うん、大丈夫だ。カールからオットーと君のことを聞いて、心配で捜してた」
「あの人たち……。幽霊だとしても、ふしぎじゃないわね」
と、美奈は言った。「もし捕まってたら、オットーは……」
「仕方ない。我々にはどうすることもできないよ」
と、利根は言った。
「でも……こんなことがいつまで続くの?」
「分らないよ。あのトンネルで殺された人たちの魂が慰められるまでは——罪が償われるまでは、無理かもしれない」
美奈にも、彼らの怒りと恨みはよく分った。もちろん美奈は何も係《かかわ》りのないことだが——。
そのとき、病院の廊下をやって来たのは、金髪の外国人で、利根はそれを見て、
「マルティンだ」
と言った。
その声を聞きつけたらしい。マルティンが利根と美奈の方へとやって来る。
「マルティンさんね」
と、美奈は言った。「私、弓原栄江の娘です」
「ああ、美奈ちゃんだね」
「ここへはなぜ?」
と訊かれて、マルティンはちょっとためらった。
「オットーに呼ばれたんでしょ」
美奈の言葉に、マルティンは目をみはった。
「どうしてそれを——」
「オットーはね、今、〈トンネル〉の中にいるわ」
「何だって?」
「まあ、今ここで話をしても分らないだろう」
と、利根は言った。「ともかく、僕も、この美奈ちゃんも、ある事情から、昔、東ドイツのトンネルの中で起ったことを知っている、とだけ言っておこう」
マルティンが一瞬真青になった。
「マルティンさん」
と、美奈が言った。「あのトンネルの中で、あなたも罪のない人たちを騙《だま》して、殺したんですか」
マルティンは答えなかった。ただ固い表情で、美奈を見ている。
「もしそうなら」
と、美奈は続けて言った。「母とは付合わないで。母はあなたのことを愛してるかもしれないけど、でも、過去のことは知らないわ。もし知ったら、きっと苦しむと思うの。母のことを好きなら、黙って別れて下さい」
マルティンが、しばらくしてから口を開きかけたときだった。
廊下に悲鳴が響き渡った。
看護婦が、廊下に座り込んで、立てずにいる。利根たちも駆けつけた。
「どうしました?」
「エレベーター……」
と、看護婦はガタガタ震えながら目の前のエレベーターを指さす。
「エレベーターがどうしたんです?」
と、利根が訊くと、
「エレベーターの中……」
「中?」
利根はボタンを押した。
エレベーターの扉が開く。——覗《のぞ》いた美奈が、声も上げられず、よろけた。
マルティンは中を覗き見ると、唖《あ》然《ぜん》とした。
そこには——バラバラにされたオットーがいた。
頭が床をゆっくりと転り、両腕、両足、胴体が、どれも凄《すご》い力でねじ切られたように、ちぎれて打ち捨てられていた。
「オットー……」
と、マルティンが言った。
「復讐だわ」
と言って、美奈は大きく息をつくと、利根の手を思わず握りしめていた……。