十一時だった。
夜中である。——いや、剣《けん》崎《ざき》の感覚で言えば、そう遅い時間ではない。しかし、こういう場所では、十一時は、もう真夜中なのである。
ただ、その真夜中の一角に、「昼間」があった。まぶしいライト。人々の熱気。
「——OK!」
と、峰《みね》川《かわ》が声を上げた。「よし、今ので決りだ」
剣崎はホッと息をついた。
「監《かん》督《とく》、もう今夜は寝ていいね?」
「ああ。明日は予定通りだから」
と峰川が手を振《ふ》って、すぐに、「聡《さと》子《こ》君、いいかな?」
「メイクが途中です」
と、助監督の声が返って来る。
「よし。——十五分したら始めよう。おい、レールを、少し動かしてくれ。こっち側へのばすんだ」
峰川は、正《まさ》に息を継《つ》ぐ間もなく、次のシーンの準備に入っている。
剣崎は首を振って、
「お気を付けて」
と呟《つぶや》いた。「——ケイ」
水《みず》浜《はま》啓《けい》子《こ》の姿が見えない。剣崎は、ちょっと妙《みよう》な気がした。
色々、物《ぶつ》騒《そう》なことがあったのだし、ケイがいないなんて、おかしいじゃないか……。
しかし、もちろん、スタッフは大勢周囲にいるのだし、それにあの畠《はた》中《なか》という刑《けい》事《じ》もいる。木立ちの陰《かげ》に、ほとんど目につかないように立っている。
大した男だな、と剣崎は感心した。何気なく立っているようで、畠中の位置からは、常に聡子を見ていられるし、万一、彼女の身に危険が迫っても、大きな障害なしに、突《つ》っ走《ぱし》って行けるのである。
ちゃんと、計算した上で、場所を選んでいるのだ。
剣崎は、ホテルの建物の方へと戻《もど》って行った。もちろん、聡子の弟が誘《ゆう》拐《かい》されたなどということは、知らない。
知っていれば、当然、啓子が姿を見せないのはそのせいだと分るのだが、啓子も剣崎にそこまで教えてはいなかったのである。
「——寝るか」
ロケに来ると、することがない。特にこんな山の中では、ホテルといっても、至って早じまいである。
部屋へ戻って寝るぐらいしか、することがないのだ。——いやでも健全な生活を送ることになる。
廊下を歩いて行くと、かすかな足音が後ろからついて来た。振り向くと、若い女がピタッと足を止めた。
「何か?」
と、剣崎は訊《き》いた。
「あの……。すみません。サインしていただけますか」
「ああ。いいですよ」
剣崎は、可愛《かわい》い女の子の頼みは、原則として断らない。「何か書くものを?」
二十歳を少し出たぐらいだろうか。少し太った体つきだが、なかなか可愛い顔立ちである。
しかし——どこかで見たような気がする。
差し出された色紙に、サインペンでサラサラとサインをし、日付を書き加える。
「すみません! 大事にします」
「君……。どこかで、会った?」
これは、下手《へた》な口《く》説《ど》き文句の一つである。まるで会ったことのない、しかも声をかける、必然的な理由の全くない女性に何としても話しかけたい時、頭にまずこ《ヽ》れ《ヽ》を使うと、ともかく、一応のやりとりだけはできるのだ。
しかし、今の場合は、剣崎が正直に訊《き》いてみたセリフだった。
「あの——」
と、女の子は、ちょっと照れくさそうに、「お部《へ》屋《や》のお掃《そう》除《じ》で」
「ああ! そうか」
毎日、部屋の掃除に来ている、ここの従業員なのだ。「制服じゃないと、分らないよ。でも、どこかで見たな、と思ったんだ」
女の子は、照れたようにうつむいた。——その風《ふ》情《ぜい》が、なかなかいい。剣崎は、眠《ねむ》気《け》がさめてしまった。
「待っててくれたの?」
と、剣崎が訊く。
「はい。夕方で終りなんですけど」
「じゃ、夕方から、今までずっと? そりゃ大変だったね」
「撮《さつ》影《えい》が始まったんで、二階の窓から、見てました」
「じゃ、僕の出番の終るのを見て?」
「そうです」
「いや、それぐらい気をつかってくれると、ありがたいな」
剣崎は、ちょっと周囲を見回して、「——ちょっと何か飲める所ってないかな。一《いつ》緒《しよ》にどう?」
