問題は、ないわけではない。
啓子は、畠中と二人で、備品室の中に、身を潜《ひそ》めていた。——もちろん、弱い明りだけはついていたが、隅《すみ》の方は暗がりになって、そこに身を潜めると、まず目につかない。
崩《くず》れ落ちたシーツや毛布の山も、何とか元に近い形まで、回《ヽ》復《ヽ》していた。
「聡子ちゃんの気持は分りますがね」
と、畠中が、低い声で言った。「しかし、こうなっては、もう内密に、というわけにはいかないでしょう」
「ええ」
啓子にも、その点は分っている。——あの暴行殺人があって、事情は大きく変った。
聡子は、もし犯人が捕《つか》まって、それが映画「殺意のプリズム」のメインキャストかスタッフだった場合、映画そのものが、ここまで来て、「中止」という結果になるのを心配していたのだ。
しかし、聡子の個人的な復《ふく》讐《しゆう》を越《こ》えて、今や、新しい殺人にまで発展してしまっている。——もう、ことは映画一本の運命を越えてしまっているのである……。
峰川さんには気の毒だけど、と啓子は思った。何といっても、ライフワークとして張り切っている。
これが中止にでもなれば、がっくり来ることだろうが、仕《し》方《かた》あるまい。
「——しっ」
と、畠中が囁《ささや》く。「足音です」
そう、足音だった。もちろん廊下はカーペットなので、かすかにしか音がしないのだが、それでも、畠中の敏《びん》感《かん》な耳は、それを聞き取っていた。
近《ちか》付《づ》いて来る。——そして足音は、備品室の前で止った。
来た! 啓子は息を殺して、ドアが開くのを待っていた。
ドアがカチャリと音をたて、そっと細く開いた。廊下の明りが、細い光の筋になって、床《ゆか》へ伸《の》びる。
中を覗《のぞ》き込んでいる。
そして、ドアはゆっくりと開いた。
中へ入って来たのは、男だった。シルエットに近いので、良く分らなかったが。
男は、ちょっと戸《と》惑《まど》ったように左右へ目をやった。
その時、男の顔が見えた。——啓子はアッと声を上げそうになって、あわてて口を押《おさ》えた。
小《こ》林《ばやし》準《じゆん》一《いち》だ! 井《い》関《せき》真《ま》弓《ゆみ》の兄である。
しかし、なぜ彼が?
自分でも気付かない内に、啓子は、何か音をたてていたらしい。——小林準一は振《ふ》り向いて、
「誰《だれ》かいるのか?」
と、声をかけたのである。
畠中が立ち上った。
「小林さんですね。畠中です」
「ああ」
小林は、びっくりした様子で、「刑《けい》事《じ》さんですね。——こんな所で、何を?」
「小林さん」
啓子も立ち上ると、「何しに来たんですか、ここへ?」
「やあ、これは……。いや、僕は——」
小林が頭をかく。「手紙がね」
「手紙?」
「そう。ここで待ってるからって……」
「誰から?」
「いや、分らないんだ。部屋へ戻ったら、ドアの下に、これが差し込んであってね」
と、小林がポケットから紙《し》片《へん》を出す。
「見せて下さい」
畠中は、それを受け取って広げた。
女の字だろうか。走り書きだ。
〈撮《さつ》影《えい》が終ったら、備品室でお待ちしています〉
「誰だろう、と思ったんですがね」
と、小林は肩をすくめて、「でも、まあ行くだけ行ってみようかと」
畠中は、その手紙をポケットへ入れると、ドアから廊下へ出て、左右を見回した。
「やられたな」
と、畠中は呟《つぶや》いた。「これじゃ、待ってもむだだ」
「犯人の方が一枚上《うわ》手《て》ですね」
と、啓子は言った。「小林さん。でも、用心なさった方がいいわ。こんな時ですもの」
「うん……」
小林は、わけが分らない様子で、ポカンとして突っ立っていた……。
朝食は、それでも十時ごろになった。
前の晩、遅くまでやっていたので、みんな眠そうだったが、一応、食堂に全員の顔は揃《そろ》っていた。
「——全く、しゃくに触《さわ》るな」
と、畠中が、珍《めずら》しくしかめっつらをしている。
「でも、本当に小林さん……」
と、聡子が、低い声で言った。
「そう。もちろん可能性はありますよ」
畠中が肯《うなず》いて、「わざと、あのメモを自分で書いて持っていれば、言いぬけられますからね」
「でも、もし本当に犯人があれを小林さんの部屋へ入れておいたのなら、頭のいい奴《やつ》だわ」
と、啓子はコーヒーを飲みながら言った。
「そうですね。小林さんを行かせておいて、自分はどこかに隠れて様子を見ている。何でもなければ、小林さんも、あのメモがいたずらだったんだろうと思って帰って行く。その後から入って、恵一君を運び出せばいいんですから」
「僕、どこへ運ばれることになってたのかなあ」
