しかし、その夜の撮影は、いつになく熱気もあって、順調に進んだ。
結局、撮るつもりのなかったシーンまで、勢いづいて撮ってしまったくらいである。
啓《けい》子《こ》としては、あんな事件の後でもあり、みんな気が乗らないのではないかと気にしていたのだが……。
不《ふ》思《し》議《ぎ》なもので、みんな気にしているからこそ、却《かえ》って仕事に打ち込んで、余計なことを考えまいとするのである。
いつもなら不平ばかり言っている井《い》関《せき》真《ま》弓《ゆみ》までも、峰《みね》川《かわ》が冗《じよう》談《だん》に、
「どうしたんだ、今日は?」
とからかうほど「乗って」いた。
そして、乗って来れば、さすがに真弓も日本の代表的な女優の一人と言われるだけの光るものを見せてくれるのだった。
「——いいことだ」
と、松《まつ》原《ばら》が、腕組みをしながら言った。
「え?」
啓子は、松原がそばにいるのも知らなかったので、びっくりして振り向いた。
「いや、真弓のことさ」
松原は、一つのカットを撮り終えて、カメラの位置をかえる間、のんびりと林の中を歩いていたのだ。
「——真弓さん、今夜はいいですね」
と、啓子が言うと、
「うむ」
松原は肯《うなず》いて、「何より、あの子が、いい刺《し》激《げき》だよ」
「聡《さと》子《こ》ちゃんですか?」
「自分にも、あんなころがあった、と思い出せば、人間、たいていのことはやれるもんさ。特に役者はね」
「でも、もともと光るものを持ってなきゃ無理ですわ」
松原は、ちょっと笑って、
「俺《おれ》はこ《ヽ》こ《ヽ》に持ってる」
と、薄くなった頭を叩《たた》いて見せた。
「まあ」
啓子は笑った。
近寄りがたいと思われているスターが、こんな風に気さくなところを見せてくれると、ホッとするものである。
「——心配なのは、君《きみ》永《なが》だ」
と、松原が言った。「俺《おれ》の目に狂いはない、と言いたいところだがな……」
「光るものが?」
「あると思うかね、ケイちゃんは」
「さあ」
啓子は首をかしげた。
「正直に感想を言ってくれ。——君はああいう新人を、ずいぶん近くで見て来ただろう」
「ええ、まあ……」
「俺はだめだよ。役者だからね。人の素質を見抜くなんてのは、柄じゃない」
「まあ、今のままだと、役者としての大成は難《むずか》しいんじゃありませんか?」
と、啓子は言った。「でも、アイドルタレントとして、そこそこにはやって行けると思いますけど」
「うん。俺もそう思う」
松原が肯いた。「この映画も、やっぱり荷が重かったかな」
「でも、峰川さんが、粘《ねば》ってますから」
「充分な出来とはいえまい。——まあ、いつか詫《わ》びとこう」
松原は、ふと誰かがそばへ来るのに目をとめた。「何だ、小《こ》林《ばやし》君か」
小林準《じゆん》一《いち》である。いつも、役柄が地味なせいもあるだろうが、何となく、どこにいても目立たない男だ。
「どうも」
と、松原に会《え》釈《しやく》すると、「妹がいつも」
「いや、このところ、少々隙《すき》間《ま》風《かぜ》でね」
と、松原が気楽に言った。「言っていなかったかい?」
「そうですね。妹は何とも」
「君の出番は?」
「明日からです」
「そうか。よろしく頼む」
小林準一は、ただ黙って頭を下げると、また、いつの間にか、という感じで、どこかへ行ってしまった。
「——不思議な人ですね」
と、啓子は言った。
「あの男は、好かない」
と、松原が顔をしかめる。
「どうしてですか?」
「何を考えているのか、よく分らないんだ。愛《あい》想《そ》良《よ》くはしてるが、内心、俺のことは憎んでるはずだ」
「まさか」
「本当さ。ただ、俺に逆《さか》らうと損《そん》だと思って、ああしておとなしい」
「真弓さん、やっぱり聡子ちゃんのことで怒ってるんですか?」
「それもあるだろうが、もともと限界さ。わがままなもんだからな。スターなんて奴《やつ》は」
松原は苦笑した。「今、真弓には男がいるはずだ」
「今?——このロケ地にもですか?」
「来ているはずだ。誰だか知らんが、様子を見てりゃ分る。男と寝た翌朝の顔はな」
そうか。それで、今朝、全員の部屋を啓子が調べると言った時、猛《もう》反対したのだ。
たぶん男がいたか、少なくとも部屋の中が、そうと分るようになったままだったのだろう。
でも誰《だれ》が?
