「きれいな部屋」
と、少女は、中へ入って見回すと、「ここ……お一人なんですか?」
「うん。もちろん。どうして?」
と、剣崎は訊《き》いた。
「だって……」
と、少女がベッドの方へ目をやる。
なるほど。ツインルームなので、ベッドが二つ並んでいるのだ。
「二人用の部屋を、一人で使ってるんだ。疲れるからね」
「へえ。もったいない」
少女は何《なに》気《げ》なくそう言ったのだろうが、剣崎はドキッとした。そう、もったいないからね、泊って行けば?
「まあ、座《すわ》りたまえ」
と、小さな応接セットの方へ手を振って、「何もないけど——」
「いいんです」
少女は、シャンと背筋を伸《のば》して、端然と椅子《いす》に座った。——その姿も、惚《ほ》れ惚《ぼ》れするほど美しい。
「こんなに遅い時間に出歩いて、大丈夫なの?」
と、剣崎は、少女と向い合った椅子に身を任《まか》せて、言った。
「はい。うち、親がいないんで」
「いない?」
「事故で亡《な》くなったんです」
「へえ、そいつは……」
「弟と二人で住んでます。だから、いくら遅くても、叱《しか》られることないし」
「そうか。しかし大変だねえ」
剣崎は心からそう言った。健《けな》気《げ》に生きる美少女、というやつには、特別弱い。
「でも気楽です。二人だけっていうのも」
「うん……。しかしねえ……」
ふと、目《め》頭《がしら》が熱くなる。——やたら涙もろいのも性格である。
「剣崎さんって本名なんですね」
と、少女が言った。
「うん、そうなんだよ。変った名前だろ?」
「この町に、前にもいらしたでしょ?」
「前に?」
剣崎は、ちょっと考えて、「——ああ! そうか。撮影じゃなくて、何かのキャンペーンだったかな」
「ええ。一年くらい前に」
「そう。そうだったね」
と、剣崎は肯《うなず》いた。
そうか。この少女に言われるまで忘れていた。それで、このホテルも見《み》憶《おぼ》えがあったのか。
何しろ、剣崎はただ啓子に言われる通りに駆《か》け回《まわ》っているだけで、明日どこへ行くのかもよく知らないのである。
「その時も会ったかな」
と、剣崎は言った。
いや、会っていれば憶えていないわけがない。
「私はお会いしてないんですけど、友だちが——」
「友だち? 君の?」
「そうです。このホテルへ訪ねて来たと思うんですけど」
「そうだったかな……」
剣崎は頭をかいた。「いや、何しろ方々駆け回ってるんでね。すぐ忘れちゃうんだよ。——じゃ、君はその友だちに聞いて?」
「ええ、その子の代りに来たんです」
と、少女は立ち上った。「あ《ヽ》な《ヽ》た《ヽ》を《ヽ》殺《ヽ》し《ヽ》に《ヽ》」
少女がポケットからナイフを取り出すのを見て、剣崎は目を丸くした。反射神経も、どっちかといえば鈍《にぶ》い方だが、こういうときは別である。
「ワッ!」
と飛び上ると、「おい、君! 落ちついて!」
「みっともないわね、いさぎよく死になさいよ!」
少女がナイフを突き出して来る。のけぞった剣崎は、椅子《いす》ごと後ろへ引っくり返った。
「——助けて! 人殺し!」
と、隣の部屋の壁を、ドンドンと叩《たた》いた。「ケイ! 助けてくれ!」
「逃げるな!」
「おい、落ちついて——」
どっちが落ちつくんだか分りゃしない。
剣崎は、ベッドへ飛び上り、床に転《ころ》がり落ちて、何とか逃げ回った。
「ぼ、僕が何をしたっていうんだ!」
「白ばっくれて! ルミ子はあんたのために死んだのよ!——あんたも後を追いなさい!」
「——待て! 待ってくれ!」
剣崎は、ハアハア息を切らしながら、「そんな——そんな子のことは——」
「忘れたっていうの? それなら、ますます許せない!」
と、ナイフが空《くう》を切る。
「キャッ!」
剣崎は四つん這《ば》いになって、逃げ回った。
何しろ、逃げるといっても狭い部屋の中である。ドアを開けて出るには、少女が間近に迫り過ぎている。
「誰《だれ》か来てくれ!——誰か!」
剣崎が喚《わめ》いた。
