「どうかしら、私?——ね、啓《けい》子《こ》さん、おかしくない?」
聡《さと》子《こ》は、いつになく神経質になっている。
啓子にも、その気持はよく分った。こんな時に必要なのは、自信をつけさせることだ。
「——驚《おどろ》いた」
と、啓子は、少し離れて聡子を眺《なが》めると、ゆっくり首を振って、言った。
「何が?」
「この一週間で、聡子ちゃん、別人のようになったわね。もう『聡子さん』って呼ばなきゃいけないかもしれない」
「また……」
聡子は、照れたように笑った。
「本当よ。この一週間で、急に大人《おとな》びて来たわ」
「上《じよう》手《ず》なんだから、啓子さん」
と言いながら、聡子は嬉《うれ》しそうだった。
誉《ほ》められて怒《おこ》る人間はいない。誉めて自信がつけば、本当にその通りになることだって珍しくはないのだ。
もっとも、啓子の経験によると、それも人による、というのが事実だった。もともと良くなるだけの余地を持たないタレントを、いくら誉めても、鼻が高くなるばかりである。
しかし、聡子は……。聡子には、予想がつかないほどの、伸びて行く「空間」が用意されていた。
「——じゃ、ともかく、控《ひかえ》室《しつ》へ」
と、啓子が促《うなが》す。
ホテルのロビーを通って行くと、パッ、パッとフラッシュが光る。
「だめ!」
と、啓子がにらむと、カメラマンたちが、
「すみません」
と、ペコンと頭を下げる。
聡子について来るようなカメラマンなら、啓子のことはよく知っているのである。
「すみません!」
と、中学生ぐらいの女の子が二人、駆《か》けて来ると、「握手して下さい!」
聡子は、ファンに対しては、決していやな顔を見せない。快《こころよ》く握手してやって、
「よろしくね」
と、微《ほほ》笑《え》む。
「さ、急ぐからね」
こういう、「通りすがりのファン」から、悪い印象を与えないように聡子を引き離すのも、啓子の仕事の内である。
エレベーターに乗って、階数のボタンを押す。——乗っているのは二人きりだ。
「ホッとするわね」
と、啓子が言うと、聡子も、
「本当」
と、笑顔で肯《うなず》いた。
「ゆうべ、何時間寝た?」
「三時間ぐらい。——興《こう》奮《ふん》してて、なかなか寝つけなくて」
そうは思えない、精気の漲《みなぎ》った顔をしている、と啓子は思った。
本当に、この一週間。——見違えるほど、というのはオーバーでも、聡子は変って来た。
一週間前、正式に聡子の映画デビューが決ったのだ。
松《まつ》原《ばら》市《いち》朗《ろう》のプロが製作。山《やま》内《うち》は、共同製作にしたかったらしいが、資金力が違う。
結局、〈協力〉というタイトルに落ちついた。松原市朗の、隠然たる力のせいか、出演者の交渉もスムーズだったし、スタッフも、集まった。
既《すで》にシナリオは第三稿に入り、今日の製作発表から一週間後にはクランク・インの予定になっている。
「でも、聡子ちゃん」
と、啓子は言った。「井《い》関《せき》真《ま》弓《ゆみ》が一《いつ》緒《しよ》だからね。あの人、あなたのこと、相当頭に来てるから、用心して」
「ええ、分ってます」
聡子は肯いた。
昨日まで、聡子は学校でテストだった。それを終えて、すぐに映画だ。若くなければできない生活である。
啓子にだけは分っている。聡子が、こんなにも興奮しているのは、ただ映画にデビューするからではなく、一年前の約束を——死んだ友人への約束を果すチャンスがやって来たからだということを……。
「——さ、着くわよ」
と、啓子が言った。
エレベーターが、スピードを緩《ゆる》めて、目的のフロアに着くと、聡子は、キュッと顔を引き締めた。——スターの顔になる。
エレベーターの扉《とびら》が開いた。
「聡子ちゃん!」
今日の記者会見のスタッフが、駆けて来る。
「遅くなってすみません」
と、聡子は頭を下げた。
「いや、大丈夫。まだ御《おん》大《たい》が来てないからね」
「松原さん、まだ?」
と、啓子が訊《き》く。
「うん。——あ、控《ひかえ》室《しつ》、こっちだから。きっと、井関真弓がごねてんじゃないかな」