もちろん、もし見ていたとしても、畠《はた》中《なか》は何も明かすまいが、それにしても、松原が同じホテルにいると知っていて、真弓の部屋へ忍《しの》んで行くとは、相当の度胸の持主である。
「——啓子さん」
と、聡子がやって来て、松原に頭を下げる。
「いいね。一日ごとに良くなる」
「ありがとうございます」
「どうしたの?」
「汗かいちゃって。——シャワーを浴びて来るわ」
「じゃ、行きましょう。松原さん、失礼します」
啓子は、聡子と一緒に、ホテルの部屋へと戻って行った。
「恵《けい》一《いち》、ちゃんと宿題やってんのかしら」
と、聡子がドアをノックする。「恵一。——開けてよ。恵一!」
返事がない。
「どこかに行ったんじゃないかしら」
と、啓子は言った。「キーは?」
「持ってないわ。だって、恵一がいるから……。眠ってるのかも。——恵一!」
強くドアを叩《たた》いたが、何の反応もない。
「しょうがないわ。フロントで、キーを借りて来ましょ」
「全く! 何やってんのかしら!」
と、聡子はため息をついた。
と、何かが足に当る。
「あら。キーが落ちてる」
「本当だわ」
なぜこんな所に?——啓子は首をかしげて、拾い上げた。間違いなくこの部屋のキーだ。
ともかく、中へ入ってみる。
「恵一——」
と、言いかけて、聡子は息を呑《の》んだ。
「まあ」
部屋の中に、恵一の勉強道具が散乱していた。椅子《いす》も引っくり返っているし、スタンドも床に転《ころ》がっていた。
「何があったのかしら?」
「分らないわ。——恵一!」
聡子は、バスルームを覗《のぞ》いた。
「ただごとじゃないわね」
啓子は、椅子を起こして戻すと、「聡子ちゃん。——聡子ちゃん」
バスルームへ入ったきり、出て来ないのだ。啓子も、バスルームへ入って行った。
聡子が、じっと鏡を見つめている。
「どうしたの?」
鏡へ目をやった啓子は、ギクリとした。鏡の上に、口紅で文字が書かれている。
〈弟は預かった。言う通りにしないと〉
思わせぶりに、そこで終っている。
「何てこと! 恵一君を……」
聡子は、固い表情で、
「私のせいだわ」
と、言った。「私が、一人でいい子ぶったりするから!」
「聡子ちゃん……。大丈夫よ。恵一君、しっかりしてるから」
「そんなこと、どうして分るの!」
聡子が、啓子の手を強く払って、「いい加減なこと言わないで!」
——聡子は、大きく息を吐《は》いた。
「ごめんなさい」
「いいのよ。本当だわ」
と、啓子は、聡子の肩を抱いた。「でも、あなた一人で責任をしょっちゃだめ。私と二人の責任よ。何とか考えましょう」
「ええ」
聡子は、肯《うなず》いた。
「これはこのまま残しておいた方がいいわ」
と、啓子は鏡の文字を見て、「何かの手がかりになるかも」
「でも——明日、お掃除の人が入ったら、見られてしまうわ」
聡子は、部屋へ戻って、ベッドに腰をおろした。
「でも、妙《みよう》ね」
と、啓子は考え込んだ。「何の目的で恵一君をさらったりしたのかしら?」
「それは私の——」
「例の犯人を見付けようとしているのをやめさせるため? でも、恵一君は、ロケ隊の人なら、みんなの顔を知っているわ。そんなの逆効果じゃない?」
「恵一を殺すつもりかしら」
「まさか!」
「でも、顔が分ってもいいと思っているのなら……」