と、言った。
「私、ですか……」
と、目を見開く。
「うん。こっちも一人で飲むんじゃつまらないしね。でも、バーはもう閉ってるんだろう?」
「開けられますよ。フロントの人に頼めば……」
「そうかい? じゃ、一《いつ》杯《ぱい》付《つき》合《あ》ってくれないか?」
「私……あんまり強くないんですけど」
「一杯だけさ。構《かま》わないだろ?」
剣崎が微《ほほ》笑《え》みかけると、その女の子の口もとにも、笑みが浮《うか》んだ。
「——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですか?」
「うん?——ああ、平気だよ」
剣崎は、真直《まつす》ぐ歩いているつ《ヽ》も《ヽ》り《ヽ》だった。「どうして、この廊下、こう曲ってるんだい?」
要するに足下がふらついているのだ。
一時間ほど飲んだだけなのだが、このところ、あまりアルコールをまとめて飲んでいなかったせいもあって、よく効《ヽ》い《ヽ》た《ヽ》。
おまけに、付合った女の子が、やたらに強くて、今もほんのり頬《ほお》を赤くしているだけなのだ。
「君——強いじゃないか」
「そんなこと……」
「いや……。僕が弱くなったのかなあ。そうかもしれんね」
剣崎は、ふらっとよろけると、壁にぶつかった。「——おっと!」
「危い!」
と、女の子が、抱きかかえるようにして支えて……。
剣崎は、彼女の顔を両手で捉《とら》え、キスしていた。相手も、別にびっくりした風でもなく、おとなしくキスされるままになっている。
「君……可愛《かわい》いね」
と、剣崎はニヤついた。
「そうですか?」
「うん。——どう? 今夜、もうちょっと、付《つき》合《あ》わないか」
「あなたの部《へ》屋《や》で?」
「うん」
と言ったが、「いや、うるさい奴《やつ》がいるからな、何しろ。どこか、いい所、ないかい?」
「部屋は、鍵《かぎ》かかってますよ」
「そうか」
「かかってないのは、備品室ぐらい」
「何だ、それ?」
「毛布とかシーツをしまっておく部屋です。ちょっと窮《きゆう》屈《くつ》ですけど、居《い》心《ごこ》地《ち》は悪くないんですよ」
「へえ。経験済み?」
「いやだ」
と、笑って、「ここで働いてる子で、ちょくちょく使ってる子がいるから、聞いたんです」
「本当かな?」
「本当ですよ」
「よし。じゃ、一つ試してみるか」
「こっちです」
どこをどう曲ったのか、剣崎にはさっぱり分らなかった。
頑《がん》丈《じよう》そうなドアが一つあって、そこを開けると、中に短い廊下があり、その両側にドアがある。
「こっちです」
「——誰《だれ》か使用中ってことは?」
「こんな時間は、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですよ」
「そうか……」
そのドアを開けると、中は、意外なほど広く、毛布やシーツがたたまれて、山のように積んである。
「なるほど。こりゃいいや」
と、剣崎は笑った。
「ちょっと埃《ほこり》っぽいですけど」
「なに、暗きゃ分らないさ。——寝るには不自由しないね」
ドアを閉めると真《まつ》暗《くら》になる。いくら何でもこれじゃ……。
「ちょっと暗すぎるんじゃないか?」
と、剣崎は言った。「間《ま》違《ちが》って毛布にキスしちまいそうだ」
「待って下さい」
と、声がして、天《てん》井《じよう》の小さな灯がつく。
「うん。いいムードだ」
剣崎は、積んである毛布の上に腰をおろした。
「君——ちょっと脱《ぬ》いでみてくれよ」
「恥《は》ずかしいわ……」
なんて言いながら、どうにも純《じゆん》情《じよう》可《か》憐《れん》とは縁《えん》遠《どお》い手つきで、サッサと服を脱いだと思うと、
「見ないで!」
と言いながら、剣崎に飛びついて行く。
「ワッ!」
剣崎が、圧倒されて引っくり返った。
ラブシーンというよりは、むしろプロレスでもやってる感じで、正《まさ》に組んずほぐれつ、の大《だい》奮《ふん》戦《せん》。