「記者の質問が、あんまり聡子ちゃんに集中しないようにしてね」
「やってみるけど、やっぱり多少は仕方ないよ。今は聡子ちゃんにみんな目が行くからね」
聡子は、足早に、控室へと向った。
「その角を曲った所——」
と言われて、クルッと角を曲った聡子は、誰《だれ》かにぶつかった。
「キャッ!」
「ワッ!」
同時に声を上げて、聡子も、相手も尻《しり》もちをついてしまった。
「聡子ちゃん!」
啓子はあわてた。白のワンピースが汚《よご》れたら……。しかし、急いで立たせると、別に目につく汚れはついていなかったので、胸を撫《な》でおろした。
「ご、ごめん……」
相手も立ち上って、「つい、びっくりして——」
「あ、あなた……」
初対面の「恋人」だった。
映画で、聡子の恋人になる、君《きみ》永《なが》はじめだった。——いわゆるアイドルの一人で、いかにも「坊っちゃん」風の甘い顔つきをしている。
「あ、永《なが》谷《たに》聡子君だね。僕、君永はじめ」
「どうぞよろしく」
と、聡子は頭を下げた。
「こっちこそ」
君永はじめは、ヒョロリとした長身を折り曲げるようにして、「あの——ちょっと、電話かけて来るんで、また後で」
「ええ」
君永はじめを見送って、聡子は、ちょっと笑った。「面白い。いちいち私に断《ことわ》んなくてもいいのに」
「あがってるのよ。あの子も確か映画、初めてだから」
「そうなの?」
「私もよく知らないけど。——ま、何度出たって、上《う》手《ま》くはならないわよ」
「ひどい」
と、聡子は笑って言った。
控室へ入ると、元気のいい笑い声が聞こえて来た。
啓子は、面《めん》食《く》らった。剣《けん》崎《ざき》が先に来ていたのにもびっくりしたが、話している相手が、峰《みね》川《かわ》大《だい》吾《ご》だったのに、またびっくりしたのである。
もちろん、峰川はこの映画の監督だから、当然ここへ来るべき人物だ。ただ、まるで別人のよう——聡子なんかとは、全然違う意味で、別人のように見えた。
「やあ、ケイちゃん!」
峰川が、二人に気付いて飛んで来た。
「監督、ずいぶん張り切ってますね」
と、啓子は冷やかすように、「その赤いシャツ!」
「ちょっと派《は》手《で》だったか?」
と、峰川は、わざとらしく気取って見せた。
「よくお似《に》合《あ》いです」
「聡子ちゃんは、分ってくれる!——どうだろう! これがあの時、ファインダーの中に立ってた子か!」
峰川は、二、三歩退《さ》がって、聡子を眺めた。頭から爪《つま》先《さき》まで、じっくりと眺めたのだ。
「どうです? 自分で掘り当てた宝石は?」
と、啓子は言った。
「俺《おれ》は、とんでもない怪物を掘り出したんだな」
と、峰川は呟《つぶや》くように言った……。
「——座《すわ》れよ」
と、剣崎が手招きする。
聡子も、知っている人間のそばが気楽なのだろう、剣崎と並んで、ソファに腰をおろした。
啓子は、邪《じや》魔《ま》にならないように、控室の隅に立って、中の顔ぶれを見回した。
——もちろん、映画の製作発表に、全部のスタッフ、キャストが集まるわけではない。というより、全部のキャストが決っていないのだ。
撮影スケジュールのずっと遅いシーンだけに登場するような役なら、まだ今から役者を決めておく必要もない。
ここに集まっているのは、そもそもの初めから、企画に加わる面々なのである。
やはり、目立つのは剣崎と聡子の二人、これは当然のことだ。——ああ、それに今、電話をかけて戻って来た、君永はじめ。
確か、まだ十八か九。アイドルスターの年齢は、二、三歳ごまかしてあることも少なくないが、君永はじめの場合は、むしろ逆に、水《ヽ》ま《ヽ》し《ヽ》してあるのではないか、と思うくらいで、至って坊っちゃんくささの抜けないタイプである。
聡子より少し前のデビューで、歌はとても聞けたものではなかったが、ヒョロリと背が高くて、足の長い体つきと、甘いマスクで、そこそこの人気は得ていた。
