バスルームからは、シャワーの音が聞こえている。
太《おお》田《た》一《かず》哉《や》は、欠伸《あくび》をしながら、ベッドに起き上った。
「何だ——ウトウトしちまったのか」
やれやれ。ぐっすり眠り込まなくて良かった。せっかく、彼女とこのホテルへ入るところまでこぎつけたのに、眠っちまっちゃ、元も子もない。
疲れているのは確かである。何しろ同じカメラマンでも、スタジオで女性のヌードを撮《と》っているのとはわけが違う。
太田は、写真週刊誌に、あれこれスターのゴシップ写真をのせているのだ。
そう。——永谷聡子と剣崎隼人の写真をとろうとして、あの「女用心棒」にのされてしまったカメラマンである。
「やれやれ……」
と、太田は、伸びをした。
今でも、あの時の写真は惜しかった、と思っている。まさかあの女の子が、こんな大スターになるとは、思ってもいなかった。
あの写真が、もし手もとにあったら、今なら、大評判になっただろうに……。
しかし、今さら、あんな話を週刊誌へ持ち込んでも、出し遅れの証文に過ぎない。それに……。ひどい目には遭ったが、太田は個人としても、永谷聡子のファンなのである。
あの時もびっくりするほど可愛《かわい》かったけれど、今はさらに輝きを増して、たまにTV局などで見かけても、ちょっと近寄りがたいほどだ。
まあ、差し当りは、あの子も忙しくて男どころじゃあるまい。しかし、一年もすれば、当人も大分色気づいて来る……。
色気か。——彼女、シャワーを浴びてるんだな。
そうだ。一緒に入ってやろう。
やっとここまでこぎつけたんだ。大いに活用しなきゃ。
実際、ここまで持ち込むために、高いフランス料理やドライブ、観劇など、ずいぶん金をつかっている。このホテル代ぐらい、どれほどのものでもない。
シャワーを浴びりゃ、目も覚めるしな。
太田は、服を脱《ぬ》ぐと、バスルームへ入って行った。——シャワーカーテンが引いてあって、その向うでぼんやりと人影が動いている。
そうだ……。そっと近寄って、ワッとおどかしてやろう。
含み笑いをしながら、太田は、そっとカーテンに手をのばした。
それ!
サッとカーテンを開けると、目の前にあったのは、編集長の、かみつきそうな顔だった!
「貴様! 写真はどうしたんだ!」
「ワッ!」
裸《はだか》で太田は引っくり返って——。
ハッと目が覚めた。
「畜《ちく》生《しよう》……。夢か!」
と、胸をなでおろす。
それにしても——リアルな夢だったな。
「そうか……」
起き上ったベッド、そして部屋の中の様子は、夢で見たのと同じだった。
そうだ。——彼女とここへ来たのは本当だったんだ。
しかし、彼女の姿はなかった。そして、バスルームの方でも、シャワーの音はしていない。
太田は頭を振って、ベッドから出た。——彼女、どこにいるのかな?
テーブルの上に、何やらメモらしいものがあった。取り上げて、目をこすりながら読んでみる。
〈シャワー浴びてる間にグウグウ寝ちゃうような人、とてもじゃないけど相手できないわ。さよなら!〉
太田は、時計に目をやった。——六時だ。
六時? ホテルへ入ったのが夜の十一時ごろだから……。朝《ヽ》の《ヽ》六時までぐっすり眠ってたのか!
「——畜生!」
ホテル代が丸《まる》損《ぞん》である。
しかも、悪いのはこっち。彼女が怒《おこ》って帰ってしまったのは当り前だ。
太田は頭に来て、椅子《いす》をけっとばし、向うずねを打って悲鳴を上げた……。
——太田が、カメラを入れたバッグをかかえて、部屋を出ようとしたのは、三十分後のことだった。
せめて、風呂ぐらいは入って行こう、というので、たっぷり入浴していてのぼせてしまったのである。
「やれやれ……」
太田は、これまでの投《ヽ》資《ヽ》が、総《すべ》てむだになったことを考えると、やり切れない気分だった。それもこれも、日頃が寝不足のせいだ!