だが、二人ともいささか派《は》手《で》に転げ回り過ぎた。奥《おく》の方に、ぐっと盛《も》り高く、天井まで届くかというくらいに積み上げてあるシーツの山が、二人の動きで揺《ゆ》さぶられ、徐《じよ》々《じよ》に、傾いて来たと思うと——ドッと二人の上に崩《くず》れて来る。
「お、おい——どうなってるんだ!」
たかがシーツや毛布といっても、何十枚、何百枚となれば結《けつ》構《こう》な重さである。
二人は、必死で押しのけ、かき分けて、顔を出すと、フーッと息をついた。
「ああ、死ぬかと思った」
剣崎は頭を振《ふ》った。
「大変だわ。これ——元の通りに積んどかないと」
と、女の子が、うんざりしたような声を出す。
「そうか。僕も手伝うよ」
と、剣崎の方も、つい人がいい。
「優《やさ》しいんですね!」
と、女の子がキスして来る。
「ね——君、ちょっと。——やっぱりここじゃ、落ちつかないよ。部屋へ行こうよ。こういうことはベッドの上でないと、何だか……」
剣崎が言葉を切ったのは、相手の女の子が、何やらポカンと口を開けて、びっくりしたように目を見開いていたからだ。
「あれ、何かしら?」
「あれって?」
剣崎は女の子が見ている方へ目をやったが……。
「おい!」
崩《くず》れて来たシーツの山の向こう、壁との隙《すき》間《ま》に、押し込まれるようにして、誰《だれ》かが倒《たお》れている。いや、縛《しば》られて、猿《さる》ぐつわをかまされているのだ。
「明りを! ドアを開けて明るくしてくれ!」
「だって、私——」
女の子はもう裸《はだか》同《どう》然《ぜん》の格好なのである。
「それじゃ服を着ろよ」
「脱《ぬ》いだもの、シーツや毛布の下になっちゃった」
剣崎は、弱い光の下で、シーツの海(?)をかき分けるようにして進んで行った。
「やっぱりか! おい、しっかりしろ!」
恵《けい》一《いち》だった。手足を縛られて、猿ぐつわ。気を失っている様子だ。
「何てひどいことを!」
剣崎も、こういう子供がいじめられているのを見ると猛《もう》烈《れつ》に腹が立つ。「おい! 手伝ってくれよ。この子を運び出す」
「はい……」
二人がかりで、恵一をかついで、ドアの方まで運んで来ると、床《ゆか》へおろした。
「——死んでるの?」
と、女の子がこわごわ覗《のぞ》き込む。
「いや。——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。失《しつ》神《しん》してるだけだ」
「知ってるんですか、この子?」
「永《なが》谷《たに》聡《さと》子《こ》の弟だよ」
「え?——あ《ヽ》の《ヽ》聡子ちゃんの?」
「そうだ。いや、助かった! 君のおかげだよ」
剣崎は、女の子に素《す》早《ばや》くキスした。「僕はこの子をともかく運び出す。君……」
と、チラッと眺《なが》めて、
「いい体してるね。しかし、今は残念だけど時間がない」
「じゃ、また今度? きっとですね」
「もちろん!」
またのんびりと二人がキスなどしているのを、もし恵一が見ていたら、後できっと恨《うら》まれただろうが……。
「剣崎さん!」
聡子は、剣崎に飛びつくと、思い切りキスした。剣崎が目を白黒させる。
「ありがとう! 何てお礼を言っていいのか——」
「いや……。まあ、運が良かったのさ」
剣崎はニヤニヤしながら、「何なら後でゆっくりもう一度……」
「もうそれで充《じゆう》分《ぶん》」
と、啓子が冷ややかに言って、二人を分けた。
「そうです。今は恵一君の話を聞くのが先決ですよ」
と、畠中刑事も、少々ふくれっつらで言った。
聡子が剣崎にキスするのを目の前で見せられて面《おも》白《しろ》くないのだ。
「それに、大体——」
と、啓子が言った。「あんな所で何をやってたのよ」
「そんなこといいじゃないの」
と、聡子が取りなすように、「大切なのは結果だわ」
「そうだそうだ」
剣崎が手を叩《たた》く。
いささか大人《おとな》げないやり取りが続いた後、
「——恵一、大丈夫?」
と、聡子はベッドに寝ている恵一の方へかがみ込んだ。
「うん……」
恵一はメガネを直して、「ちょっと寝過ぎたみたいだよ」
と言った。
「呑《のん》気《き》なこと言って!」