と——ドアにガン、と凄《すご》い音がしたと思うと、鍵《かぎ》が吹っ飛んで、誰かが転がり込んで来た。
「ウーン」
と、うめいて気を失ったのは——カメラマンの太田である。
「待ちなさい!」
水浜啓子が飛び込んで来た。——風《ふ》呂《ろ》に入っていたところを飛び出して来たので、裸にバスタオル一つ巻きつけただけである。
唖《あ》然《ぜん》としている少女の手から、パッとナイフを取り上げた。
「——た、助かった!」
剣崎が、ヘナヘナと床に座《すわ》り込んでしまった。
「こいつ——人殺しだ! 一一〇番!」
「どっちが人殺しよ!」
と、少女が、剣崎にかみつくように言った。「ルミ子をあんな目に遭《あ》わせて! ルミ子、自殺しちゃったんだからね!」
「そんなこと、僕は知らない!」
と、剣崎がわめく。
「ちょっと静かにして」
と、啓子が顔をしかめて、「他のお客に迷《めい》惑《わく》でしょ」
「それどころじゃないだろ! 僕を殺そうとしたんだぞ!」
「大体、こんな若い女の子を部屋へ入れるのが間《ま》違《ちが》いなのよ」
と、啓子がピシャリと言った。「びっくりして廊《ろう》下《か》へ出たら、こいつが——」
と、のびている太田を見《み》下《お》ろして、
「何だかオロオロしてるの。だから、一緒にドアに体当りしたのよ。——私とドアの間に挟《はさ》まれて気絶しちゃったみたいね」
少女はベッドに座《すわ》り込んで、
「警察へでもどうぞ突き出してちょうだい」
と言った。「覚悟はできてるわ」
「ともかく、隣の部屋へ行きましょ」
と、啓子が促《うなが》した。「剣崎さん、早く寝てよ。明日は早いんだから」
「こんなときに寝られるかって」
と、ふくれている。
「眠らせてあげる?」
啓子がグイと拳《こぶし》を突き出すと、剣崎はあわてて、
「分った! 寝る!」
と、ベッドへ飛び込んだ。
「——こ《ヽ》れ《ヽ》を廊下へ出して、と」
太田の両足をつかんで、廊下へズルズルと引きずり出し、「ま、風《か》邪《ぜ》引くぐらいは、カメラマンなら我慢しなきゃね」
と呟《つぶや》いた。
カメラからフィルムを出して、パトローネから全部引張り出して感光させ、
「返すわよ」
と、ポンと投げておいて、「さ、あなた、こっちへ来て」
少女は、ふてくされた顔で、肩をすくめると、言われたままに、啓子の部屋へ入った。
「——こっちはシングルだから狭《せま》いけどね」
と、啓子はドアを閉めて、「ま、ベッドにでもかけて」
「あなたは?」
「私? 水《みず》浜《はま》啓《けい》子《こ》。剣《けん》崎《ざき》隼《はや》人《と》の付き人をやってるの」
「用心棒?」
「まあ、そんなとこね」
と笑って、「——ハクション!」
と、派《は》手《で》にクシャミをした。
「あらあら、こんな格《かつ》好《こう》でいたら、風邪引いちゃうわ。——私、お風呂の途中だったの。失礼して入って来るから」
「——どうぞ」
と、少女は、やや呆《あつ》気《け》に取られた様子で、言った。
「そうだ。ねえ、あなたも入らない?」
「私?」
少女が目を丸くする。
「そう。剣崎と追いかけっこして、汗かいたでしょ。さっぱりして話しましょうよ。大分気の持ちようも変って来るわ」
「でも——」
「いいから。ね?」
と、啓子は、少女を引張って一緒に狭いバスルームへ入ると、「まだお湯、そんなに冷めてないと思うのよね」
と、さっさとバスタオルを取って、湯の中へ身を沈めた。
「——うん! ちょうどいいわ。気持いいわよ。あなたも入ったら?」
あまり大きな浴《よく》槽《そう》ではない。少々体を持て余した感のある啓子は、ヤッと足を出して、浴槽のヘリにのっけた。
見ていた少女が、思わず笑い出した。
「——何かおかしい?」
「だって……。そこへ私が入ったら、お湯、溢《あふ》れちゃう」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ。——まだこんだけ余《よ》裕《ゆう》あるもの」
と、お湯の表面と、浴槽のヘリの十五センチほどの差を指で測《はか》って、「あなた一人なら溢れない」
