屋上を風が吹き抜けて行った。
「仕方なかったんだ」
と、マルティンはくり返した。「上官に逆らえばどうなったか……。特に、あんな公務とは無縁の金《かね》儲《もう》けだ。みんな、口をつぐんで分け前を受け取っていた」
屋上には他に人影がなかった。
利根と美奈は、マルティンが〈トンネル〉での仕事について認めるのを、黙って聞いていた。
「だが、後悔したよ」
と、マルティンは続けた。「いつも悪い夢を見て、うなされる。今でも、しばしば起きてしまう。——どうしてあんなことができたのか、言いわけのしようがないよ。でも、何人もでやっていると、その内、大して苦痛に感じなくなるんだ……」
美奈は、しかしマルティンを許す気になれなかった。
「でも、お金を受け取ってたんでしょ?」
「まあね」
「じゃ、やっぱりいやだ」
と、美奈は挑みかかるように言った。「もうお母さんに会わないで」
「美奈君。君が腹を立てるのは当然だ。しかしね、あの〈トンネル〉の仕事には、日本人が一枚かんでいるんだ」
と、マルティンが言った。
「それは誰だ?」
と、利根は訊《き》いた。
「名前は知らないが、我々の間では、ただ〈日本人〉と呼んでいた。元はといえば、歴史の研究に来ていて、あの〈トンネル〉を調べた。そのとき、案内した士官に、その日本人が、あのアイデアを出した、と聞いた」
「あの人かな……。どこか、ドイツ人じゃない人たちを案内して来てた……」
「君、見たのか」
「うん」
「では、用心することだ。オットーは、その男に雇われていたんだと思う」
「人殺しを?」
マルティンは肯《うなず》いて、
「兵士にとって、何ができる? 特にオットーのような、生え抜きの軍人にとっては、東西ドイツの統一は決して嬉《うれ》しいことじゃなかった」
「そうだろうな」
と、利根は肯いた。
「特別の権力を持っていて、ワイロも取れる兵士にとっては、統一は失業だ。しかも、就職口はない。オットーは、頼まれるままに、あの〈トンネル〉のことを知っている人間を消して行った……」
「そのオットーは、復讐を受けた。見たろう? 君も、いつ彼らに復讐されるか分らないよ」
「甘受するよ、運命は」
と、マルティンは言った。「しかし、美奈ちゃん。君のお母さんへの気持は本当だ」
美奈も、風に吹かれて乱れる髪を直そうともせず、マルティンの視線を受け止めていた。
「——分ったわ」
と、美奈は肯いた。「でも、お母さんに危険が及ぶかもしれないでしょ。やっぱりお母さんから離れていて」
「うん……」
「マルティン」
と、利根は言った。「オットー以外にも殺しを請け負っていた人間はいたのか」
「オットーは何も言っていなかった。僕も誘われたが、断った」
「もう一つ教えてくれ」
と、利根は言った。「オットーがこの病院で殺そうとしていたカールという少年のことだ」
「カール?」
マルティンは眉《まゆ》を寄せて、「アンナの息子のことか? この病院に?」
「アンナというのか、母親は」
「うん。——その〈日本人〉の知人だった。いや、友人の恋人だったと思う」
「その友人というのは、日本人か」
「そうだ。アンナと一緒にいるのを見かけたことがある」
と、マルティンは言った。
「アンナは死んだ。——そうだね?」
「ああ……。不運だった。ベルリンの壁を越えようとして発見され、射殺された」
「撃ったのは君か、オットーじゃないのか」
「とんでもない!——僕じゃない」
「じゃ、誰がやった?」
マルティンは、少しためらってから、
「僕自身が直接見たわけじゃないが、仲間の兵士が見ていたらしい。——撃ったのは、例の〈日本人〉だったとね」
「何だって?」
「どういう事情かは知らないが、そう聞いたよ」
「そうか……」
利根は肯いた。「そうだったのか」
「もう行っていいか」
と、マルティンが訊く。「オットーが死んで、ともかくホッとした」
「あんな死に方でも?」
と、美奈は訊いた。
「当然の報いだよ。——僕も覚悟はできている」
そう言ったとき、突然、屋上に銃声が響いたと思うと、マルティンが腹を押えて倒れた。
利根は、美奈を自分の後ろへかばって、「出て来い!——永井。お前だな」
と叫んだ。
洗濯したシーツやパジャマが干してある中、風にはためくシーツのかげから、ゆっくりと永井が顔を出した。
永井の手には、軍用のモーゼルが握られていた。
「永井……。お前がマルティンの言っていた〈日本人〉だな」
永井は静かに肯いて、
「もとはほんのジョークさ」
と言った。「東ドイツのリポートを書くために、やっと許可を取って、地下鉄のために掘られたトンネルへ入った。しかし、予算不足で、レールも敷かれないまま、何年も放置されていた」
「それを利用して、金儲けしたわけだ」
「偶然なんだ! 案内してくれた仏頂面の将校に、別れぎわ、『西側まで掘ってあれば、亡命請け負いの商売ができますね』と言ったのが、向うの印象に残ったらしい。——数日後、突然その将校が私服で僕のアパートを訪ねて来た」
「そして、商売を持ちかけた」
「うん……。僕も半信半疑だったが、言われたらいやとは言えない。——一度やると、あまりに簡単に次々引っかかる人間がいるのでびっくりした」
「分け前を取って、人々を死へ追いやっていたんだな」