正直なところ、聡子の相手で映画デビューには、少々役不足という感じだったが、結局出演が決ったのは、君永が、松原市朗のプロダクションに属しているからである。
人は悪くなさそうだわ、と啓子は思った。
今も、聡子の隣に座って、反対側に座っている剣崎が渋い顔をするのにも構《かま》わず、
「ね、君は永谷、僕は君永。『永』の字が共通だね、何か縁があるのかもしれないよ」
などと馬《ば》鹿《か》なことを言っている。
ドアが開くと、部屋の方々から、
「どうも——」
「お世話様です」
といった声が飛んだ。
松原市朗が入って来たのである。ダブルの背広を着こなしている。その腕に軽く片手をかけているのは、言うまでもなく、井関真弓だった。
啓子は、真弓が、部屋へ入って来るなり、聡子の方へ、鋭い視線を投げたのを、見落としてはいなかった……。
「社長!」
と、真《まつ》先《さき》に松原の所へ飛んで行ったのは、君永はじめだった。
小犬が、帰って来た主人の足下へ喜んでじゃれつく、という感じである。
「どうだ、やっとるか」
と、松原は、君永の肩をポンと叩《たた》いて、「しっかり頼むぞ」
「はい」
「ミスキャストだなんて、言われないようにな」
「頑《がん》張《ば》ります」
アイドルが一番多く使う単語といえば、「えーと」と「頑張ります」ではないかしら、と啓子は思った。
もちろん、聡子も、松原が入って来ると同時にソファから立ち上っていた。松原は、さすがに真弓を怒《おこ》らせたくなかったのか、聡子の方には、笑顔で手を上げて見せただけだった。
聡子が、丁《てい》寧《ねい》に頭を下げる。真弓は、松原の腕を引張るようにして、ずっと離れたソファの方へと連れて行った。
「——ああ、待て」
松原は、真弓の手をほどくと、峰川監督の方へ歩いて行った。
「どうも、監督」
松原の方から声をかけたのだ。
「どうも……」
峰川の方も、かなり緊張している。「よろしくお願いします」
「いや、こっちの方こそ。年寄りをいじめないように、お手やわらかに願いたいですな」
二人は笑って、握手を交《か》わした。
ホッとしたような空気が、控室の中に流れた。——正直なところ、みんなも不安がっていたのである。峰川大吾はベテランとはいっても、「巨匠」と言われるような監督ではない。
松原なら、もっと有名な監督とも組める。峰川との取り合せを不思議がる者も少なくなかった。
それだけに、松原がここでどんな態度を取るか、注目されていたのである。
「——会場の用意ができてます」
と、配給を担当する映画会社の宣伝部の人間が、告げ知らせる、という調子で、声を張り上げた。
「そして、ヒロインの少女を演じるのは、今、人気爆発のアイドル、永谷聡子ちゃんです!」
司会者が、オーバーに声を上げると、カメラマンや記者の前に並べられたテーブルの方へと、聡子が歩いて来た。TVカメラのライトが当り、フラッシュが光る。
聡子は、少し緊《きん》張《ちよう》しているのが分る表情を見せながら、自分の席へと歩いて行く。
啓子は、会場の壁にもたれて、その様子を眺めていた。——大丈夫。聡子は落ちついている。
あの、緊張した表情は、もちろん本《ヽ》物《ヽ》だが、その顔を、ちゃんと見せているのは、必要以上にあがっていないからだ。本当にあがってしまったら、意味もなくニコニコするか、青くなってニコリともできないか、である。
その点では、君永はじめの方が、よほどあがっていた。
松原市朗と井関真弓は、もうこんな席など慣れたもので、平然としている。席が離してあるのは、松原の考えだろう。黙って、宣伝の人間がそんなことをするわけがない。
——キャストの側では、松原、剣崎、君永の男三人、そして女は聡子と真弓である。
スタッフとしてテーブルに顔を出しているのは、峰川の他《ほか》に、シナリオの今《いま》川《がわ》公《きみ》子《こ》、そしてカメラマンの宮《みや》内《うち》英《ひで》史《ふみ》である。
今川公子は、一見すると男か女か分らないようなタイプ。髪は短く切って、いつもジャンパーにジーパンという格《かつ》好《こう》で、どこにいてもタバコを喫《す》っている。顔つきも、顎《あご》骨《ぼね》が張っていかつい感じなので、余計に男っぽい。