「溢れますよ」
「じゃ、賭《か》ける?」
「賭ける、って——何を?」
「あなたが入って、お湯が溢れなかったら、あなたは、何もかも事情を話して、総《すべ》て私に任せる。溢れたら、あなたは自由に帰っていい。——どう?」
少女は、ちょっと唇《くちびる》を結んで考えてから、
「受けた!」
と言うと、パッと服を脱《ぬ》ぎ出した。
「——ドブンと入っちゃいけないのよ。そっと……。そう。ほら、この間へ足を入れて。——ゆっくり沈むのよ。——そうそう」
小さな浴槽は、ただでさえ大柄な啓子と、小柄とはいえ十六、七の女の子が二人で入ったのだから、身動きもできないくらい、一《いつ》杯《ぱい》になってしまった。
しかし、お湯は、ぎりぎりまで上って来たものの、わずか二、三ミリのところで溢れなかった。
「ほら、私の勝ち!」
と、啓子が言った。
「残念!」
少女が息をついた。
そして——二人して顔を見合わせ、一緒に笑い出したのだった。
「——あなたって面《おも》白《しろ》い人」
と、少女が言った。「私、永《なが》谷《たに》聡《さと》子《こ》です」
「水浜啓子。『ケイ』って呼ばれてるわ。——あなた、可愛《かわい》いわね。タレントに、とか誘われたこと、ない?」
「向いてませんもの」
と、少女は言った。「でも、ちょっと窮《きゆう》屈《くつ》ですね」
「そうね。私、もう体は洗ったの。先に出てるから、ゆっくり入ってらっしゃい」
よいしょ、と啓子が起き上って、浴《よく》槽《そう》を出ると、
「アアッ!」
少女——永谷聡子は足が滑《すべ》って、引っくり返った。
「あら、大丈夫?」
「ええ。——何とか」
頭までお湯につかってしまった永谷聡子は、むせながら体を起こした。「お湯、足します」
啓子が出たので、すっかりお湯が少なくなってしまったのだ。
「ごゆっくり」
啓子は微《ほほ》笑《え》んで、「私、このタオルで拭《ふ》くから、あなた、バスタオル使ってちょうだい」
「でも——」
「いいのよ」
啓子が出てしまうと、少女は蛇《じや》口《ぐち》をひねってお湯を出した。——不《ふ》思《し》議《ぎ》に素直な笑みが、その愛らしい顔に浮かんでいた……。
「——永谷聡子さんね」
と、啓子が言った。「事情、話してもらえる?」
「ええ」
永谷聡子は肯《うなず》いた。
「ジュース、飲んで」
冷蔵庫から取り出した缶ジュースをコップに注《つ》いでやる。
「すみません」
と、聡子は言った。「——喉《のど》、乾いてたんです」
「そうでしょう? お友だちが亡《な》くなったとか……」
「はい。去年、剣崎隼人がここへ来たときです」
聡子は、ちょっと息をついた。「ちょうど今夜の私のように、ルミ子は——東《あずま》ルミ子っていうんですけど——このホテルへやって来ました」
「ファンだったの?」
「ええ、熱《ねつ》烈《れつ》な。——私は、割とさめてるというか……。両親亡くして、弟と二人ですし、そんなことに夢中になってる余裕ないんです」
「そりゃそうでしょうね」
と、啓子は肯いた。
「でも、ルミ子が喜ぶからと思って、私にも、サインもらって来てよ、と言いました。ルミ子、『絶対にもらって来るからね』って言って——」
聡子は、ふと言葉を切る。
「何があったの?」
「すぐには分りませんでした。その日は私、アルバイトで忙しくて……。次の日は日曜日だったので、お昼近くまで寝てたんです。私、弟に起こされて——お腹《なか》空《す》くと、うるさいんです」
聡子は、ちょっと微《ほほ》笑《え》んだが、その笑みは、すぐに消えた。「で、お昼を食べてから、思い出しました。ルミ子のこと。それで……」
「——ルミ子、いますか」
と、聡子は、ルミ子の家の玄関へ入って、出て来た母親に訊《き》いた。
「それがね……」
と、母親は心配そうに、「まだ帰らないのよ」
「出かけたんですか」
またどこかへ行ったのかしら、と思った。剣《けん》崎《ざき》隼《はや》人《と》は、今日どっかよそへ行っちゃってるはずだけど。
「いえ……。ゆうべから帰らないの」