畜生! 編集長に一《いつ》杯《ぱい》おごらせてやる。
太田はドアを開けて、ふと、いつものくせで、部屋の中に忘れものはないか、見回した。
その時、ちょうど、隣のドアが開く音が聞こえたのである。
「——誰もいないかしら?」
と、女の声がした。
はてな? あの声は……。
どこかで聞いたぞ、と太田は思った。
同時に、ドアをぎりぎりまで細く開けて、そっと廊下を覗《のぞ》いた。
「——大丈夫らしいよ」
男の声だ。その声にも、聞きおぼえがあった。
「本当? ちゃんと確かめてよ」
女の方はかなりびくついているらしい。
「よし、ちょっと待ってろ」
男が一人で廊下へ出て来た。太田はドアをきっちりと閉めた。
このドアは外を覗く穴がついていないので、細く開けて見るしかないのである。
足音が、ドアの前を通り過ぎて、また戻って来る。
その時になって、太田はやっと、あの声の主に思い当った。しかし——しかし、ま《ヽ》さ《ヽ》か《ヽ》そんなことが!
芸能界のたいていの噂には通じている太田である。しかし、こ《ヽ》の《ヽ》二《ヽ》人《ヽ》のことは、耳にしたこともない。
これがもし本《ヽ》物《ヽ》なら……。
「大丈夫。——誰もいない」
「そう。じゃ、出ましょう」
女の声が答える。「あ、待って。腕時計忘れちゃった」
太田は、バッグを下ろして、中から急いでカメラを出した。レンズシャッター付きの小型カメラだ。
一眼レフのフォーカルプレーンに比べると、レンズシャッターは、切ったときの音が小さいので、隠しどりには向いているのだ。
手が震《ふる》えた。——こいつは凄《すご》い! めったなことで、こんな場面にはお目にかかれないぞ!
「待ってろよ……。待っててくれよ……」
フィルムは——入っている!
よし。一発勝負。二枚はとれない。
二人がエレベーターで下りるとすると、その前で待っているところが、狙《ねら》い目だろう。
太田は、隣のドアが閉る音を耳にした。
「——行こう」
「ええ」
二人は向うへ歩いて行く。角を曲って、エレベーターがある。
もう、いいかな……。
太田は、ドアをそっと開けた。二人が、角を曲って姿を消すところだった。
太田は靴を脱《ぬ》ぐと、ドアが閉じないように、挟《はさ》んでおいた。
靴下の方が、足音もしないので便利だ。
早くしないと——エレベーターに乗ってしまったらおしまいだ!
太田はカメラを手に、そっと曲り角へと近付いて行った。
「——今日は何時の仕事?」
と、女が訊《き》く。
「十時からだ。帰って少し休めるよ」
「私はだめ。台本を見ておかないと……」
角から、そっと顔を出してみる。
二人は、斜《なな》め後ろを向いて立っている。
これなら気付かれる心配はないだろう。カメラの距離計を、勘でセットする。絞《しぼ》りは少し絞り気味。
できるだけピントを深くしておきたいのだ。
明暗は、現像で救える。
「——のんびりしたエレベーターね」
と、女が言った。
「来たよ」
太田はレンズを覗かせた。二人の横顔がファインダーに入っている。
ガラガラ、とエレベーターの扉《とびら》が開くと同時にシャッターを切った。すぐに引込む。
やった!
エレベーターの扉が閉る音がした。
息を吐《は》き出し、急いで部屋へと戻った。
「——凄《すご》いぞ! こいつはボーナスものだ!」
興《こう》奮《ふん》していた。カメラをバッグへ入れ、靴をはいた。
いや、すぐに出たら、下で出くわすかもしれない。
太田は、ベッドのわきの電話で、写真週刊誌の編集部へかけた。
どんな時間でも、誰《だれ》かいるはずだ。
「——はい、もしもし」
と、眠そうな声。
「あ、カメラマンの太田ですが。デスクはいる?」
「ちょっと待って……。寝てるよ」
「そうか。じゃ起きたら伝えてくれ! トップを空《あ》けといてくれって」
「トップ?」
「凄いのをとった! 正《しよう》真《しん》正《しよう》銘《めい》だよ。今からそっちへ行く! 三十分だな」
「三十分ね……」
「それまでにデスクを起こしといてくれ」
太田は、電話を切った。
五分待った。——もう大丈夫だろう。
向うも、いつまでもこんな辺《あた》りにうろついているわけがない。
「とんだ拾いものだ」
太田は、すっかりいい気分で、口《くち》笛《ぶえ》など吹きながら、部屋のドアを開けた。
