「ぼ、僕を尾行?」
剣崎の顔が真《まつ》赤《か》になった。「失《しつ》敬《けい》な! どうして僕が——」
「あのホテルの常連だという証言があったもんですからね」
と、刑事に言われて、
「それは——」
と、剣崎もぐっと詰《つま》った。
「だから、日ごろの行いが問題なんだよ」
と、恵一が言った。
啓子は吹き出しそうになったが、
「——刑事さん。まあ、剣崎はあのホテルへよく行ってるかもしれませんし、太田ってカメラマンともトラブルは起してます。でも、おとといの夜は、九州だったんですから。私もついて、ロケへ行ってました。プロダクションの方へ確かめて下さい」
「そうですか。いや、はっきりしてりゃいいんです。一応、よくあのホテルを使う芸能人ってことで、片っ端から当ってるだけですから」
見るからに刑事——いや、むしろヤクザかという感じの、がっしりした大男だった。頭も短くスポーツ刈りにしているので、余計ヤクザ風に見える。
ただ、目が細くて、笑わなくても一本の線みたいなので、何だか怖《こわ》くはなかった。
「太田ってカメラマンのことは、よくご存知でしたか」
と、刑事は訊《き》いた。
「僕も何度か狙《ねら》われました。でも、ああいうのと口をきくことはありませんからね」
「私も、た《ヽ》ま《ヽ》に体当りするくらいで」
と、啓子が言うと、刑事は細い目を一《いつ》杯《ぱい》に見開いた……。
「いや、分りました」
と、刑事は手帳を閉じると、「一応、念のためにプロダクションの方へ問い合せることがあるかもしれませんが……。まあ、大丈夫だと思います」
「ご苦労様でした」
「どうも」
——と、これで席を立つのが普通だが、その刑事は、何となくキョロキョロしたり、エヘン、オホン、と咳《せき》払《ばら》いしたりして、一向に立ち上ろうとしない。
「あの……」
啓子が、恐《おそ》る恐る、「まだ何か?」
「いや——まあ、実は、これは今回の事件と特に関係ないのですが……」
「何でしょう?」
「つまり——その——」
刑事は、何だかもじもじしながら、「永谷聡子さんのサインをいただけないか、と……」
「は?」
図《ずう》体《たい》の大きな刑事が真《まつ》赤《か》になっている。啓子は、笑い出してしまった。
「——どうぞ」
聡子が、キャビネ判のポートレートに、サインして差し出すと、刑事はニコニコして、
「いや良かった! これで娘が大喜びする」
「お嬢さんが?」
と、聡子が言った。
「ええ。いや、まだ一歳ですが、やっと」
聡子と啓子が唖《あ》然《ぜん》とすると、
「あ、しまった!——正直に言うと、私がファンなんです」
と、刑事が頭をかく。
大笑いになってしまった。そしてついでに、ここで一緒に昼食を、ということになったのである。
「——じゃ、太田さんって人、居眠りしてて?」
「そうなんです。彼女が呆《あき》れて帰ってしまったんですな」
刑事は、体にふさわしい豪《ごう》快《かい》な食べっぷりで、スパゲティを一皿、たちまち空《から》にしてしまった。「——ごちそうさま」
「お代りでも?」
「いや、それは申《もう》し訳《わけ》も……。じゃ、せっかくですから」
と、結局二皿目をもらって、「朝まで眠っちまったようです」
この刑事、畠《はた》中《なか》という名だった。見かけよりは若く、まだ三十代半ば、ということである。
「僕もあるな、二、三度」
と、剣崎が言った。「ロケ疲れでね。彼女が長《なが》風《ぶ》呂《ろ》でさ、待ってる間にグウグウ……。そりゃ怒《おこ》るよ、相手は」
「しかし、太田にとっては不運でしたな」
と、畠中刑事は首を振って、「そうでなければ、そんな早朝に目は覚まさなかったでしょうから」
「全くだ。——犯人、見当つかないんですか?」
「何しろ、死体の見付かったのが、昨日、午後になってからですからね。他の部屋は、もう他の男女が使っているし、どこの部屋にいたのか、見当がつかないんです」
「なるほどね」
「でも——」
と、啓子が考え込んで、「太田が、わざわざデスクへ電話して、『トップを空《あ》けとけ』と言ったぐらいだから、よほどの大物だったのね」