「ゆうべから?」
聡子も、これにはびっくりした。
ルミ子は、甘えん坊のところがあって、気が小さい。結構遊びにも出るが、それでもこんな小さな都市では、夜九時にもなれば行く所もなくなってしまう。
「決して、夜遊び、外泊なんて、する子じゃなかったのに……」
と、母親も、どうやら一睡もしていないらしく、目を赤くして言った。「聡子さん、あの子がどこに行ってるか、分りません?」
聡子は、ちょっと迷った。スターの所へ行っているとは言いにくいので、ルミ子も、黙って出たらしい。
「私、ちょっと捜してみます」
と、聡子は言って、東ルミ子の家を後にした。
といって——どこを捜せばいいのやら……。
しかし、まず、剣崎隼人に会いに行ったことははっきりしているのだから、そのホテルへ行くしかない。
ホテル——といっても、そんなに大きくはない。この町で唯《ゆい》一《いつ》の近代的ホテルではあるけれど。
聡子たちのような高校生には、ちょっと入りにくい場所でもあった。
しかし、今は、そんなこと言っていられない。
ホテルの前まで来ると(といっても、歩いて十分ぐらいのものなのだ)、顔を知っている近所の人が、玄関の掃除をしていた。このホテルで働いているのである。
「こんにちは」
と、聡子が声をかけると、ホースで水を流していた手を止めて、
「やあ。珍《めずら》しいね」
と、笑顔を見せた。
「ねえ、あの——剣崎隼人って、ここに泊ったんでしょ?」
「ゆうべね。何だ、もう行っちゃったよ。もう少し早く来てくれりゃ良《よ》かったのに」
「ううん、私は別にいいの。ただ——」
と、言いかけて、聡子は口をつぐんだ。
ホテルから、フラッと出て来たのは、ルミ子だったのだ。
何だかぼんやりして、すぐ目の前にいる聡子にも気付かないようである。
「ルミ子……」
と声をかけると、
「——ああ、聡子」
と、表情のない声で言って、「どうしたの?」
「どうした、って……。ルミ子今までどこにいたの?」
ルミ子が、急に、足早に歩き出した。聡子はあわてて、
「待って! ルミ子!」
と、後を追う。
二人は、町の中の公園に入ったところで、足を止めた。
ルミ子が、ドサッとベンチに腰をおろす。何だか、疲れ切った大人のような座《すわ》り方だった。
聡子は、少し離れて座ると、ルミ子が口を開くのを、待っていた。
「——ごめんね」
と、ルミ子が言った。
「え?」
「サイン、もらってあげるの、忘れちゃった……」
「そんなこと、いいのよ。でも、ルミ子、どうしたの? ゆうべ、帰らなかった、ってお母さんから聞いて……」
「帰れない……」
「——ルミ子」
「私、帰れない」
と言うと、ルミ子は両手で顔を覆《おお》って、泣き出した。
「ルミ子……。ルミ子、しっかりして! 私がついてるから。——ルミ子」
聡子は、ルミ子の肩を抱いて、ギュッと力をこめた。
「つまり——」
と、啓子は言った。「剣崎に乱暴された、と……」
「ええ。部屋へ入れてくれて、お酒をすすめられたんだそうです。もちろん、アルコールなんて全然飲んだこともないルミ子ですから、フラフラになって……」
「まあ」
「気が付いたときは……服を脱《ぬ》がされて、部屋の床《ゆか》に転《ころ》がってたそうです」
聡子は、一つ息をついて、「——でも、ルミ子、落ちついて来たので、私もそのことは誰《だれ》にも言わない、と約束して、交通事故みたいなもんだから、忘れようって……。ルミ子も一度は明るくなったんです。ルミ子のお母さんにもうまく事情を話して」
「それで?」
「でも——三か月して、ルミ子は、妊《にん》娠《しん》してることに気が付いたんです」
啓子は、言葉がないようだった。
「ルミ子、充《じゆう》分《ぶん》気を付けて、遠くの町のお医者さんに行ったんです。私も付《つ》き添《そ》って。でも——やっぱり、パッと話が広まって……」
「それで……」
「ルミ子——川へ身を投げて……」
聡子の目に涙が浮かんだ。いかにも気《き》丈《じよう》な子である。めったなことでは泣くまい。
