「おい! まだか!」
監督の峰川の声は、苛《いら》立《だ》ちを通り越して、すでにヒステリーの域《いき》に達していた。
「もうちょっと待って下さい」
と、返事が返って来る。
「畜《ちく》生《しよう》!——同じことばっかり言うな!」
峰川は、タバコを地面へ叩《たた》きつけて、ギュッと靴で踏みにじった。
「参《まい》りましたね」
と、啓子は言った。
「うん……。君の方は?」
と、峰川が訊《き》く。
「確かめておきました。二時の列車に乗れば間に合います」
「そうか。それにしても……」
もう十二時を回っている。——このロケ地から、駅まで車で十五分としても、二時の列車に間に合わせるためには、一時四十分には撮影を終えておく必要があるのだ。
「朝からかかって、たったワンシーン! 全《まつた》く!」
と、峰川が顔を真《まつ》赤《か》にしている。
「——今夜のTVがなきゃ、もっとお付合いするんですけどね」
と、啓子が言っていると、剣崎がやって来た。
「おい、どうなってんの?」
「仕方ない。まだアカネの頭痛が治《おさま》らないんだ」
「もう何時間頭痛がしてるんだ?」
と、剣崎は顔をしかめた。「こっちは無理して六時に起きて頑《がん》張《ば》ってるのに」
「いばらないの」
と、啓子が言った。「私が叩き起こしただけじゃないの」
ロケ地には見物人がつきものだ。
小さな湖のほとり、なかなかきれいな所で、春の陽《ひ》射《ざ》しもほどよい暖かさ。天気にも恵まれ、風もない、と絶好のロケ日和《びより》なのだが……。
剣崎の相手役、緑《みどり》アカネが、朝から頭痛がするといって、車から出て来ないのである。
一応、周囲の風景や、剣崎一人のカットは撮《と》り終えたのだが、後は、相手役なしではどうにもならない。
見物人たちは、何だか分らないので、ザワザワとしているばかり。
一人、苛立っているのは監督の峰川なのである。
緑アカネのマネージャーが、走って来た。
「おい、どうだ?」
と、峰川が言った。「もうかからないと時間がない」
「分ってるんですが……。どうにも頭痛がひどくて、出られない、と言うんです」
「じゃ、どうしろっていうんだ?」
「ここは一つ——改めてロケに来るか、設定を変えて、スタジオで——」
「おい! 冗《じよう》談《だん》じゃないぞ。ここでなきゃ話が成り立たないんだ!」
「でも、無理なものは……」
と、マネージャーも困り果てている。
「ねえ」
と、啓子が低い声で言った。「頭痛じゃないんでしょ、本当は」
「え?」
マネージャーがギクリとした。
「セリフを憶《おぼ》えてないんじゃない?」
マネージャーは頭をかいて、
「実は——そうなんです」
「やれやれ……」
と、峰川はため息をついた。「カットごとに撮るんだ。一言二言のセリフだぞ」
「二日《ふつか》酔《よい》もあるんです。で、とても憶えられないって——」
「僕一人で芝居するのかい?」
と、剣崎は言った。
「ともかく、まだ撮影は始まったばかりだ。今からそれじゃ——」
「監督」
と、啓子は言った。「大きなパネルにセリフを書いて、読ませましょう」
「だめですよ」
と、マネージャーが言った。「彼女、凄《すご》い近視ですから。それに、この見物人の前でそんなことをしたら……」
「あ、そうか」
啓子も腕組みをした。「困ったわね」
「ともかく、このロケは一回きりしかできないんだ。ここで二人が会ってくれないと、話にならん」
峰川は、湖の方へ目をやって、「——仕方ないな。誰《だれ》か、代りに立っててくれ。後《うし》ろ姿で行こう。セリフは後で入れる」
「でも、顔は?」
「うむ。——別に撮《と》ってはめ込むさ。それしかない」
ひどいことになってしまった。
「僕はどうすりゃいいんだ?」