聡子はポンと弟の頭を叩いた。
——しかし、恵一の話では、一向に誰がやったのかは分らなかった。
「ともかく、トントンってドアを叩く音がしたんだ」
「開けちゃったの?」
「うん。だって、まさか……」
それはそうだ。まさかこんな所に押し込みが入るとも思えない。
「で、開けたらさ、スポッと何だか布の袋みたいなのかぶせられて——」
「じゃ、相手の顔は見なかったの?」
「うん。でも一人じゃなかったよ」
「そう。声とかは?」
「全然。そのまま、中へ連れ込まれて、薬みたいなのかがされて……」
畠中と聡子は顔を見合わせた。
「——これじゃ手がかりにならないな」
と、畠中は言った。「もちろん、恵一君のせいじゃないけどね」
「せめて話の断片でも、耳に入らなかったの?」
「無《む》茶《ちや》言わないでよ」
と、恵一は顔をしかめた。「こう見えても怖《こわ》かったんだぜ」
剣崎がつい笑い出して、みんなにジロッとにらまれた。
「ともかく、犯人側も焦《あせ》っているな」
と、畠中は肯《うなず》いて、「こんな危《あぶな》いことをして。——しかし、恵一君をエサにして、何をするつもりだったんだろう」
「私が狙《ねら》いでしょ」
と、聡子は言った。「でも、よく分らないわ。一《いつ》旦《たん》口をふさぐくらいじゃ、どうしようもないのに」
「つまり——」
と、啓子が言った。「永《ヽ》久《ヽ》に《ヽ》口をふさぐってことだわ」
「私を殺して? そうね。——もう、犯人の方としては、それしかないんでしょうね。ずっと恵一を捕《つか》まえとくわけにもいかないんだから」
「他の手で、聡子ちゃんの口をふさぐってわけにはいかないことが分ったのよ、きっと」
「しかし、あの殺された芳《よし》村《むら》志《し》乃《の》という子といい、この恵一君の誘《ゆう》拐《かい》といい、犯人も大《だい》胆《たん》だな」
と、畠中は首を振った。「これはもしかすると……」
「何です?」
聡子が見ると、畠中は、ちょっと目を見開いて、
「犯人は恵一君をあそこへ押し込んで、どうするつもりだったんだろう?」
と、言った。
「え?」
「いや、つまりですね、恵一君をあそこへどれくらいの時間、隠《かく》しておけたか、ということです」
「どうかな」
剣崎が腕組みをして、「もし恵一君が、目を覚《さ》まして暴《あば》れたら、いくら手足を縛《しば》られてても、誰かが気付くだろうね」
「ということは、今夜の内に、恵一君をどこかへ移すつもりかもしれない」
「——そうだわ!」
と、聡子も目を輝《かがや》かせて、「朝になったら、もう人目があるもの」
「でも、それならどうして初めから、どこかへ運んで行かなかったのかしら」
と、啓子が言った。
「庭を通って運ぶとすれば、無理ですよ」
と、畠中が言った。「庭じゃ、ロケの最中だ」
「それが終るのを、待ってたんだわ」
聡子は、窓へ駆《か》け寄《よ》った。
庭では、まだ後《あと》片《かた》付《づ》けの最中である。人が大勢いる。
「今、午前二時半だ」
と、畠中が言った。「朝までは間がありますよ」
「じゃ、犯人は、恵一が助け出されたことを知らないんだから……」
「あの備品室へやって来る!」
畠中はパチンと指を鳴らした。「よし。そこで待ち伏《ぶ》せしよう。きっと現われますよ」
「いいわ」
啓子が指をポキポキ鳴らした。「取っ捕《つか》まえて、あばら骨の一本もへし折ってやらなきゃ」
「おっかねえ……」
と、恵一が呟《つぶや》いた。
「聡子ちゃんはだめよ」
と、啓子が言うと、聡子はむくれて、
「どうして?」
「当り前でしょ! けがでもしたらどうするの?」
「うん……。分ったわ」
「剣崎さん。あんたはね、ここで聡子ちゃんと恵一君の護《ご》衛《えい》」
「分ったよ」
剣崎は大体、暴力の苦手なタイプである。ホッとしたように、肯《うなず》いた。
「でも、例の女の子がしゃべらないかな」
「そうね。ペラペラしゃべりまくられたら、困るわ。——じゃ、剣崎さん、ここへ呼んで、お話でもしていれば?」
「ここで?」
「何ならラブシーンでもいいよ」
と、恵一が言った。「見学してるから」