聡子はすぐに涙を拭《ぬぐ》って、
「私、黙っていました。——そのときに剣崎のせいだと言っても、誰も聞いてくれなかったでしょう」
「そうね」
「自分でも、責任、感じてたんです」
と、聡子は首を振って、「あのとき、すぐに訴えていれば……。でも、ルミ子も、人にそんなこと知られるの、たまらないようだったし、私もそれに同調して……。だから、私にも責任があることなんです」
「そんなことないわ。あなたがしたようにするのが当然よ」
「そうでしょうか。でも——」
と、言いかけて、「ともかく、許せないのは剣崎です。私、必ずいつか仇《かたき》を討《う》ってやろうと思いました。ルミ子の代りに。大人《おとな》になったら、東京へ出て、必ず会うチャンスを作って、と……」
「それが意外に早く来た、ってわけね」
「そうです」
聡子は両手をギュッと握《にぎ》り合せた。「殺せなかったけど、でも、いいんです。私、警察で何もかもしゃべります。剣崎のこと。マスコミが飛びつけば、あの人ももう——」
と言いかけて、
「あなたには……すみませんけど」
「ううん。私はそりゃ、剣崎の付き人だけど、あの人がそんなことをしたのなら、女として許せないものね」
と、啓子が言うと、聡子は、
「本当にいいんですか?」
と、目を輝かせた。
「構《かま》わないわ。——事《ヽ》実《ヽ》なら」
「え?」
「残念だけど、あなたのお友だちをそんな目にあわせたのは、剣崎じゃないわよ」
と、啓子は言った。
聡子はキッと啓子をにらみつけて、
「嘘《うそ》つき!」
と、鋭い声で言った。
「信じないかもしれないけど——」
「信じないわ!」
「待って。——私、そのときも、剣崎と一緒にここへ来ていたわ。今夜と同じように、隣《となり》合《あわ》せに部屋を取った。どうしてか分る? そういう事件を防ぐためなの」
「でも——」
「あなたが彼の部屋へ入ったのは、私がお風《ふ》呂《ろ》へ入っている間でしょ?」
「ええ。——あのカメラマンが、その方がいいって」
「前にもつまみ出されてるから、分ってるのよね」
と、啓子は肯いた。「でも、あなたとの騒ぎを、私、ちゃんと聞きつけたでしょ? そのルミ子さんという子、部屋へ入って、お酒をすすめられ、酔ったところを乱暴されたんでしょうけど、それだけのことが、十分や十五分の間には起るわけないわ」
啓子の言葉に、聡子は、眉《まゆ》を寄せて、
「でも、それじゃ、一体——」
「たぶん、これは想像だけど、ルミ子さんを部屋へ連れ込んだのは、剣崎じゃなくて、一緒にいたスタッフの中の誰かだと思うわ。——剣崎が来るから、と、ルミ子さんに、アルコールをすすめて、もうすぐ来るから、って……。酔ったら、もうわけが分らなかったでしょうからね」
聡子は、完全には納《なつ》得《とく》できない様子だった。
「でも、その中に剣崎がいたかもしれないわ」
「そうね。その可能性はある」
と、啓子は認めた。「ただ、これは——あなたには信じてもらえないかもしれないけど、剣崎は、そんなことのできる男じゃないの」
「でも——」
「分ってるわ」
と、啓子は肯《うなず》いて、「あの人はプレイボーイで有名。でもね、本当は気が小さくて、結構お人好しなのよ」
聡子は、キュッと唇《くちびる》を結んだ。
「そう。あなたにしてみれば、私は剣崎の側の人間だし、信じられないでしょうね」
と、啓子は言った。「でも、スターってものは、たいていは作られたイメージなの。本当は、全然違うタイプの人が多いのよ」
「それぐらい、私にも分ります」
「そうね。あなたは頭のいい子だし。——でも、私は二年間、ずっと剣崎と一緒に行動して来て、あの人のことなら、ほとんど分ってるわ」
啓子は、ちょっと剣崎の部屋の方へ目をやって、
「ほら! 聞き耳立ててるくらいなら、こっちへいらっしゃい!」
と言った。
聡子が目をパチクリさせていると、ドアをノックする音がした。啓子が立って行って開《あ》けると、剣崎が、きまり悪そうにして入って来る。
「——ね?」
