昼休み。珍しく風のない暖い日だった。
公園のベンチに腰をおろして、利根は、池の周囲に群れる鳩を眺めていた。
「——お邪魔しても?」
と、声がして、隣に座ったのは、国原という刑事だった。
「ああ、刑事さん。——どうしてここへ?」
「例の女子大生殺しですがね」
と、国原は言った。「犯人が落として行ったと思われるライターを、つい見落としていたんです。それを、被害者の友人の女子大生が持って来てくれまして」
「それはまた……」
「面目ない話ですよ」
と、国原は首を振って、「その指紋から、犯人が割り出せたんです」
「誰です?」
「それが——あの大騒ぎになった、病院のエレベーターで見付かったバラバラ死体。あの男の指紋と一致したんです」
「ほう」
「オットー・リンデンというドイツ人で、部屋から金髪のカツラも見付かりました」
「そうでしたか」
「あなたはあのとき、病院にいたんですな」
「ええ、居合せました」
「どうして、と訊《き》きたいところですが、女子大生殺しは解決してしまった。あのオットーという男は、どうもかなり危い仕事をしていたようでね。犯人を挙げるのは難しいかもしれません」
国原の言い方は未練たっぷりだった。
「——利根さん。あのオットーという男について、何か知っていることは?」
利根は首を振って、
「残念ながら……。あんな殺し方は、普通の人間じゃできないでしょう」
「全くです。——世の中、ふしぎなことはあるもんですな」
国原は、少し間を置いて、「ご一緒だった彼女はお元気ですか」
「今、ここへ来るところです」
「おや、それではお邪魔してもいけませんな!」
国原は立ち上って、「それでは」
と、会《え》釈《しやく》して立ち去った。
入れ違いに、説子がやって来る。
「ごめんなさい。病院が混んでて」
と、説子はベンチに腰をおろすと、「——やっぱりそうだった」
利根は微笑んで、
「そうか!」
と言うと、説子の肩を抱いた。
「男の子と女の子、どっちがいい?」
「どっちでもいいさ」
利根は、説子の頬《ほお》に素早くキスした。
「ちょっと! みんな見てるわ」
と、説子は赤くなった。
——今日は、検査の結果が出て、妊娠がはっきりしたのである。
説子は、心から幸せだった。
——妙な出来事が続いて、不安にさせられもしたが、それも何とか終ったようだ。
そもそも、利根の子を宿したのも、妙な出来事のおかげだ。説子も、あの〈壁〉のかけらを捨ててしまったことを、今は後悔していた。
でも、利根が何も言わない限り、自分から言い出す必要もないだろう。——子供が生れたら、それどころじゃなくなる。
挙式も近い。今の説子には、すんだことを考えるより、これからしなくてはならないことが山ほどあった。
「ぶらぶらと戻るか」
と、利根は立ち上った。
二人は腕を組んで歩き出した。
——利根は、美奈からあの〈壁〉の破片を返してもらったとき、一瞬は説子に腹を立てたものだ。
しかし、却《かえ》って美奈にたしなめられてしまった。
「利根さんの身が心配で、捨てたんだよ。絶対に説子さんの目につかない所にしまっといてね」
利根は、高校生の美奈の方が、むしろ自分には近いのかもしれないという気がした。
しかし結婚は現実だ。——そして、現実との折り合いをつけるのが少し苦手な利根には、説子が一番似合っているのである。
「それに、もうあの〈トンネル〉に行きたくないから、返すの」
という美奈の気持も、もっともだった。
あの〈壁〉は、また引出しの奥深く眠ることになった。しかし——何もかも片付いて、あの〈壁〉はもう血を滴らせてもいない。
ただ、死んだ親友の思い出として、やがて忘れていくことだろう……。
「ハネムーンのクーポン券、もらって来るわ!」
と、説子が突然言った。「先に戻ってて!」
「おい——」
説子の後ろ姿は、たちまち人の間へ消えてしまう。
思い立ったら、早いんだからな。
利根はちょっと青空を見上げて、会社のビルへと戻って行った……。
「——オス」
と、美奈は手を上げた。
「やあ」
カールが、ベッドに座って窓の外を眺めていた。
「ずいぶん顔色良くなったね、ちょっと見ない内に」
「ちっとも来なかったな」
「テストだったんだもん」
美奈は、カールの髪の毛をいじって、「ちょっと切ってやろうか?」
「よせ! いじるなよ」
と、カールが怒る。
面白くて、わざと怒らせている、というところもあるのだ。
美奈は、
「お弁当買って来たよ。食べる?」
と、紙袋を見せる。
「うん!」
カールも食べ盛りで、病院の食事では、とても足りないのだ。
「じゃ、お茶いれてくるね」
美奈は、ポットを手に、病室を出た。
——給湯室で、ポットにお湯を入れていると、ふと人の気配に振り向く。
黒い髪の、きれいな女性が立っていた。
「アンナさん?」
と美奈が訊くと、
「カールに……やさしくしてくれて……ダンケ・シェーン」
と、微笑んで言った。
「元気ですよ、カール。ドイツ人の家で、養子にしたいって言って来てるらしいけど。——当人、どうなるのかな」
「あなたにお礼を言いたくて……」
「そんなこと……」
美奈はちょっと照れて、目を伏せると、「私も失恋したばっかりで、カールとやり合ってると楽しいんです」
と言った。
顔を上げると、もう、アンナの姿はなかった。
夢?——いいえ、そうじゃない。
美奈は、どうやら「別の世界」へつながる道を知っているらしいのだ。
それは、怖くもあるが、一方では絶対に手離したくない、宝物でもあった。
「——マルティン」
と、美奈は言った。
マルティンが、給湯室の入口に立っていたのである。
「元気そうだね」
と、マルティンは言った。
「うん。——そっちは、少しは慣れた?」
「まあね。何しろ、こっちじゃ、もう年齢をとらないからね。急ぐこともないんだ」
「あ、そうか」
「お母さんは、どうしてる?」
と、マルティンは訊いた。
「忙しいよ。特にこの十日くらい、夜中に帰ってくる」
「体に気をつけろと言ってくれ」
「マルティンがそう言ってた、ってね」
と、美奈が笑った。
「お母さんが心配するよ」
「大丈夫。今ね、マルティンの代りにパートナーになってる人と仲良くしてるよ」
マルティンの顔から笑みが消えた。
「じゃ……僕のことは、もう忘れてる?」
「どうかな。——でも、ちゃんとマルティンの写真、飾ってるし」
「そうか」
「それに新しいパートナーは、同じ年《と》齢《し》の、女の人」
「何だ!」
マルティンが息をついて、「おどかすなよ!」
「お化けがやきもちやいて、どうすんの」
と、美奈はからかってやった。「じゃあね! カールがお腹空《す》かしてるから」
「美奈ちゃん、お母さんに時には僕のことを——」
美奈は、病室へ戻って行った。
「何よ、もう!」
呆《あき》れたことに、カールは、ほとんどお弁当を食べ終えていたのだ。
「だって、腹減ってさ!」
美奈は苦笑した。
カールは確かに生きているのだ。
「お茶も飲んでよ」
美奈のお腹も、カールにつられたように、グーッと鳴った。
美奈も生きている手応えを、間違いなく感じていたのである。