目の前に、男が立っていた。
「——写真をとったね」
と、男が言った。
「いや……」
「フィルムを渡してもらおう」
太田は、とっさに考えた。——何とかごまかすんだ。
「でも——」
「早く出してくれ」
「分った。分りましたよ」
太田は肩をすくめて、バッグを開けた。中から、一眼レフを取り出すと、フィルムを巻き取る。
「——残念だなあ」
「全《まつた》くだね」
と、男は言った。
太田は、フィルムを取り出すと、男に渡した。
「フィルムは消せるがね——」
と、男はフィルムをポケットに入れて、「君の記憶は消せない」
突然、男の両手が太田の首をがっしりと捉《とら》えた。そのまま床へ押し倒された太田は、振り離そうともがいたが、その抵抗は、ほんのわずかしか続かなかった。
「——ツイてなかったな」
と、男は、息を弾《はず》ませながら、立ち上った。
ドアが開き、閉じる。
小型カメラは、太田のバッグの奥に、そのまま押し込まれていた。
「——おはよう」
昼ごろ起き出して来た聡子は、啓子の顔を見て、言った。「遅刻かと思って、焦《あせ》っちゃった」
「日曜日よ」
「そうなんですね。何だか曜日の感覚がなくなっちゃって……」
聡子は大欠伸《あくび》をした。
「——ファンにゃ見せられないね」
と、弟の恵一がからかった。
「馬《ば》鹿《か》!」
「今日は夜の撮影よ」
と、啓子が言った。「夕方までのんびりしましょう」
「でも、インタビューが入ってたんじゃないんですか?」
大体、平均して日に二、三件のインタビューが入る。
これほど世の中に雑誌が沢《たく》山《さん》あるということに、聡子は唖《あ》然《ぜん》としたものだ。
「まとめたの。マネージャーの特権でね」
と、啓子はニヤリと笑った。「三人で、おいしいもんでも作って食べよう」
「嬉《うれ》しい! ありがとう、啓子さん!」
聡子は、啓子の首に抱きついた。
「——こっちも抱きついていいよ」
という声に振り返ると、剣崎が立っている。
「ちゃんとチャイムを鳴らして、って言ってるでしょ!」
と、啓子がにらんだ。
聡子は、パジャマ姿のままなので、あわてて、寝室へ駆《か》けて行った。
「いや、もう起きてると思ったんだ。——やあ恵一君、テストは?」
「まあまあ」
と、恵一が言った。「この間教えてくれたとこ、間違ってたよ」
剣崎は咳《せき》払《ばら》いした。——聡子がセーター姿で出て来る。
「おい、見たか、今朝のニュース」
と、剣崎が言った。
「誰《だれ》か、また離婚したの?」
と、啓子がコーヒーをいれながら、訊いた。
「そんなんじゃないよ。太田ってカメラマン、憶《おぼ》えてるだろう?」
「ああ。例の、聡子ちゃんと会った時にいた奴《やつ》ね」
「啓子さんにのされちゃった人ね。——あの人が何か?」
「また訴えられたの?」
「いや。殺された」
——啓子と聡子は、顔を見合わせた。
「嘘《うそ》……」
「本当だ。ホテルで絞《し》め殺されているのが見付かった。昼のニュースでもやるよ、きっと」
啓子がTVをつけた。
「犯人は?」
「分らないらしい。——カメラから、フィルムが抜かれていた」
「それじゃ……」
TVのニュースをしばらく見ていると、太田の事件が取り上げられた。
「ホテルだったのね」
と、啓子が肯《うなず》く。「でも——問題じゃない、これ!」
「どうしてですか?」
と、聡子はピンと来ない様子だ。
「つまりね、太田は君も知っている通り、芸能ネタのカメラマンだ。たまたま女とホテルへ入って、いざ出ようとした時、誰《ヽ》か《ヽ》を見たんだな」
「その誰《ヽ》か《ヽ》が、太田って人を殺したんですか?」
「フィルムが抜かれてるってのは、それしか考えられないよ」
と、剣崎は言った。
「だけど……」
聡子が、信じられないという顔で、「恋人と一緒の所を写真にとられたからって、殺すなんてこと——。そこまでやるかしら?」
「人によるだろうな。フィルムを出せ、出さないで争いになれば……。カッとなりゃ分らないぜ」
「何だか、見てたようなこと言うのね」
と、啓子がからかう。「さてはあんたがやったの?」
「よせよ。このか《ヽ》よ《ヽ》わ《ヽ》い《ヽ》男を捕《つか》まえて」
と、剣崎が澄《す》まして言うと、「お昼をごちそうになりたいね。——いいだろ?」
「いいけど、高いわよ」