と、啓子は言った。「普通の奥さんなら、旦《だん》那《な》が出勤している間のことは分らないでしょ。でも、この仕事だと、ほとんど丸一日、一緒にいるわけ。女房より、よほどよく知ってる、と言えると思うわ」
「話、聞いたよ」
と、剣崎は言った。「——友だちは、気の毒だったね。でも、それは僕じゃない。本当だ」
「でも、私のことを、部屋に入れたわ」
「そうよ」
と、啓子は剣崎をにらんで、「日ごろの行いで、こういうときに信用してもらえなくなるのよ」
「うん……」
剣崎は頭をかいた。
「ただね、聡子さん」
と、啓子は言った。「確かにこの人、お調子者で軽薄で、女の子にすぐコロッといくって人だけど、それは相手が積極的に寄って来た場合なの。そうでない子を、酔わせて手ごめにするなんてことは、しない人よ」
「うん。——ま、僕もあんまりいばれたもんじゃないことは承知してる。でも、そんな卑《ひ》劣《れつ》なまねはしないよ。信じてくれ」
聡子は、とても信じられない様子で、啓子と剣崎を交互に見ていた。
「——いいわ」
と、聡子は、しばらくしてから言った。「私にも、本当にあなたがやった、って証拠があるわけじゃないんだし。でも、だからってこのまま、放っておけない」
「当然よ」
と、啓子が肯《うなず》いた。「私たちで、本当の犯人を捜しましょう」
「捜すって? どうやるんだい?」
「去年、一緒に回ったスタッフは、調《しら》べりゃ分るわ」
「うん……。しかし——なじみの連中ばかりだぜ」
「でも、その中に、そんな卑劣なことをした奴《やつ》がいるのよ。私だって、見《み》逃《のが》しちゃおけないわ!」
と、啓子が拳《こぶし》をドンとテーブルに叩《たた》きつけた。
「壊《こわ》すなよ。——しかし、どうやって調べる? 訊《き》いてしゃべりゃいいけど……」
「しゃべりっこないわ。立派な犯罪だし、立証できなくても、そんなことがどこかで記事になれば、この世界でやっていけなくなるもの」
「うん。——難《むずか》しいな」
「そこを、何とか調べるのよ。時間はかかるかもしれないけど」
「私がやるわ」
と、聡子が言った。「その人たち、教えて下さい」
「無理よ。それに、スタッフといっても、私たちの事務所の人ばかりじゃなくて、よそのスタッフも色《いろ》々《いろ》入ってる。その人たちが、今どこにいて何をしてるか。それをまずつかむだけでも大変よ」
「そんなこと言って、私に諦《あきら》めさせるんでしょ」
「違うわ」
と、啓子は首を振った。「ねえ。——今、考えたんだけど、あなた、私たちと一緒に来ない?」
「一緒に?」
聡子は目を丸くした。
「ええ。だって、犯人を捜すとしたら、やっぱりそういう人たちのいる所へ行かなきゃ。——弟さんと二人?」
「ええ……」
「弟さん、いくつ?」
「十四ですけど」
「身軽でしょ? じゃ、一緒に東京へ行きましょうよ。二人の住む所ぐらい手《て》配《はい》してあげるわ」
「でも……」
「そうするといいよ。僕のことも見張っていられる」
「この人は放《ほ》っといていいの。私が責任を持って、あなたの働き口も見付けてあげる」
「だけど……」
「費用は、剣崎にもたせりゃいいのよ」
「おい——」
「あなたの名前で、女の子が一人、人生をめちゃめちゃにされたのよ。それぐらい罪《つみ》滅《ほろ》ぼしだと思いなさい」
啓子に言われて、剣崎は、情ない顔で、
「分ったよ」
と言った。「経費になるかな……」
「——どう?」
訊《き》かれて、聡子、少し考えていたが、
「分りました」
と、言った。「行きます。明日、弟に話して、急いで仕《し》度《たく》しますわ」
「じゃ、約束ね。——犯人を見付けるまで、私たち、力を合わせて行きましょう」
啓子と聡子が、手を握り合った。
「やあ、白くて可愛《かわい》い手だね」
と、剣崎が手を伸すと、聡子はその手をピシャリと叩《たた》いて、
「あなたは、まだ完全に疑いが晴れたわけじゃないんですからね!」
と言った。
啓子が、笑いをかみ殺して、
「ほら、早く寝て。明日のロケは早いのよ」
と、剣崎をつついてやった。