「そうだなあ。——しかし、今、そんなの、いるかね?」
「それはそうね。考えても、パッとは思い浮かばないから」
今、どのスターも、あの手の写真誌に狙《ねら》われておかしくはない。
「だから、きっと、フィルムをよこせ、と言って争ってる内に、つい殺しちゃったんだろう」
と、剣崎が言った。
「いや、そうではないようです」
と、畠中刑事が言った。
「というと?」
と、啓子が食べる手を休める。
畠中の方は、もう二皿目をほとんど、空《から》にしていた。
「争った形跡はほとんどありません。犯人は、太田が油断しているところを、いきなり首を絞《し》めて殺したんです」
「じゃ、初めから殺すつもりだったんでしょうか」
と、聡子が言った。
「たぶんね。フィルムを取り上げておいて、その上で。——よほど見られちゃまずいカップルだったんだな」
聡子は、少し考えてから、
「変ですね」
と言った。
「何が?」
剣崎がキョトンとして聡子を見る。
「だって、太田は、編集部へ電話したんでしょ? ということは、その時にはもう写真をとってたってことだわ」
「しかし——」
「たとえ隣に誰《だれ》かいると分っても、うまくとれるとは限らないじゃありませんか」
「それはそうよ」
と、啓子が同意した。
「そうやって電話したぐらいですから、もうとった後だったんです。そして、問題の二人は、先にホテルを出る。太田は、たぶん、写真をとって、一《いつ》旦《たん》部屋に戻り、少し間を置いて出るつもりで——」
「その間に編集部へかけたのよ」
「でも、相手は、写真とられたことに気付いて、戻って来たんだわ。——そのときには、殺すつもりだったんですよね、きっと」
「そうでしょうね」
「でも、分らないわ……」
聡子が首を振った。「殺すなんて……。そこまでやるのに——」
「そりゃ、色々事情はあるさ」
と、剣崎が言うと、聡子は、
「いえ、そのことじゃないんです」
と言った。「見られちゃまずい、って人はいくらもいると思います。でも、殺さなきゃいけないほどってのは、よっぽどのことですわ」
「見付かれば、捕《つか》まるとか——」
と、啓子が言った。「そうよ! きっとそうだわ! 女の方が未成年だったんじゃない?」
「そうかもしれませんな」
と、畠中が肯《うなず》いた。
「でも、それならなおさらです。どうして、そんなホテルへ行ったんでしょう?」
聡子の言葉に、啓子も剣崎も、考え込んでしまった。
「おかしいと思いません? だって、こうして刑事さんが剣崎さんの名前を聞いて来て、調《しら》べに来るぐらいですもの。そのホテル、結構、芸能人も使ってるんでしょ?」
「まあね」
と、剣崎が肯く。「近いからね、TV局とか。だから僕はこのところあまり利用しない」
「変なことでいばらないの」
と、啓子がつついた。
「そんな所へ、どうしてそんなカップルが入ったのか、おかしいですよ」
聡子の言葉に、畠中も考え込んだ。
「うむ。——その通り。さすがに星の王女様だ」
聡子がTVでやった役のあだ名である。
——しかし、啓子は、もう一つ別のことを考えていた。
もし、その男が未成年の女の子に手を出したのだとしたら……。ちょうど、去年、東《あずま》ルミ子という子が、誰かの手にかかったように……。
「——本編か」
山内社長は、今一つ、踏み切れない、という様子である。
劇場映画をやるということは、かなりの時間を拘《こう》束《そく》されることでもあるから、売れっ子のタレントは、なかなか出ない。
その間に、いくつもCFやレコード、リサイタルをやれるからだ。
「でも社長」
と、啓子は粘《ねば》った。「聡子ちゃんは役者ですよ。今が大切な時です。ここで一つ、いい仕事をしておけば、これから、持ち込まれる話が違って来ます」
「うむ……」
山内は、古びてギイギイ鳴る椅子《いす》にかけたまま、考え込んだ。
「社長だって、おっしゃったじゃありませんか。『聡子はタレントではない。あくまで俳優だ』って」
「そうだったかな」