だから、初めて彼女を見て、男だろうと思っていた記者などは、彼女が急に優《やさ》しい声でしゃべり始めると仰《ぎよう》天《てん》する。
既にシナリオ・ライターとして十五年近いキャリアがあり、年齢は四十を越えていることだけは確かだった。いわゆる売れっ子のライターではないが、書くものは一本芯《しん》が通っている、と定評があった。
今川公子は、松原が持って来たライターである。松原の映画を、これまで二本ほど書いている。
カメラマンの宮内英史は五十代の半ば。穏《おだ》やかな目をして、無口である。峰川とよく組んでいるので、今度も頼まれて参加したのだ。峰川同様、久しぶりの「本編」のはずだった。——みんなと同様、目の前に置かれたオレンジジュースを少しずつ飲んでいる。
「——撮影に当っての抱負を、皆さんに一言ずつ」
司会者の言葉で、啓子は、ふと我に返った。
考えていたのだ。——不思議な運命とでもいうのだろうか。
今川公子が、聡子と松原のために書いたシナリオというのが、一人の少女が、殺された親友の敵《かたき》を討《う》つべく、その死の謎《なぞ》を探って行き、最後に、黒幕の松原と対決する、という話だったのである。
もちろん、既《すで》にシナリオは第三稿に入り、手直しはなされているが、大筋の変更はない。
まるで、聡子は自分自身の姿を、この役の中に見る思いでいるに違いない……。
松原は、当り前の製作意《い》図《と》を、紋《もん》切《き》り型の言葉で述べた後、付け加えて言った。
「久しぶりの本編ですから、少々、勘《かん》が鈍っているかもしれない。ベテランの峰川さんに、少し怒《ど》鳴《な》りつけてもらって、若返りたいもんです」
笑い声が起きた。大スターとしては珍《めずら》しい言葉である。それに加えて、
「その分、髪も戻るといいんだがね」
と言ったので、会場がドッと湧《わ》いた。
峰川が、松原の話で大分気が楽になった様子なのを、啓子はみていた。
君永はじめは、例によって決り文句の、
「一生懸命、頑《がん》張《ば》ります」
これが芸能週刊誌では、「初《うい》々《うい》しい」という表現になるのだ。
井関真弓の番になると、記者たちの方も、少し身を乗り出した。当然、松原との関係も知っているし、聡子にライバル意識をもやしていることも承知だからだろう。
しかし、そこはスターである。
「久しぶりの映画のお仕事で、緊張しています」
と、にこやかに言ってのけた。
記者の方が、
「聡子ちゃんとの共演について一言——」
と水を向けると、
「とてもいい刺《し》激《げき》になると思います」
と、微《ほほ》笑《え》んだ。
「刺激」の一言を、もっと、スポーツ紙や週刊誌が、面白おかしく工夫して書くだろう。
——最後が聡子の番だった。
「永谷聡子です」
と、わざわざ名乗った声は、マイクにそう口を寄せているわけでもないのに、よく通った。
初めて聡子に会った人は、まずたいてい、そのよく通る声と、はっきりした発音で驚《おどろ》く。舌《した》足《た》らずなアイドルのしゃべり方に慣れているからだろう。
そして、
「この子は、ちょっと他のアイドルとは違うな」
と思うのである。
「映画には、ずっと出てみたいと思っていました」
と、聡子は続けた。「でも、ただ可愛《かわい》い子とか優《やさ》しい女の子、といった役はやりたくなかったんです。愛情とか憎しみとか、裏切り、殺意——。青春の中には、何でもあります。そんな青春を描くものに出たいと思っていました。その夢を叶《かな》えて下さった、松原さんに、心からお礼を申し上げたいと思います」
アイドルの挨《あい》拶《さつ》にしては、少々異例である。メモを取る記者たちも必死だった。
あまり意味のない質疑応答の後、写真撮影になった。
——フラッシュが光り、シャッターの音が雨のように降り注ぐ中、一かたまりになって立っている面々……。
あの中に、東《あずま》ルミ子を死へ追いやった男がいるのだろうか?
啓子は、上気したいくつもの顔を、眺めながら立っていた。