と、啓子は言った。「恵一君、そこのスーパーへ行って、これ買って来てくれる?」
「OK! 任《まか》しといて」
恵一はメモを啓子から受け取ると、「あそこね、今日は調味料とトイレットペーパーが安いんだよ。少し買って来とく?」
「じゃ、お願い。ケチャップとみりん」
「了解」
恵一がさっさと財《さい》布《ふ》を手に出て行く。
「さて、こっちはお鍋《なべ》を用意して、と」
啓子は台所へ入って行く。
「私も手伝う!」
聡子も喜んでエプロンをつけた。
「聡子ちゃん、でも、手をけがしたりしちゃいけないから、包丁は持たないでね。——お肉、冷凍庫から出して解凍してくれる?」
「はい」
——ポケッと見ていた剣崎は、感心した様子で、
「恵一君も君も、よくやるねえ」
と言った。
「ずっと二人でやって来たから。恵一はね、スーパーの特売日を憶《おぼ》えるのが特技になっちゃったんです」
「へえ」
「ま、そこで突っ立ってる誰かさんより、よっぽど役に立つってもんよ」
と、啓子が言った。「これを火にかけて、と——。お昼は軽くスパゲティにしましょうね。夕食にたっぷり時間をかけて……」
「撮影中に眠くなりそう」
と、聡子が笑った。
「そういえば」
と、剣崎が椅子《いす》を引張って来て腰をおろすと、言った。「松原市朗のプロで、本編を一本やりたいって、社長に話があったらしいぜ」
「へえ! じゃ本気だったのかしら」
と、啓子は言った。「この前スタジオに来たとき、そんな話をしてたのよ」
「うまく行くかもしれないぞ。社長割と乗り気だし」
「あなたも出るの?」
「おい」
と、剣崎がふてくされて、「僕が出ないで誰が出る!」
「何を気《き》取《ど》ってんのよ」
「ま、僕も聡子君も、ってことさ。井関真弓も出るらしいけど、聡子君に食われるだろうな」
「でも、私、時代劇なんて、やったことないわ」
と、聡子が笑った。「正座する練習しなくちゃ」
「時代劇じゃないよ。現代物さ。サスペンスだって」
「あら」
「時代劇は金がかかり過ぎるって。本当は、やりたいんだろうけどね」
「じゃ、具体的な企《き》画《かく》なの?」
「うん。監督、峰川大吾。——悪くないだろう? 峰川さんも、久々の本編で、泣いて喜ぶよ、きっと」
「ね……、待って!」
と、啓子がパチンと指を鳴らした。「例の話——聡子ちゃんとの約束、これで一気に果せないかしら?」
「というと?」
「これがうまく行けば、松原、峰川、それにあなた。去年の例のキャンペーンで一緒だったメンバーが何人も揃《そろ》うわ。他のスタッフも、去年と同じになるように揃えるのよ」
「それなら、撮影中に犯《ヽ》人《ヽ》捜しができるわ」
聡子も目を輝かせた。「ねえ! それ、何とか実現してみましょうよ!」
「だけど……」
「何よ、あんた、いやだっていうの?」
「凄《すご》むなよ。——僕はいいけど、しかし、撮影中に、もし、あの一件の犯人が分ったとして、それで映画がお流れになったら、どうする?」
「大丈夫です」
と、聡子は言った。「私、プロの俳優ですもの。たとえ誰がルミ子を死なせたか分ったとしても、映画が完成して、公開されるまで、決して口にしません」
「でもそいつと演技しなきゃいけないかもしれないんだぜ」
「分ってます」
聡子は肯《うなず》いた。「割り切ってやります。——映画は私一人のものじゃないんですから」
「よし!」
啓子がポンと聡子の肩を叩《たた》く。「それでこそプロ!——ね、剣崎さん、あのときのスタッフ、集めるようにプロデューサーにかけあってよ」
「簡単に言うけどね——」
「約束したでしょ、この子に」
とにらまれ、
「分ったよ」
と、剣崎は両手を上げた。「じゃ、憶《おぼ》えてる限り、連絡を取ってみよう」
「すぐ電話!」
「はいはい」
逆《さか》らってもむだと分っているので、剣崎はおとなしく居間へと歩いて行った。
——聡子たちがスパゲティをゆで上げ、皿に盛っていると、ちょうど恵一が帰って来た。
「あ、ちょうど良《よ》かったわ。恵一君、食べようよ」
「うん」
恵一は、買物の袋《ふくろ》を、ドサッとテーブルに置いて、
「お客だよ」
「お客さん?」
「玄関にいる。——表に立ってたから、引張って来ちゃった」
「まあ。誰?」
「刑事だって」
聡子と啓子は、顔を見合わせた。