と、恵一が言った。「どうせなら、宿題をやる前にしてほしかった」
「何言ってんの」
と、聡子は恵一をつついた。「あの世へ運ばれてたかもしれないのよ」
「それはちょっと困るな」
恵一の言い方に、同じテーブルについている啓子や剣崎が笑い出した。
「おはよう」
峰川が、早々と食事を終えて、聡子たちのテーブルの方へやって来た。
「監《かん》督《とく》、おはようございます」
「今日も暑そうだ。——外で大変だが、頼むよ」
「はい」
聡子は、ニッコリと笑った。
「少しセリフを削《けず》ったんだ。後で届けるからね」
「分りました」
峰川は、助監督とカメラマンの宮《みや》内《うち》を連れて、先に食堂を出て行った。
「——今日は何のシーンですか」
と、畠中が言った。
「今日は大変ですわ」
と、啓子が言った。「ヘリコプターも使うし、かなり危《あぶな》い場面なんです」
「しかし、もちろんスタンド・インが……」
「用意はしています。でも、聡子ちゃん、自分でやると言ってますから」
「役者ですもの。やらなきゃ」
と、聡子は言った。
「しかし、心配だな、それは」
と、畠中が顔をしかめて、「できるだけ、スタンド・インでやって下さい」
「何とかやれますわ」
と、聡子は言った。
「火薬なんかも使うのよ」
と、啓子は心配そうに、「やけどでもしたら大変」
「もし犯人が何かをしかけて来るとしたら——」
「今日は絶好ですわ。もちろん、犯人の方にも知識が必要ですけど」
「忘れないで下さい。スタジオでセットが崩《くず》れて来た時のことを」
と、畠中が言った。「私じゃ、聡子さんの代りはできないしな」
半分は本気らしい。
「でも、今のカメラって性能がいいですからね。相当のロングショットでも、顔が見えてしまいます。スタンド・インを使うのも楽じゃないんですよ」
「しかし、聡子さんに万一のことがあっては……」
「大丈夫です」
と、聡子は微《び》笑《しよう》した。「充《じゆう》分《ぶん》気を付けますから」
「僕も目を光らしてるよ」
と、剣崎が言った。
「女の子に、でしょ」
啓子がからかう。
そろそろ立とうか、と思っていると、
「おはようございます」
と、制服姿の、昨夜の女の子がやって来た。
「やあ。ゆうべは——」
と言いかけて、剣崎はあわてて口をつぐむ。
「あの、ちょっとお話が……」
「お二人で?」
と、啓子が冷やかした。
「こ《ヽ》れ《ヽ》なんです」
と、その女の子が取り出したのは、小さなくしゃくしゃの紙きれだった。
「何だい?」
「お掃《そう》除《じ》してたんです。あの——昨日、殺された女の子のいた部屋」
と、低い声になって、「そしたら、鏡の裏側に何か見えるので、手を入れてみたら、これが押《お》し込んであって……」
「見せて」
と、畠中は受け取ると、広げて、「これは——」
と、言葉を切った。
「何ですか」
「呼び出す手紙だ。あの女の子を」
「じゃ、誰《だれ》が書いたか……」
「いや、そこまでは書いていませんね。しかし、筆跡で分るでしょう。調べてみます。いいものを持って来てくれた」
「どうも」
と、女の子は照れている。
「剣崎さん」
啓子がつついて、「今夜こそ、付《つき》合《あ》ってあげたら?」
「そんな……。ねえ、君?」
剣崎だって、満《まん》更《ざら》ではないのである。
聡子は、ベッドに横になっていた。
ロケの現場までは車で十分。向こうの準備がしばらくかかるので、まだ出る必要はないのだ。
「——少し眠ったら?」
と、啓子は、スケジュール表を眺《なが》めて、あれこれやりながら、声をかけた。
「もう眠くないわ」
「恵一君は?」
「ゲームセンター。大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。今、ホテルは混んでるもの」
「そう」
啓子は、息をついて、「帰ってから、大変だわ。夏休みの終りまで、全然休みはないわね」
「そんなの構《かま》わない」
と、聡子は言った。「ただ——無事にすめば」
「撮《さつ》影《えい》が?」
「何もかも」
聡子は、じっと天《てん》井《じよう》を見上げながら、「ねえ、啓子さん」
「なあに?」
「充分用心するけど……。万全ってわけにはいかないんだし、私でなきゃできない所もあるし……。もし、私に万一のことがあったら、恵一をお願いね」
「ちょっと。——やめてよ、変なこと言わないで」
「ごめん」
と、聡子は笑った。「ただ、念のため、よ」
「大丈夫。あなたは長生きするわ。そういうエネルギーを感じるの」
聡子は、ちょっと笑った。
——しかし、一体誰が恵一を誘《ゆう》拐《かい》しようとしたのだろう?