と、剣崎が両手を広げて、「黙ってる相手と演技するのかい?」
「できるでしょ」
「そりゃできるけど……。テンポが食い違うよ」
「誰かにしゃべらせりゃいい。——おい、カメラの位置を変えるぞ!」
と、峰川は、カメラマンの方へ歩いて行った。
「ここじゃだめですか?」
「二人の位置が悪い。一方が完全に後ろ姿でないとな。——見せてみろ」
と、峰川はファインダーを覗《のぞ》いた。「おい、だめだ、これじゃ。見物人が入ってるじゃないか」
「すみません。すぐ——」
「おい! 待て!」
「はあ?」
「待て!」
峰川は、じっとファインダーを覗いていた。レンズをズームさせて、
「——おい、ケイ! ちょっと来てくれ」
と、啓子を手招きする。
「何です? カメラをかつぐんですか?」
「そうじゃない。——覗いて見てくれ」
「私が?」
「そうだ」
啓子はファインダーに目を当てた。
「——あら」
永谷聡子が、ちょうどフレームに入っている。ボストンバッグを下げて、隣にいる男の子としゃべっていた。きっと、あれが弟だろう。
「その子、どう思う?」
「どう、って……」
「いいじゃないか」
「ええ。可愛《かわい》いですね」
「いくつかな。十七か八か」
「それくらいでしょ」
「——どうだ。あの子を使おう」
峰川の目は輝《かがや》いていた。
「使うって?」
「剣崎の相手だ」
啓子は目をパチクリさせて、
「でも——無理ですよ。緑アカネの後ろ姿にしちゃ、あの子、ほっそりしてますもの」
「代役じゃない! 役者として、やらせてみるんだ」
啓子はポカンとして、
「——素人《しろうと》に?」
「素質がある。俺《おれ》には分る」
「でも……」
啓子は、少し考えてから、「——賛成ですわ」
と言った。
「ありがとう!」
峰川は、ニヤッと笑って、「君、連れて来てくれないか」
「ええ、いいですよ」
「ただ、代りに立ってるだけだと言って、OKさせるんだ」
「セリフは?」
「その場で何とか教え込む」
啓子は、面白くなって来て、大急ぎで見物人たちの方へ走って行った。
「どうも」
と、聡《さと》子《こ》が頭を下げた。「これ、弟の恵《けい》一《いち》です」
ピョコンと頭を下げた恵一は、あまり姉には似《に》ていない。メガネをかけた秀才タイプである。
「ね、聡子さん、ちょっと来て」
「どこへですか?」
「こっち。——いいから」
と、戸《と》惑《まど》っている聡子を引張って行く。
「——うん、なかなか立ち姿がいい」
峰川の言葉に、聡子は何だか照れくさそうに、
「こうやって立ってりゃいいんですか?」
と訊いた。
「そう。——おい、剣崎! 出番だ」
「はいはい」
と、剣崎がやって来て、「やあ」
と、微《ほほ》笑《え》む。
「似《に》合《あ》うよ」
「何だか変だわ」
と、聡子は、着せられたコートと、ハイヒールを見下ろして、「歩きにくいし」
「仕方ないよ。二十三歳の役だからね」
「立ってればいいんですね」
「——おい、剣崎、しゃべってみてくれ」
と、峰川が声をかける。
「はい。——君にとって、この湖はどんな意味を持っていたんだろう。答えてくれないか」
聡子は、ただ突立っている。
「なるほど」
と、剣崎は肯《うなず》いて、「じゃ、もう何もかもすんだことなんだね。——何だって?」
「どうかしました?」
と聡子が目を丸くする。
「いや、そういうセリフなんだ」
「あ、ごめんなさい」
と、聡子は頭をかいた。
「——監督。やっぱり、セリフをしゃべってくれないと、やりにくいよ」
「やっぱり無理だわ、私なんか」
と、聡子がコートを脱ごうとする。
「いや、待った」
と、峰川がやってきた。「——君、もの憶《おぼ》えはいい方?」
「私ですか? そう悪くもないです」
「じゃ、一つセリフをしゃべってみてくれないか」