「そんな無茶をしないと思うわ。いくら何でも——。殺人狂ってわけじゃないんだから」
「ええ……」
聡子は、しばらく、顔を伏せたまま、動かなかった。
電話が鳴った。聡子がハッと飛び上るように立ち上った。
「私が出るわ」
啓子は受話器を取った。「——はい」
「ケイちゃんか」
峰川の声だ。「聡子君の用意は? できればやってしまいたいんだ」
「あの——監督、実は——」
「どうした?」
「ちょっと聡子ちゃん、頭が痛いんですって」
「本当か? そりゃいけないな」
「今夜は大事を取って、寝かせてやりたいんですが」
「そうか。——うん、分った。大分無理してるからな」
「すみませんが——」
と、啓子が言いかけると、
「啓子さん」
と、聡子がやって来た。「私、やるわ」
「でも——」
「大丈夫。セリフは入ってるし。いつまでもここにいても、どうにもならないもの」
啓子は、聡子の目を見つめて、
「やるのね?」
と、念を押した。
「ええ。シャワーを浴《あ》びる間、待ってもらって」
「いいわ。——監督、聡子ちゃん、やるそうです」
「大丈夫か?」
「何とか。三十分待って下さい」
「分った。待ってるから、あわてなくてもいいよ」
啓子が受話器を置いた時には、もう聡子は服を脱《ぬ》いで、シャワーを浴びにバスルームへ入って行っていた。
——何とかして、私が恵一君を取り戻さなきゃ、と啓子は思った。
聡子が、安心して演技に打ち込めるようにするのが、啓子の役目である。となれば、この事件も、啓子が何とかするべきかもしれなかった。
もちろん、まず恵一を安全に取り戻すことだ。
しかし——犯人も、ここへロ《ヽ》ケ《ヽ》隊《ヽ》の一人として来ているのだろう。
そうなると、恵一をさらって、ど《ヽ》こ《ヽ》に《ヽ》置いておくのだろうか?
ホテルの中に監禁するなんてことはできっこない。ということは……。
それに犯人の目的も、よく分らない。
「そうだわ」
と、啓子は呟《つぶや》いた。
今、夜間の撮影に出《ヽ》て《ヽ》い《ヽ》な《ヽ》い《ヽ》誰かがやったに違いない。——そうなると、可能な人間は絞《しぼ》られて来るわけだ。
ドアをノックする音がした。
「どなた?」
「僕だよ」
剣《けん》崎《ざき》の声だ。
「今、聡子ちゃん、シャワーよ」
ドア越しに答える。「何か用?」
「ちょっと、ニュースがあるんだ」
「待って」
啓子は、ドアを開けて、廊《ろう》下《か》へ出ると、チェーンを挟《はさ》んで、ドアが閉じないようにした。
「どうしたの?」
「今ね、ちょっと廊下を歩いてて、見かけたのさ」
と、剣崎は言った。
「誰を?」
「井関真弓の部屋から、こっそり出て来る男《ヽ》をね」
「真弓さん、今は撮《と》ってる最中よ」
「十五分ばかり前に休憩で戻ったのさ。見てたよ」
「じゃ、その間に?」
「たぶんね」
「男って、誰?」
「誰だと思う?」
剣崎はニヤリと笑った。「あの可愛《かわい》い坊やだぜ」
「君《きみ》永《なが》はじめ?」
啓子は目を丸くした。
「そう。大胆な奴《やつ》じゃないか。ボスの彼女に手を出すなんて」
啓子にしても、信じられないような話である。
松原は知っているのだろうか? いや、知っていれば、すぐにも君永を叩《たた》き出すに違いない。
「——お待たせして」
聡子の声がした。
啓子はドアを開けた。
「あら、剣崎さん」
聡子は、みごとに微《ほほ》笑《え》んで見せた。