と、山内はとぼけたが、「しかし、夏休みのスケジュールはもう一杯だぞ」
「TVドラマの方は単発ですし、話をつけます。レコードは動かせますよ。それに、CF撮りはスケジュールを詰《つ》めれば——」
「もっと忙《いそが》しくなるぞ」
「でも、聡子ちゃんはやりたがっています」
「そうか」
山内は、ため息をついた。「いいだろう。しかし、主題歌は聡子だ。いいな」
「話してみます」
啓子は、元気よく立ち上った。
と、社長室のドアが開いた。
「何だ、ノックをしてから——」
と、言いかけて山内は目を丸くした。「こりゃ——松原さん!」
「やあ」
松原市朗は、啓子を見てニヤリと笑った。
「——私と食事?」
聡子は、いやにドレスアップして、何だか落ち着かない様子だった。
「そう。松原市朗が、二人きりで食事したいって」
啓子は、車の中で、聡子の髪を直してやった。
「断るわけにもいかないしね」
「怪《あや》しいな」
と、剣崎は不《ふ》機《き》嫌《げん》である。「聡子君、大丈夫かい?」
「平気ですよ」
と、聡子は笑って、「何も取って食われるわけじゃなし」
「どうかな。——おい、ケイ、君らしくもないぞ」
「どうして? 高級フランス料理店よ。しかも、帰りはちゃんと私が店まで迎えに行くし。——大丈夫。聡子ちゃんは、あなたとは違うわ」
「変なところで僕を引張り出すなよ」
と、剣崎が渋い顔になった。「おい、聡子君、いざ、となったら、相手の向うずねをけっとばしてやれ。こいつはきくぞ」
「何度もやられたんでしょ」
と、啓子は言った。「——ま、リラックスしてね」
「はい」
と、聡子は微《ほほ》笑《え》んだ。
——店は、静かな、明るい装飾で、女性好みのインテリアだった。
個室に案内されると、もう松原が先に来て待っていた。
「遅くなりました」
と、聡子は頭を下げた。
「いや、こっちが早く着いてね。——よく来てくれた。忙しいだろう」
「ええ。でも……こういう所も、少し慣れないと」
聡子は席についた。そしてハンドバッグから、何やら細長い物を出して、テーブルの上に置いた。布で巻いてある。
「——何だね?」
と、松原が訊《き》いた。
「懐《かい》剣《けん》です」
「何だって?」
「操《みさお》を守るために持ってろ、って啓子さんがくれました」
松原は、目を丸くして、それから大笑いした。
「——いや、あいつにはかなわんな!——大丈夫。そいつはしまってくれ。僕も、可愛《かわい》い女の子は大好きだが、そうせっかちじゃないよ」
「はい」
聡子は素直に、それをバッグへ戻した。
「——今度の話は、どうだね」
メニューを見て、オーダーを済《す》ませると、松原が訊いた。
「社長さんが色々……」
「うん。無理もない。君は今、稼《かせ》ぎに稼いでいるからな」
「でも、私は、どんな役でも構《かま》いません。映画のお仕事は初めてですし、やってみたいんです」
「そう言ってくれると嬉《うれ》しい」
松原は肯いた。「君のような子は、段々少なくなって来た。大事に使いたいね」
個室のドアが開いた。
「あら、ここにいたの」
井関真弓が立っていた。「来てるって聞いたの」
「仕事の打合せだ」
松原は、不機嫌な顔で言った。
「二人きりで?——さぞ、話が進むわね。私は兄と一緒よ。どうぞごゆっくり」
井関真弓は、バタンとドアを閉めた。
「怒《おこ》ってらっしゃるんじゃないんですか?」
と、聡子は訊いた。
「放っとけばいい」
「お兄さんって……」
「真弓の兄だ。小《こ》林《ばやし》準《じゆん》一《いち》だよ」
「知ってます、よくドラマで……。ご兄《きよう》妹《だい》なんですか」
「うん。この世界の人間なら知ってるよ」
「へえ……。似てないなあ」
と、聡子が素直な感想を述べる。
ワインが来た。
「少し飲むか?」
「ほんの少し……」
聡子はグラスに注《つ》がれるワインを、じっと見ていた。
「——今度の映画だが」
と、松原が言った。「君が主役だ。ぜひ、やってくれ」
聡子は、グラスへ出しかけた手を止めて、まじまじと松原を見つめていた。