「私が?」
「後で、女優の声と入れかえる。しかし、一応ちゃんとしゃべってくれないと、間《ま》が取れないんだ」
「セリフって、どんな……」
「これだよ。——この赤い印《しるし》が君だ」
「こんなに長いのを?」
と、聡子は目をみはった。「一度にずっと通してやるんですか?」
「うん、そうだ」
峰川の言葉に、剣崎が目を見開いた。細かくカットを割って、撮るはずなのだ。
「じゃ、すみません。十分ください。その間に憶えてみます」
と、聡子が言った。
「いいとも」
峰川は微《び》笑《しよう》した。
聡子は、台本を手に、弟と啓子のいる方へ歩いて行った。
「——おい」
と、峰川は、剣崎へ、「あの子とうまく合わせてくれ。できれば使いたい」
「やってみるよ。——少なくとも二日《ふつか》酔《よい》の、セリフも入ってないのより、やりやすいや」
と、剣崎は言った。
——十分、正確にたつと、聡子が戻って来た。台本を峰川へ返して、
「一通り、憶えました」
「すまんね、無理言って。——ちゃんと感情をこめて、本当に芝居するつもりでやってくれ」
「学芸会以来だわ」
と、聡子は、照れたように言った。
——啓子は、峰川が、スタートの声をかけるのを、じっと見守っていた。
聡子は、驚《おどろ》くべき才能を発《はつ》揮《き》した。全《まつた》くセリフをとちらないばかりか、剣崎のセリフまで憶えていて、面《めん》食《く》らった剣崎がつまると、ちゃんと教えてやるぐらいだった。
もちろん、感情をこめるといっても、素人《しろうと》だからぎこちないところはあるが、しかし、セリフがはっきりと聞き取れるのは、びっくりするほどだった。
通してテストをした後、峰川は、半《なか》ば呆《ぼう》然《ぜん》として、
「カット!——いや、君……いい声をしてるよ」
と、やっとのことで口を開いた。
「合唱やってたんです」
と、聡子は言った。
「そうか。よく通る声だ」
「こんなぐあいでいいんですか?」
「うん。——そうだな。このところをね、少し低いトーンでやってくれないか」
——峰川の説明を聞く聡子を見ていて、啓子は、まるでプロの役者を見ているような気がした。
「お姉ちゃん、役者になりゃいいや」
と、弟の恵一が言った。
「ねえ。私も同感」
「お姉ちゃん、シェークスピアの『ロミオとジュリエット』、全部暗記してるんだよ」
啓子は目を丸くした。
時間のたつのも忘れて、峰川は、聡子への指導に熱中していた。
啓子は、時間を気にしてはいたが、もし二時の列車に間に合わなければ、連絡を入れておこう、と思った。とても、今の峰川を邪《じや》魔《ま》する気にはなれない。
「——よし! 本番!」
と、峰川が怒《ど》鳴《な》った。
——演技はスムーズに進んだ。
カットを割るはずだったのを、峰川は、レールを敷いてカメラを動かし、ワンカットで撮ることにしていた。
二人の会話は、ごく自然な情感で運ばれ、やがて、剣崎が、聡子の肩を抱いて、湖に向って立つ後ろ姿……。
「——いいぞ」
と、剣崎がそっと囁《ささや》いた。
「あんまり力を入れないで」
と、聡子が低い声で言った。
「君は天性の役者だ」
「私はただのアルバイト」
「そうじゃない。——分らないのか? 峰川は本当に君を使う気だ」
「まさか……」
「君にとっても、悪くない」
「——どういう意味?」
と、聡子は訊《き》いた。
「去年、ここへ来たスタッフの中に、峰川もいたからさ」
剣崎の言葉に、びっくりした聡子が動きかけた。
「じっとして!」
と、剣崎は言った。
「——カット!」
と、峰川の声が飛んだ。「すばらしい! OKだ!」
聡子は振り向いた。——啓子が、手を振って、大きくウインクして見せる。
聡子の人生が、大きく変った瞬《しゆん》間《かん》だった。