「そのときはいないからな。前もって案内するまでが僕の役目さ」
「永井——。わざと殺されるようなことを俺に言っておいて、奥さんも殺したんだな」
永井は少し顔をしかめて、
「つい口を滑らしたんだ。女房はおしゃべりだったし、僕はこっちで恋人ができていたんでね。オットーが僕を狙ってくると分ってたんで、時機を見て、女房を殺して、僕も消息不明のまま、新しくやり直すつもりだったんだ」
「永井、お前——」
「おっと! 妙なことはやめてくれ。君を殺したくないんだ。黙っていると約束してくれたら——」
「信用できるか。——お前が野川も殺したんだろう」
「野川さんは自分で死んだんだ。本当だ」
「彼をそうさせたのは、アンナが悲惨な死に方をしたからだ」
「アンナが……」
永井は、ため息をついた。「僕はアンナに惚《ほ》れていたんだ」
「だが、アンナは野川を愛した」
「そうなんだ。——野川は、いつも僕より上《うわ》手《て》を行っていた。僕は野川にいつもかなわなかった」
と、永井は言った。「野川が、当局ににらまれて、東側へ入って来られなくなった。アンナが沈み込んでいたので、僕はうまく西へ逃がしてやれると持ちかけた」
「アンナは信じたのか」
「ああ。野川に会えるなら、どんなに危険でも行っただろう。僕は——本当にアンナを逃がしてやろうと思っていた。その代り——一度だけ、一度だけでいいから、アンナを抱きたかった……」
「それを拒まれたんだな」
「舌をかんで死ぬ、と言われて、僕は謝った。——そのとき、アンナへの想いが、憎しみに変ったんだ」
「そして彼女を撃った。しかも、一発では殺さずに、手や足を狙って」
「どうして知ってる?」
永井の顔が紅潮した。「それだけの屈辱を受けてたんだ」
「人間のやることか、あれが」
「利根さん。口のきき方を気を付けてくれ。ここでその女の子と一緒に死ぬつもりか?」
「この子に何の罪があるんだ!」
「ともかく、〈トンネル〉のことまで知ってるんじゃ、生かしておけない。——オットーも死んだらしい。マルティンも。これで、君らがいなくなりゃ、僕は新しい生活を始める」
すると、美奈がパッと利根の前に出て、
「この人を殺さないで!」
と、訴えるように言った。
「おやおや。利根さんも隅に置けないな」
と、永井は笑った。「こんな小さな子に手を出してたのかい?」
「美奈ちゃん——」
「利根さん、私の好きなようにさせて」
と、美奈は言って、真直ぐ永井を見つめると、「私を好きにしていいわ。利根さんを殺さないで」
「美奈ちゃん! 何を言うんだ!」
「面白いな」
永井はニヤリと笑って、「いくつだ?」
「十七よ」
「いい年齢だ。——よし、言うことを聞くんだな」
「そう言ったわ」
「じゃ、ここで服を脱いでみろ」
美奈は、利根から二、三歩離れると、手早く服を脱ぎ始めた。
永井も、一瞬呑まれた様子で、美奈の白い肌を見つめた。
マルティンが——永井の視界から一瞬外れていた——起き上って、体ごと永井にぶつかった。
「こいつ!」
永井は、銃口をマルティンの背中へ当てて引金を引く。
しかし、マルティンは、力を緩めなかった。永井の小柄な体は、マルティンの両腕に抱え上げられた。
「離せ!——こいつ!」
永井は暴れたが、マルティンは構わず、屋上の手すりまで永井の体を運んで行った。
「やめろ!——よせ!」
永井の体が、手すりを越えて、次の瞬間、向う側の空間へと消えていた。
短い叫び声が、すぐに消えてしまうと、マルティンはその場に崩れ落ちた。
「マルティン!」
利根が駆け寄って、「すぐ医者を連れてくる! 待ってろ!」
立ち上ろうとする利根の手をマルティンがつかんで、
「もういい……。むだだ」
と、首を振った。
美奈が急いで服を着ながら、マルティンのそばへ来ると、
「起き上ろうとしているのが見えたの」
と言った。「——ありがとう」
「勇敢な——娘さんだ」
と、マルティンは喘《あえ》ぐように息をつきながら、「君のお母さんに……こんなことを話しちゃいけない……」
「——うん」
と、肯いて、美奈はマルティンの手を握った。
「良かったよ……。君を助けてあげられて……」
マルティンの体から力が抜ける。
「お医者さん、呼んでくる!」
美奈は、思い切り勢いよく駆け出した。
永井は顔を上げた。
——どこだ。ここは?
俺は……確か、病院の屋上から投げ落とされたんだ。
それなのに……。
辺りは暗い。——凍《こご》えるような寒さだった。
ふしぎだ。
体のどこも痛くない。骨も折れていないらしい。
ツイてるな、俺は……。
ゆっくりと立ち上って、永井は周囲を見回したが、暗がりに目が慣れていない。
ともかく、どこかへ——。
歩き出したとたん、犬の激しく吠《ほ》える声に仰天した。
同時に、サーチライトが永井の上に滑って来て止った。
その瞬間、永井には分った。
ここは——〈壁〉だ。〈ベルリンの壁〉だ。
「撃つな!」
と、両手を上げて、永井はドイツ語で叫んだ。「亡命しようとしてるんじゃない! 撃つな!」
次の瞬間、機銃弾が永井の体を貫いた。
「——どうしてだ!」
目を見開いた永井は、ひと言そう言うと、その場にゆっくりと倒れた。
軍用犬が、なおも吠え続けていた。
そして放たれた犬たちは、まだぼんやりと意識のある永井の上に、襲いかかったのだった……。