犯人が一人でない、ということが確かなら、つまり東《あずま》ルミ子に乱暴を働いた人間の内の何人かは、少なくとも、ここへ来ている、ということだろう。
「かなり思い切ったことをやるわね」
と、聡子は言った。
「え?」
「犯人よ」
「ああ。——そうね。波《は》乱《らん》含《ぶく》みね」
「この映画も、どうなるか……。一《いつ》生《しよう》懸《けん》命《めい》やって、オクラ入りじゃね」
電話が鳴った。啓子が取る。
「はい。——え?——あ、社長!」
と、目を丸くして、「いらしたんですか? じゃ、行きます、今」
聡子が起き上る。
「社長さん?」
「ああ、びっくりした」
啓子は首を振《ふ》って、「眠《ねむ》気《け》がさめちゃったわ」
——二人してロビーへ出て行くと、社長の山《やま》内《うち》が、ロビーのソファに引っくり返って、ハアハア息をついている。
「いや、暑いな!」
「社長、どうしたんですか」
と、啓子が言った。「突《とつ》然《ぜん》みえるんですもの」
「悪いか? 心配になったんだ」
山内は、いつもながら、心配性の顔をしている。
「事件があったんだって?」
「ええ。——でも、今のところは、撮《さつ》影《えい》も順《じゆん》調《ちよう》です」
「ということは、もし、これで何かあれば、損害は大きいってことだ」
「また、社長は心配性なんだから」
啓子は、ニヤリと笑って、「禿《は》げますよ」
「頭の心配など、してもらわんでもいい」
と、山内は顔をしかめた。「おい、どうだ調子は?」
聡子は微《ほほ》笑《え》んで、
「はい。体調もいいです。ここ、空気がいいんですよ」
「そうか」
聡子の元気そうな様子を見て、山内は、やっと安心したようだった。
「社長、お部屋は?」
「まだだ。空きの一つや二つ、あるだろう」
「このシーズンですよ! 訊《き》いて来ます」
啓子が駆《か》けて行って、フロントにねじ込み、やっと一部屋、もぎ取って来た。
「満室ですよ、表向きは。何とか確保しましたけど」
と、キーを渡す。
「すまん。思い立って出て来たんでな」
山内は、ふと思い出したように、「そうだ、何かニュースがあったぞ」
「何ですか?」
山内は、ちょっと首をかしげて、
「何だったかな」
「社長、もうぼけたんですか?」
「変なことを言うな。——ああ、そうだ」
と、山内は肯いて、「例のカメラマン殺しさ」
「太《おお》田《た》っていうカメラマン?」
「そんな名前だったな。あいつがもう一台カメラを持ってたそうだ」
「カメラを?」
「フィルムが抜《ぬ》かれていたのは一《いち》眼《がん》レフだったらしいが、もう一台、レンズシャッター付のカメラが、バッグに入っていて、それに誰かが写っていたらしい」
「へえ!」
啓子は、目をみはって、「じゃ、わざと違《ちが》うカメラを——」
「そうだろう。フィルムを抜かれたくなかったんじゃないか」
「隠《かく》しどりなら、レンズシャッターの方ですね。音が小さいから」
「じゃ、誰がうつってたんですか」
と、聡子が訊く。
「それは知らん。——まだはっきり割り出せていないらしい」
啓子は不思議そうに、
「でも、どうして社長、そんなこと、知ってるんです?」
「今、あの畠中とかいう刑事に聞いた」
「畠中さんに?」
「どこだかへ行かなきゃならんから、話してやってくれ、と言ってたぞ」
啓子と聡子は、顔を見合わせた。
畠中は、こんな時にどこへ行ったのだろう?
「——ここにいたのか」
峰川がやって来て、声をかけた。「そろそろ出かけるよ」
「はい」
聡子は、はっきりと答えた。